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| 蜻蛉鬼百合文乱箱 1916 - 1923年頃 |
藤井は上京してしばらくは、七宝の仕事を主としていましたが、明治四十三年頃、 陶芸を学び始めていたバーナード・リーチの所に行って、楽焼の見学したり、 高村光太郎が神田に開いた画廊に作品を並べるなど、次第に交遊関係を広げる とともに、さまざまな技法を習得していきました。神田の画廊では銅や陶器の 作品が陳列され、少しずつ売れていたようです。そして、明治末頃には作家として 認められるようになり、総合的な美術家の団体である日本美術協会や、工芸の 芸術的方向を研究するための団体・吾楽の会員になっています。また彼は、 大正元年に設立されたフュウザン会の創立会員にもなっています。この会では、 彼は刺繍の壁掛けを出品したという記録が残っていますが、当時の彼の油彩画も 現存しており、幅広い制作活動の様子がしのばれます。
専門の工芸家ばかりではなく画家や彫刻家など幅広い美術関係者との交際は、 藤井の工芸に対する自由な発想と、新しい芸術を創造するのだという考えを育み、 積極的に支えたものと思われます。一般の人々から遊離し、技術のための技術を 駆使して精細で末梢的な技巧に工夫を凝らすのみで、形や文様についての追究や 反省の余りなかった当時の工芸界に大して、自らの作品によって鋭い批判を投げ 掛けたのです。藤井の考える工芸は、生活との結び付きを大切にし、その中に、 作家の個性の表現、すなわち創作性が重要なものだったのです。そのため、 スケッチによって得たさまざまなデザイン、アザミや鬼百合、トンボなどの野草、 昆虫、あるいは風景といったものが装飾文様として大胆に用いられています。 しかもそれらの技法はさまざまな技法を併用し、細部にこだわらない大らかな 装飾がなされています。このような制作の方向は当時としては非常に斬新で、 高村豊周、西村敏彦ら大正末から昭和初期にかけて、日本の工芸の大きな転換期に 重要な役割を果たした工芸家たちに「今から考えると愚にもつかない技巧の争いの 中に一縷の光を認めさせ、若い人達を昂奮させた」(西村敏彦)のです。
藤井達吉は日本の工芸史の上で、大変重要な役割を果たしましたが、これまで その作品はあまり見ることはできませんでした。その理由は、彼の最も重要な時期 である大正時代の作品が、これまで公開されなかったことにあると思われます。 彼は昭和五年頃から工芸作家というよりは、教育者的な役割を担うようになり、 美術学校、郷里の愛知県などで若い人達に指導するようになりました。また、 戦後の作品はその多くが日本画であり、これまでは画家としてのイメ−ジが強く 持たれてきたのではないかと考えられます。さらに、制作の幅があまりに広すぎて、 焦点が定まりにくいことも、彼の評価を難しくさせている理由の一つかも 知れません。
今回、これまでほとんど見ることのなかった藤井達吉の作品を、広く公開することに なりました。そのほとんどが大正時代以来の公開です。これらの作品を通して 新しい工芸を追究していった、当時の彼の熱気をくみ取るとともに、これまで あまり顧みられなかった、藤井達吉の工芸作家としての正しい位置付けを試みる 機会となればと思います。
| 明治21年 | (1881) | 愛知県に生まれる。 |
| 明治31年 | (1898) | 名古屋の服部七宝店に入る。 |
| 明治37年 | (1904) | 服部七宝店がセントルイス万国博へ出品したのに従って渡米。 |
| 明治38年 | (1905) | ボストン美術館で東西の美術品に接する。 |
| 明治42年 | (1909) | 東京美術工芸展覧会に、七宝作品を出品。 |
| 明治43年 | (1910) | バーナード・リーチを知る。 |
| 明治44年 | (1911) | 吾楽会の会員となる。高村光太郎が神田に開いた画廊に陶器などを出品。 |
| 明治45年 | (1912) | フュウザン会ならびに国民美術協会の会員となる。 |
| (大正1年) | フュウザン会展に刺繍の壁掛けを出品。 | |
| 大正3年 | (1914) | 国民美術協会展に銅打ち出しの屏風などを出品。 |
| 大正4年 | (1915) | 第3回農展に屏風を出品。(大正6年第5回展まで出品) |
| 大正5年 | (1916) | この頃、原三溪のため制作を行う。 また、芝川照吉が藤井の作品の収集を始める。 |
| 大正7年 | (1918) | 津田青楓らと文展に工芸部門を設置する運動をする。 |
| 大正8年 | (1919) | 高村豊周らと装飾美術家協会を結成。 |
| 大正10年 | (1921) | 雑誌『主婦の友』に手芸制作法の執筆を始める。 |
| 大正11年 | (1922) | パリのグラン・パレで開催された日本美術展覧会に出品。 |
| 大正12年 | (1923) | 東京白木屋などで姉妹らとともに「家庭手芸作品展」を開催。 |
| 大正13年 | (1924) | 主婦の友社主催「家庭手芸品展覧会」を開設、審査に当たる。 |
| 大正14年 | (1925) | 高村豊周、広川松五郎らと「可志和会工芸展」を開催。 |
| 大正15年 | (1926) | 広川松五郎、木村和一らと「三ツ葉会美術染色作品展」を開催。 |
| (昭和1年) | 工芸団体『无型』創立に参加。 | |
| 昭和4年 | (1929) | 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の設立に当たり、 図案工芸科の教授となる。 |
| 昭和7年 | (1932) | 愛知県小原で和紙工芸の指導を始める。 |
| 昭和12年 | (1937) | 神奈川県真鶴に工房を作る。 帝国美術学校教授を辞任。 |
| 昭和17年 | (1942) | 照宮成子親王の御成婚祝賀献納屏風の制作にかかる。 |
| 昭和20年 | (1945) | 小原総合芸術研究会を発足。 |
| 昭和23年 | (1948) | 小原工芸会を設立。 |
| 昭和28年 | (1953) | 愛知県の美術館建設計画を知り、自作および所蔵作品を県に寄贈。 |
| 昭和39年 | (1964) | 愛知県岡崎で死去(83歳)。 |
| 展覧会名: | 藤井達吉展−近代工芸の先駆者 | |||||||
| 会期: | 1997年2月7日(金)〜3月16日(日) 月曜日休館 午前10時−午後5時(入場は午後4時30分まで) | |||||||
| 会場: | 東京国立近代美術館工芸館 〒102 東京都千代田区北の丸公園1 Tel. 03-3272-8600(NTTハローダイヤル) インターネット ホームページ アドレス http://www.momat.go.jp/ | |||||||
| 主催: | 東京国立近代美術館 | |||||||
| 観 覧 料: |
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| 無料観覧日: | 第1日曜日、第2・第4土曜日、第1・第3水曜日 (2月8日、19日、22日、3月2日、5日、8日) |
| 担 当: | 工芸課 白石和己、今井陽子 |
| 資料請求先: | 今井陽子 Tel. 03-3211-7781 Fax. 03-3211-7783 |
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| 【上図】蜻蛉文箱 1916 - 1923年頃 【右図】電気スタンド 1916 - 1923年頃 | ![]() |