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「土田麦僊展」

日本画の偉才−清雅なる理想美の世界

[会期・会場] 1997年9月13日(土)−10月19日(日)
東京国立近代美術館
東京都千代田区北の丸公園3(地下鉄東西線竹橋駅1b出口)
月曜日休館(ただし、9月15日は祭日のため開館、翌16日が休館)
TEL 03-3272-8600(NTTハローダイヤル)
東京国立近代美術館ホームページ: http://www.momat.go.jp/
[開館時間] 午前10時−午後5時(入場は午後4時30分まで)
※毎週金曜日は午後8時まで開館(入場は午後7時30分まで)
[観覧料]
当日前売り団体
一 般 1,250円1,100円900円
高校・大学生 900円750円500円
小・中学生 400円300円200円 団体は20名以上
前売券はチケットぴあ、チケットセゾン、ローソンチケット、CNプレイガイド、 JR東日本各駅他で発売
[主 催] 東京国立近代美術館京都国立近代美術館日本経済新聞社
[協 賛] 鹿島/村田製作所
[協 力] テレビ東京/日本ビクター
本展は、東京会場終了後、下記へ巡回いたします。
京都国立近代美術館 1997年10月28日(火)−11月30日(日)

 東京国立近代美術館では、1997年9月13日(土)から10月19日(日)まで、「土 田麦僊展」を開催します。本展は、西洋絵画や日本・中国の古画を融合して新 しい日本画を創造し、近代日本画に多大な影響を与えた土田麦僊の初期から晩 年にいたる代表作品から素描、小下絵、大下絵まで約150点を一堂に公開し、 日本画の偉才土田麦僊の芸術の全貌を明らかにするものです。

 土田麦僊(つちだ・ばくせん、1887-1936)は、新潟県佐渡に生まれ、師事し た竹内栖鳳のもとで西洋絵画を識り、新しい日本画の可能性を発見しました。 以来、麦僊は、30年余の画生活のすべてをかけ、新しい近代日本画の創造を目 指しました。その比類なき情熱と周到さを兼ね備えた研究心は徹底した自然美 の追求と時代を越え、幅広いジャンルの名画捗猟に及び、明治40年代初めにも たらされたゴーガン、ルノワール、セザンヌなど印象派以後の絵画から、平安 の仏画、桃山の障壁画や江戸の風俗画、浮世絵、さらに中国の宋、元の花鳥画 など様々な絵画様式への共鳴が作品の中に反映されています。本展は近代日本 画への扉を開いた土田麦僊の優美で清雅なる理想美の世界を一堂に展観できる 貴重な機会です。

日本画の新しい可能性を求めた多彩な試みは 近代日本画の確立という日本美術史上に大きな足跡を残した

 明治維新以降、わが国の美術界は伝統と西洋美術という新しい波との間で新 しい近代絵画の方向を模索していました。土田麦僊の30余年の画生活は近代絵 画としての日本画創造に全身全霊を捧げた、また、まさに近代日本画に課せら れた東西両美術との葛藤に敢然と立向ったと言うべき厳しいものでした。文展、 国展、帝展等の出品作の一作毎に課題を変え、東洋の伝統と西洋の影響という 近代日本画に課せられた問題に強固な意志と深い知性をもって立ち向かい、平 明で清雅な理想美の世界を開いた麦僊は、まさに近代日本画檀の偉才と呼ぶに ふさわしく、彼の遺した作品は時代を超えて、珠玉のような美しい光を放って います。
 フランスの印象派以後のゴーガン、ルノワール、セザンヌやイタリア・ルネ サンスの宗教画、平安の仏画、桃山の障壁画や江戸の風俗画、浮世絵、大和絵、 さらに中国の宋、元の花鳥画などさまざまな画風を取り入れた多彩な試みは、 希代の勉強家ともいわれる麦僊にしか成し得ない業であり、そこから生まれた 作品は新日本画を目指す当時の芸術運動に新たな可能性を与え、多大な影響を 及ぼしたと言えます。

 

華麗な人工美の極致として多くの舞妓の姿を描いた“舞妓の麦僊”

 「ドガといえば踊り子を、踊り子といえばドガを思い出すように、舞妓とい えば自分を思い出させるようになりたい。」と言っていた麦僊は実際に「舞妓 の麦僊」と称されるようになりました。その代表作とされるのが1924年に完成 された《舞妓林泉図》です。この作品の特徴である様式化された林泉(庭園)の 風景と舞妓の巧みな構成は、イタリア・ルネサンスの画家ベルナルディーノ・ ルイーニの聖母子像に学んだものと言われ、近代的な知性を感じさせます。西 欧遊学後、新基軸として発表されたこの作品は重厚で華麗な色調と線で表現さ れ、絢爛たる美しさを持ちながらも、とぎすまされた静けさに満ちた格調高さ が感じられ、近代人物画の中でも屈指の名作となっています。
 この他にも、トランプに興じる舞妓の姿を華やかな色彩で描いた《三人の舞 妓》、華やかさとは異なり、単純化された線と色彩によって緊張感漂うなかに、 静寂な美しさがみられる晩年の作品《明粧》など、舞妓が時代ごとに様々な異 なった表現方法で描かれています。

《舞妓林泉図》 《舞妓林泉図》
1924年
東京国立近代美術館蔵
[詳細画像]

西洋と東洋の融合 −近代日本画の創造を目指した独創的な芸術世界と果てしない情熱の生涯

 土田麦僊は49年間という短すぎる生涯のすべてを近代日本画の創造にかけ、 伝統との軋轢や自己の内面との葛藤に苦悩しながらも、決して立ち止まること なく、豊かな才能を日々の研究や情熱によって開花させていきました。明治か ら昭和にかけて、麦僊は西洋画から日本や中国の古画など、時代やジャンルの 枠を越え様々な芸術様式を研究し、自分の内面の美として昇華させていきまし た。日本画壇が近代に向け新たなスタイルを模索していた時代にあって、伝統 にとらわれず真の美を執拗に追い求めた麦僊の激しい人生が作品に映し出され ています。

I. 新しい日本画を求めて
−西洋絵画と出会い、伝習的な日本画から脱却しようとした文展時代

 麦僊は、16歳の時、僧侶となるために京都に出て智積院に入りましたが、幼 い頃から夢見ていた画家になることを決意して寺を出奔、鈴木松年に入門を請 い、その息子松僊の教えを受けることとなり、「松岳」の号を受けました。し かし、翌年の第9回新古美術品展を見て、画壇の主流が創意を重んじる「新派」 に移っていることを感じ、新派をリードしていた竹内栖鳳の塾に移りました。 「麦僊」の号は栖鳳から受けたもので、栖鳳塾には先輩に西山翠嶂、西村五雲、 上村松園らが、また同輩には石崎光瑶、小野竹喬とはとくに親密となり、終生 活動を共にすることとなりました。
 麦僊の修行の厳しさについては先輩や同輩たちから伝えられていますが、彼 の入門によって塾の雰囲気が一変したとまで言われる程でした。その成果は栖 鳳への入門後半年も経たぬ1905年(明治38)の新古美術品展で《清暑》の四等賞 受賞として表れました。四条派の伝統的写生に西洋絵画の写実性を融合させた 師の画風を短期間のうちによく身につけていることが分かります。
 さらに、麦僊は栖鳳が欧州から持ち帰った多くの画集や美術雑誌を渉猟し、 自らの制作に生かしていきました。麦僊が1907−09年(明治40−42)に新古美術 品展や文展に出品して受賞した三部作《春の歌》(焼失)、《罰》、《徴税日》 (所在不明)はいずれも郷里の風俗に取材した現実感豊かな作品で、これらに よって麦僊は画壇の新進として注目を受けるようになりました。
 その後、1909年(明治42)に開設された京都市立絵画専門学校別科に小野竹喬 とともに入学、近代絵画や東西の古典について学び、同時に洋画、日本画の新 進たちによる懇談会「黒猫会(ル・シャノワール)」「仮面会(ル・マスク)」に 参加し、後期印象派などヨーロッパの絵画の新傾向を熱心に語り、研究するこ とで、長い伝統文化の息づく京都のなかで、伝統にとらわれない新しい日本画 の創造を目指しはじめました。 京都市立絵画専門学校を卒業後、1912年(大正 元年)と翌年の文展に、八丈島と波切(三重県)に取材し、西洋絵画のとりわけ ゴーガンに範を得た《島の女》と《海女》を出品。以後、麦僊の新しい日本画 への追求は、さまざまな個性あふれる創造性豊かな作品となって次々と登場し はじめました。奈良の倶舎曼荼羅を模写し古典的手法を学んで作成した《散華》 (1914)、ルノワールの官能美を意識し、江戸初期の風俗画を研究した《三人 の舞妓》(1916)など一作ごとに研究する対象を変え表現していきました。こ れらの作品は識者からは好評を得ましたが、文展の審査においては高い評価を 得られませんでした。麦僊は、情実のからむ文展の審査に対して不信感を募ら せ、1917年、前年特選を得た小野竹喬と村上華岳が落選させられたのを契機に 文展を離れることを決意しました。そして、純粋な創作活動と真の近代日本画 を追い求めるため、小野竹喬、榊原紫峰、野長瀬晩花、村上華岳らとともに国 画創作協会を結成したのでした。

II. 理想の絵画を求めて
−自由な創作活動と渡欧の体験が品格の高い数々の名作を生んだ国画創作協会時代

 麦僊は、個性の尊重、創作の自由と自己の絵画上の理想を実現するため結成 された国画創作協会展で、より精力的かつ大胆に作品制作に取り組みました。 第1回展に出品した《湯女》(1918)はルノワールの情感や大和絵、桃山障壁画 などの研究を総合して表現した力作となりました。さらに多くの西洋画に触れ 学ぶため、第3回展終了後、渡欧。フランス、イタリア、スペイン、ドイツ、 オランダなどを遊学、自分のこれから進むべき道を模索しながら、《ヴェトイ ユ風景》(1922)や人物画など精力的に制作研究を行いました。そして帰国後、 渡欧によって得た成果として第4回展に出品した代表作《舞妓林泉図》(1924)、 第6回 展の《大原女》(1927)を発表、日本画の装飾性の中に東西絵画を融合 させた緊密な構成と華麗な色調をもつ完成度の高い作品となりました。以後、 同会としては最後となる第7回展の《朝顔》(1928)では 江戸期の楚々とし た美しさを示す襖絵を手掛かりとし、清々しい美しさを現出させました。

III. 理想の美を求めて
−写実的な東洋の古典へ向かい、精神的な深まりを追求し、 完成度を極めた帝展時代

 国画創作協会が解散したあと麦僊は、帝展へ参加し、第10回展に《罌粟》 (1929)を出品。宋代花鳥画の美しい色彩や線を学び精神的な深まりを求める ようになります。以後、帝展に《明粧》(1930)、《娘》(1931)、《平牀》 (1933)、《燕子花》(1934)と次々に問題作を世に問うとともに、1930年に はじまる、三越主催の七絃会にも、主に草花図の力作を発表しました。帝展復 帰後のこれらの作品には写実的な実在感がみられます。そこには、国画創作協 会時代の様式的な美、浪漫的な作風とは趣を変え、より清明な優美さが示され ています。
 1930年、帝展改組の画壇の混乱のなか、帝国美術院会員として、その収拾に 苦慮しながら、《平牀》や《燕子花》のような厳格な構成からの転回を期して、 《妓生の家》に取り組みましたが、病に倒れ、それは未完成に終わりました。


主な展示作品紹介

《罰》 1908年  京都国立近代美術館蔵
第2回文展に出品され、初入選で三等賞を受賞し、麦僊の実力を認めさせ ることになった作品。学校に遅刻し、廊下に立たされた3人の姿や表情を巧み に捉え、それぞれの子どもの心の動きまで見事に描き上げている。
《島の女》 1912年  東京国立近代美術館蔵
この頃麦僊が最も惹かれていたのは、後期印象派、なかでもゴーガンだっ た。八丈島に取材し、島の人の話す言葉も十分に理解できない状況で、タヒチ のゴーガンと自分を重ねあわせ、その作風に若々しく対決している。
《湯女(ゆな)》 1918年  東京国立近代美術館蔵
第1回国展に出品した作品。桃山の障壁画や大和絵に新しい解釈を加え、 人物と風景の融合を試みている。この頃ルノワールに強い関心を寄せており、 画面から伝わる官能美はその影響であると言えよう。 《湯女(ゆな)》
[詳細画像 左隻右隻
《ヴェトイユ風景》 1922年 大原美術館蔵
パリの北西、セーヌ川のほとりに位置するヴェトイユ村。かつてモネも住 んでいたこの村で、風景画の研究に没頭した。この作品での麦僊の興味は赤い 屋根とその構成にあり、セーヌ川の美しい風景には見向きもしていない。
《舞妓林泉図(ぶぎりんせんず)》 1924年 東京国立近代美術館蔵
渡欧の研究成果を示した麦僊の代表作として名高い作品。南禅寺塔頭天授 庵に取材した背景の松や岩などは様式化され、華麗な舞妓の姿と見事にとけあっ ている。そのフレスコ画を「自分の神」と感じたベルナルディーノ・ルイーニ への憧憬が示されている。
[詳細画像]

《大原女》 1927年  京都国立近代美術館蔵
3人の大原女の姿からはマネの《草上の昼食》が、前景の葉や雲の描き方 にはルソーがしのばれる。落ちついた色調や静かな作品のおもむきは、イタリ アのフレスコ画からの共鳴が感じられる。
《明粧》 1930年
作品の舞台は京都の料亭「飄亭」。その座敷に坐る夏衣装の舞妓が、淡い 色調とゆるやかな描線で描かれている。舞妓の瞳が左右アンバランスに描かれ ているのは、麦僊が大事に持っていた浮世絵からヒントを得たことによる。

《作家略歴》

土田麦僊 つちだ ばくせん(1887-1936)

1887(明治20)年 2月9日、新潟県佐渡郡新穂村に生まれる。
1903(明治36)年 京都・智積院に入るが、画家を志し出奔。鈴木松年に入門を請い、 その息子松僊の教えを受けることとなり、「松岳」の号を受ける。
1904(明治37)年 竹内栖鳳に師事、「麦僊」の号を受ける。
1905(明治38)年 第10回新古美術品展に《清暑》を出品、四等賞三席を得る。
1908(明治41)年 第2回文展に《罰》を出品、三等賞受賞。
1909(明治42)年 京都市立絵画専門学校が開校し、その別科に入学する。
1910(明治43)年 梅原龍三郎とパリに学んで先に帰国した、のちの美術史家田中喜作を 中心とする懇談会「黒猫会(ル・シャノワール)」結成に参加する。
1911(明治44)年 京都市立絵画専門学校別科を卒業する。「黒猫会」を解散し、 「仮面会(ル・マスク)」を結成して展覧会を開く。 第5回文展で《髪》が褒状を受ける。
1912(明治45)年 第2回仮面会展を開く。その後、京都を離れた会員が多く、会は 自然消滅する。第6回文展に《島の女》を出品、 文部省に買い上げられる。
1915(大正4)年 第9回文展に《大原女》を出品。三等賞を受ける。
1918(大正7)年 小野竹喬、榊原紫峰、村上華岳らとともに国画創作協会を結成。 11月、第1回国画創作協会展(国展)を東京、12月京都で開催する。
1921(大正10)年 国展を前年の第3回展をもって休会し、パリ留学の経験のある洋画家 黒田重太郎を先導役に小野竹喬、野長瀬晩花とともにパリに行く。
1922(大正11)年 イタリア、スペイン、イギリス(ロンドン)等を旅行。 ヴェトイユで風景画の研究を行い、 晩秋、パリに戻って人物画の研究を行う。
1923(大正12)年 5月、パリから帰国。
1924(大正13)年 第4回国展に《舞妓林泉図》《蔬菜》などを出品。
1925(大正14)年 梅原龍三郎を迎えて国展に洋画部を設ける。
1927(昭和2)年 フランス政府よりレジオン・ド・ヌール・シュバリエ勲章受章。
1928(昭和3)年 第7回国展を開催したのち、国画創作協会日本画部は解散する。
1929(昭和4)年 第10回帝展に《罌栗》を出品、宮内庁に買い上げられる。
1933(昭和8)年 朝鮮に渡り、ソウルに滞在して古美術を見学し、《平牀》の取材。
1934(昭和9)年 改組帝国美術院の会員に任命される。
1936(昭和11)年 6月10日、膵臓癌のため死去。

<講演会/常設展のご案内>
講演会
 会場:東京国立近代美術館 本館講堂
常設展
近代日本美術の名作
特集コーナー:梅原龍三郎