2001年8月14日(火)〜11月4日(日)
会場:東京国立近代美術館フィルムセンター(京橋)
1930年代(昭和5年〜14年)の日本で印刷されたポスター、チラシ、そしてパンフレットや雑誌の表紙などには、なにかを伝えようとする意欲がみなぎっています。その伝えようとするメッセージ(内容)はさまざまでしたが、1920年代(大正9年〜昭和4年)のポスター類が装飾志向で、芸術品としての美しさを追求する傾向がつよかったのと較べると、そのさまがわりは驚くほどです。
この時期の印刷デザインが伝えようとしていたことのなかで、まず目を惹くのは、政治的宣伝(プロパガンダ)です。これにはプロレタリア思想を、芸術や、現実の労働運動・農民運動のなかで実践することを訴えたものと、それとは反対に、国家が国民教育を意図したものとの双方がありました。
これら二つの政治的宣伝が意図したところは対立していましたが、しかしそうした違いにもかかわらず、両者には通底する要素もありました。それは、どちらも大衆に直接語りかけ、大衆を動かそうとしたことです。1930年代の印刷デザインが、芸術的創作よりも宣伝という伝達機能を重視しはじめた背景には、大衆社会の登場があったということができるでしょう。
具体的に印刷デザインが、メッセージを伝えるために、どのような方法を編み出したかといえば、それは、ひとつにはメッセージを語る文字それ自体を強調させることでした。活字のように無性格な文字を避け、手で勢いよく書いたような、大小・強弱があって、個性的な文字を使いだしたのです。主義主張を担った文字は、そのひとつ一つが踊りだしてくるようです。
また、もうひとつの方法としては、メッセージを簡略化し、紋切り型に練り上げていくことでした。いわば、メッセージを標語化させたのですが、これは宣伝の文章だけではなく、図柄についてもいえることです。大衆の気持ちを掴むために、メッセージを分かりやすくしたというわけです。この標語化という手法を獲得することによって、印刷デザインはマス・メディアとしての機能に目覚めていきました。
こうした伝達機能を重視する傾向がつよまる一方で、この時期の印刷デザインにもかつてと同じように、西洋の最新動向を学ぼうとするものや、あるいは、商業的な宣伝を目的とするものも多数ありました。
建築や写真の専門雑誌の表紙には、バウハウスを源流とする幾何学的構成のグラフィック・デザインが見られます。とくに、1930年代になって一気に増えるカメラ雑誌の表紙には、新しい感覚があふれていました。具体的には、幾何構成の図柄や、清楚で軽快な文字の使用です。こうした理知的で客観的なフォルムを修得することによって、印刷デザインは、土着的な生活文化に縛られなくなりだした市民や都市のサラリーマン層に、国際的な文化動向への共鳴を呼び起こしていきました。
消費の喚起は、いつの時代もポスターやチラシにとって重要な責務でしたが、1930年代になると、その訴え方はより直接的・具体的になっていきます。工業的な商品生産が拡大し、経済的に余裕のある人たちが増えたことで、商品は実用的なモノとしてよりも、上流生活を演出する象徴としての性格が課せられ、ブランド化しました。いわば、商品が生活にステイタスを与えだしました。戦後、家電製品が家庭の「三種の神器」となりましたが、印刷デザインは、商品によって生活のあり方が実質的に規定されていく風潮の形成に一役買うことで、情報を伝達するメディアとしての機能を高めていったというわけです。
この展覧会は、モダンな都市生活が広まる一方で、社会運動が激化し、さらに戦争の跫音が近づいてきた1930年代の世相のなかで、印刷デザインが様々なメッセージを、どのような方法によって伝えようとしたのかを、つぎの4つの視点から探ります。出品される印刷物は、ポスター、チラシ、パンフレット、雑誌など、約110点です。
I 踊りだす文字 II 社会生活の標語化 III グラフィズムの新感覚 IV 商品化される市民生活
大正時代になるとプロレタリア思想が現実政治に影響を与えはじめますが、それがポスターなどの印刷デザインにまで浸透するのは昭和初期になってからでした。1928年に全日本無産者芸術連盟(略称ナップ)が創立され、また同年、東京左翼劇場が結成されました。「新興美術」と呼ばれた大正期の前衛美術で活躍した村山知義は、プロレタリア演劇の脚本や演出を手がけ、また同じく新興美術の画家として知られた柳瀬正夢は、労農運動のためのポスターをデザインしました。こうしたプロレタリアの美術や思想を大衆に向けて発信する方法として、この時期の印刷デザインは、躍動的な文字を使いはじめました。
第一次大戦後に労働者数が飛躍的に増えたこともあって、1920年代になると労働運動が一気に増えます。これに伴って、メーデーや各地での運動を支援するポスター類が求められだしました。一方、内務省は国民教育の目的で、生活道徳を提唱するポスターのコンクールをはじめています。どちらも、訴えようとするつよい意欲を感じさせますが、しかし、その言葉や図柄は意外にも紋切り型でした。誰にでも理解されるためには、標語のように簡潔な表現が求められると印刷デザインは考えはじめたのです。
1930年に創刊された「新興写真研究」、同じく1932年の「光画」、1933年の「写真サロン」などのカメラ雑誌は、ドイツのグラフ雑誌などを通じてバウハウスのグラフィック・デザインを日本に取り入れました。写真サロンの幾何学的構成による表紙デザインは、恩地孝四郎が担当しています。30年代末になると、ここで紹介された新しい感覚が、ポスターやパンフレットなどの一般的な媒体にも活用されていきます。
大正期に杉浦非水が結成した「七人社」の商業的ポスターは、西洋絵画の潮流を取り入れ、図案としての創作を重視しましたが、1930年代になると、写真を多用して商品をつよく印象づけるポスターが主流になっていきました。また、旅行ブームにも着目されて景勝地、交通機関、旅行案内のポスターが増えています。しかし消費生活や娯楽をうながしながらも、「京都へ 国粋文化の地」というコピーの付せられた観光ポスターや、朝鮮総督府鉄道局が制作した韓国旅行ポスターがあらわれるなど、そこには戦時体制が忍び込みはじめています。