展覧会

会期終了 企画展

ゴッホ展:孤高の画家の原風景 ファン・ゴッホ美術館 クレラー=ミュラー美術館所蔵

会期

会場

東京国立近代美術館

展覧会について

ファン・ゴッホ美術館/クレラー=ミュラー美術館所蔵

 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。オランダに生まれ、わずか十数年の活動で約2000点の作品を遺し、フランスで37歳の命を自ら絶った伝説の画家。燃え上がるような色彩と情熱的な画風は今もなお、私たちの心をとらえて離しません。

 このたび、彼の祖国オランダのファン・ゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館という、世界最高峰の二大ゴッホ・コレクションから出品される回顧展を開催いたします。

 生涯たった一枚しか絵が売れなかったにもかかわらず、死後には作品がオークションで巨額で落札されるというエピソードや、伝説的に語られる人生もまた、彼を世界でもっとも著名な画家にしているといえます。パリ滞在中にジャポネズリー(日本趣味)に傾倒し、浮世絵をモチーフにした作品を制作した事実もあいまって、日本人に非常に人気のある画家の一人でもあります。

 本展は、これまで日本で開催されてきたゴッホ展とは一線を画します。その作品を大きな歴史の流れのなかでとらえ、ファン・ゴッホの代表作など約30点と、ミレー、セザンヌ、モネ、ゴーギャンなど関連作家の作品約30点、そして浮世絵や同時代の資料多数を同時に紹介。オランダ、パリ、アルル、サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズなど、北から南、そしてまた北へと移り住みながら精力的に生み出していった作品群を、ほぼ時代順に、かつテーマごとに展示し、単にファン・ゴッホの生涯を追うのではなく、一人の画家の出現の理由をあきらかにします。誰もが知っているファン・ゴッホを再確認しながら、新たな画家像が浮かびあがってくるのです。

 ファン・ゴッホを生涯支え続けた弟テオのコレクションを引き継いで世界最多のゴッホ作品を所蔵するファン・ゴッホ美術館。一方、20世紀初頭と早い時期からゴッホ作品の収集を続けた、貿易会社社長夫人ヘレーネ・クレラー=ミュラーによる、これまた世界最大規模のゴッホ・コレクションを有するクレラー=ミュラー美術館。オランダが世界に誇る豊潤な二大コレクションから作品を選ぶことで、今回のコンセプトによる回顧展が初めて可能になりました。〈芸術家としての自画像〉〈黄色い家〉〈夜のカフェテラス〉〈糸杉と星の見える道〉など、両美術館所蔵の代表作を含む作品構成は、日本のみならず世界のゴッホ回顧展の中でも特色があり、また際立ったレベルにあるといえましょう。

 珠玉の作品群からファン・ゴッホの創造の源、魂の叫び、「孤高の画家」と呼ばれる彼の本当の姿を見てとれるエキサイティングな内容にどうぞご期待ください。

ここが見どころ

天才画家と言われてきた、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。彼の芸術は世界中の人々を惹きつけ、多くの展覧会が各地で開催されてきました。ですが、存在が神話化されるにつれて、ファン・ゴッホが身を置いていた原風景にたどりつく機会は逆に失われてしまったのではないでしょうか。

本展は、単なる回顧展でもなければ、ある特定の時代や主題に絞ったテーマ展でもありません。〈夜のカフェテラス〉など美術史上の傑作を含むファン・ゴッホの油彩30点に、ミレー、セザンヌ、モネ、ゴーギャンなど関連する作家の油彩約30点、そして宗教的な版画や浮世絵など様々な同時代の資料多数をあわせて紹介することで、画家の実像にせまろうとするものです。

こうしたコンセプトによる意欲的な展覧会が、なぜここ日本で実現可能となったのか。それは本展が、ファン・ゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館という、オランダが世界に誇るファン・ゴッホ作品の二大コレクションから、初期から晩年までの各時代の代表作を含みつつ作品を選ぶことができたからです。

展示は時代を追いつつテーマ毎に構成されます。宗教から芸術へと向かった画家が、印象派や浮世絵の体験からその絵画世界を変容させ、ユートピアを夢想し、その後、模写を通して宗教的なものへと立ち戻りつつ最後の風景を求めるようになるまで・・・歴史的な原風景を背景にして、新たな、けれど本当の画家の姿が、鮮やかに浮かびあがってくることでしょう。

第 1 章:宗教から芸術へ

フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部のフロート・ズンデルトに生まれました。祖父も父も牧師という家に生まれたファン・ゴッホは、自らもまた牧師を目指しますが、その道はなかなか開けず、様々な試行錯誤の末、27歳にして芸術家になることを決意します。しかし、宗教への関心を失ったわけではありません。彼は、芸術=宗教といえるような作品を描こうとしたのです。1885年の〈開かれた聖書のある静物〉では黒い聖書のとなりに黄表紙の小説を描いているように、彼は、闇の中に光を探そうとする強い意志を持っていました。展覧会には、父親が所蔵していた聖書も出品されます。

開かれた聖書のある静物

聖書は、牧師であった父親が使っていたもの。この絵は、その父親が亡くなった約半年後に描かれました。衝突を繰りかえした父親の形見の横の黄色い本には「エミール・ゾラ」「生きる喜び」との書き込みがあります。当時ファン・ゴッホはゾラに代表されるフランス自然主義文学に心酔していたのです。聖書と新しく自由な芸術世界を象徴する小説との対照は、そのまま、父親とファン・ゴッホとの関係であるとも言えます。

第 2 章:農民の労働 芸術のメタファー 〈オランダ〉

ファン・ゴッホは芸術家を志したとき、「人民の挿絵画家」になると語っていました。そんな彼が最初に描こうとしたのは、実際に目にした、貧しくても強く生きる人々の姿でした。苦しい労働に黙々と耐えながら、何ものかを生み出してゆく農民に対する共感は、〈織工〉(1884年)の窓に十字架が描きこまれているように、彼の宗教観と結びついています。この時期のファン・ゴッホは、色彩を抑えた暗い調子で、匿名の人たちの生活の現実をまっすぐにとらえた作品を数多く生み出しました。

古靴

サボ(木靴)を描いたミレーの絵を賞賛していたファン・ゴッホは、パリ時代、靴の静物画を多く描きました(ちょうどその頃、パリで、ミレーの回顧展が開かれています)。 しかし、描かれたのがパリであるように、これらの靴は、単なる農民の生活の象徴ではありません。むしろ自らの歩みの同伴者として、自らの放浪の人生の象徴として描かれたのではないでしょうか。また、弟テオと自分とが一対であることを意味しているのかもしれません。

織工 3つの窓のある部屋

ベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュで伝道をしていた頃、ファン・ゴッホは、「僕は鉱夫や織工に大いなる共感を覚える。いつか彼らを描くことができたら嬉しい」と書いています。そして1883年末にニューネンに到着後、織工をテーマとした作品を数多く制作しました。織工はそれまでもオランダの絵画で描かれてきたテーマですが、ファン・ゴッホは、産業革命以降、機械化が進む中、過酷な条件のもとで働く彼らの姿を的確に捉えています。

第 3 章:闇から光へ 〈パリ〉

1886年3月ごろファン・ゴッホはパリを訪れます。そしてゴーギャン、シニャック、ベルナールなど、印象派に続く若い世代の画家たちに出会い、交流し、そして議論を戦わせました。彼は、自らを含めたこのグループを「プチ・ブールヴァール(裏通り)」の作家と呼び、その革新性を讃えます。そうして彼の描く絵は、明るくなっていきました。まさにそうしたころに描かれたのが〈芸術家としての自画像〉(1888年)で、意外にもこの作品は、自らを芸術家として描いた数少ない自画像のひとつなのです。また同時期、彼は自ら浮世絵を集め、自作と並べて展示したり、〈花魁〉(1887年)のような意欲的な作品を制作したりするなど、「日本」への関心を深めていきます。

花魁(渓斉英泉による)

ファン・ゴッホの浮世絵への関心は高く、自ら買い集めて展覧会を開いてしまうほどでした。この作品は渓斉英泉の〈雲龍打掛の花魁〉を模写していますが、「日本」を特集した『パリ・イリュストレ』1886年5月号の表紙を元にしています。鮮やかな色彩はファン・ゴッホ独自のもので、また額を描きこむのも特徴的です。額の周囲には、ほかの浮世絵から鶴、蛙、蓮、竹が描きこまれていますが、蛙も鶴も、当時フランスでは、娼婦を意味するスラングでした。

芸術家としての自画像

自らを芸術家と認識できるように描いた数少ない自画像のひとつ。自画像としては特異なことに陰鬱な表情で描かれていますが、実際ファン・ゴッホは、ゴーギャンにあてた手紙で、「パリを離れるとき僕は本当に惨めで、体調も優れず、ほとんどアル中だった」と回想しています。とはいえ、この絵の構図がルーヴル美術館にあるレンブラントの自画像と結びつけられるように、このとき彼は、芸術的な高みに到達したいと願っていたのです。

レインスブルク近郊のチューリップ畑と風車

オランダを三度も訪れているモネが、風車とチューリップ畑という典型的なオランダの風景に魅了されていたことは、この絵が描かれた三度目の訪問時の作品に、チューリップ畑の主題が5枚もあることからわかります。その風景を描くときモネが用いたのが、粗い筆致と明るい色彩という印象派の手法でした。実はこの作品は、画商であった弟テオが扱った作品のひとつであり、ファン・ゴッホもおそらく目にしていたと考えられています。故郷の風景を描いた印象派の作品。パリに着いてからのファン・ゴッホの技法と色彩は、こうした作品を見知ったことを通して、より自由に、そしてずっと明るいものとなっていきました。

第 4 章:ユートピア 〈アルル〉

1888年ファン・ゴッホは「日本の浮世絵にあるような明るい光」を求めて南仏の町アルルに向かいます。ここでゴッホは芸術家の共同体をつくることを夢見て「黄色い家」を借り、精力的に制作に取り組みます。ですが、精神に異常をきたしたこともあり、ゴーギャンとの共同生活はわずか2か月で決定的な破局を迎えてしまいます。しかしアルルに滞在した15ヶ月の間に、彼は「ファン・ゴッホ」としての色彩を獲得し、〈夜のカフェテラス〉を頂点とする200点にものぼる作品群を生み出したのです。

黄色い家

1888年2月、ファン・ゴッホは、芸術家、とりわけゴーギャンとの共同生活を夢見てアルルにやってきました。南仏の自然は、「デルフトのファン・デル・メール[フェルメール]の絵のなかの、空色と黄色の組み合わせのように柔らかで魅力的だ」と言わせるほど、彼に強烈な印象を与えました。黄色い家は、そのアルルで、共同生活のために借りた家。フェルメールを想い起こさせた、青と黄色のコントラストが、この絵にはそのまま表現されています。ファン・ゴッホ曰く、「このモティーフは難物だよ!だからこそそいつを克服したいんだ」。

種まく人

農民の画家になろうと絵を描きはじめたファン・ゴッホにとって「種まく人」は、画業を通してずっと重要な主題でした。しかし、ミレーの模写ではなく、創意工夫をもって取り組んだのは、この作品が最初になります。「ミレーとレルミットの後に仕残されたこと、それは――大画面で色彩を駆使した種まく人なのだ」と語る彼は、パリで培った技法と独自の色彩論とを、この絵において綜合しました。そして、現実の風景に繋がりながらも、宗教的な強烈さを伝える〈種まく人〉が誕生したのです。

ミリエの肖像

アルルに駐屯していたアルジェリア歩兵連隊の少尉、ポール=ウジェーヌ・ミリエの軍服姿の肖像画。連隊の標章である星と三日月が、この絵に不思議な感じを与えています。ファン・ゴッホにとってミリエは、アルルでの数少ない友人のひとりで、素描を教えたりもしました。でもミリエは、「ファン・ゴッホのためにしばしばポーズしましたか」と訊かれて、「そうすべきだったんだろうけれど、あまり面白いものではなかったのですよ」と答えているのですが…。

第 5 章:模写/最後の風景 〈サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズ〉

芸術家の共同体をつくる夢に敗れたファン・ゴッホは、精神状態を悪化させ、サン=レミの病院に入ります。そこで彼は、ドラクロワやミレーの白黒の版画を、色彩と形態とが融合する独自の表現に置き換える模写を行いました。しかし度重なる発作は、彼を容赦なく苦しめます。サン=レミ時代の最後に描かれた〈糸杉と星の見える道〉では、静けさでみたされた星空と、もはや燃え上がることのない糸杉が、不吉な雰囲気を伝えるでしょう。そしてファン・ゴッホは、南仏を離れ、再び北へと戻るのです。パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズで、自然と宗教とが葛藤するかのような風景を描きながら、彼は自らの胸を撃ちました。享年37歳という短い人生でした。

糸杉と星の見える道

オーヴェールからゴーギャンに宛てた手紙の下書きのなかで、ファン・ゴッホはこの作品を、「あちら[サン=レミ]でやった最後の試みのひとつ」としています。彼はこの絵を描く少し前に発作に苦しめられて、オランダにいた頃のことを思い出し、馬車とカップルのある素描を描いていました。その意味でこの作品は、プロヴァンスと故郷の風景の融合ともいえます。そうした風景のなかで、巡礼者にも見えるカップル(彼の絵にしばしばあらわれるモチーフです)が、手前に小さめに描かれることで、死の象徴である糸杉が不穏なまでの存在感を強調しはじめるのです。

パンを焼く女

アルルで、モダン・アートに対して貢献したいと考えながらもゴーギャンとの共同生活の夢に敗れてしまったファン・ゴッホは、自分の願いは大それたものだったと反省し、サン=レミの精神療養院で、ミレーやドラクロワなど過去の巨匠の作品を、自分なりのやり方で模写しました。そうすることで、再び芸術への意志を呼び起こそうとしたのでしょう。彼がこの絵に言及したことはありませんが、効果的な光によって、質素な部屋の中に働く人物像を劇的に浮かび上がらせたこの作品は、40年代末から素朴な田舎の情景を集中して描いたミレー作品のなかでも、佳作と言えるでしょう。

犂と馬鍬

人物像が中心だったミレー作品の模写のなかで、この作品は唯一の風景画になります。しかも原画では収穫後の荒涼とした雰囲気を伝えていた風景が、より寂しい、雪の風景に変えられています。この頃、ファン・ゴッホは、「僕としてはとくに今は病気なので、何か自分の慰めになるものを、自分自身の楽しみのために描こうと心がけている」と書いています。農夫に無用だとうち捨てられた犂と馬鍬、侘しさを倍加させる黒い鳥、季節は一年の終わりである冬・・・、人生の終焉を思わせる絵を描くことが、むしろファン・ゴッホにとっては慰めとなったのでしょうか。

<夜のカフェテラス> 解説

南仏の夏の夜の心地よさが伝わってくるこの絵は、ファン・ゴッホが星空の夜をはじめて描いた作品です。夜、といっても、暗い雰囲気は全くありません。石畳は、星明かりだけでなく、カフェのテラスからもれてくるガス・ランプの灯りにも照らされて、ピンクや紫の色合いを帯びていますし、テーブルは円盤状に輝いてリズムをつくっています。画面右の緑の樹はアクセントとなり、また目を凝らすと、画面中心からこちらに向かって、馬車がやってくることに気づくでしょう(ひづめがカポカポいう音が聞こえてきそう!)。

ファン・ゴッホは、「これはただ美しい青と紫と緑だけによる、黒なしの夜の絵だ」と言っていますが、実はこの絵は、夜、外で描かれました。あまりないやり方なので、「彼は帽子のつばに蝋燭をつけて描いた」という伝説さえ生まれたほどですが、彼によれば、「これは色あせた、青白い、みすぼらしい光のある因習的な黒の夜から脱する唯一の方法」だったのです。

しかしながら、夜の店先の賑わいを描く絵自体は、それほど珍しくはありません。ファン・ゴッホとパリの美術教室で一緒だったアンクタンの1887年の作品に、〈クリシー通りの夜〉という夜の店先を描いた絵がありますし、ファン・ゴッホ自身が持っていた浮世絵コレクションのなかには、月夜に人がにぎわう通りを描いた広重の作品があるのです。奥行きの強調されているところなどに共通点が指摘されています。

この作品のモデルとなったカフェは,現在も同じ場所に残っている。
ところでこの絵を描いた直前にファン・ゴッホは、カフェの店内を描いた〈夜のカフェ〉という作品を、これまた夜に、ただし店内で制作しています。しかしそれは、「カフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすいところだということを表現しようと努めた」と言っているように、行き場のない人々を描いた暗い絵です。ひとつのカフェの内と外とを、まったく対照的な世界に描いた理由…それはよくわかりませんが、やがて星空が重要なモチーフになることを考えると、ファン・ゴッホにとって必要だったのは、やはり外の、星と樹のある世界であったと言えるのではないでしょうか。

ファン・ゴッホ美術館

1973年、オランダの首都アムステルダムに開館した美術館。弟テオが旧蔵していたファン・ゴッホ作品のコレクションのうち、約200点の油彩、500点余りのデッサン、スケッチブック、約700通もの書簡、そして多数の浮世絵は、1962年以来フィンセント・ファン・ゴッホ財団の所有となったが、それらは現在この美術館に永久に貸与されている。ヘリット・リートフェルトの設計による開放的な建築空間のなか、〈馬鈴薯を食べる人々〉〈黄色い家〉〈ひまわり〉〈烏の群れ飛ぶ麦畑〉など数々の代表作を含む全ての時代の作品を体系的に鑑賞できる。また、ゴーギャンなど同時代の画家やファン・ゴッホの友人の作品、ミレーなどファン・ゴッホが敬愛していた作品も収蔵。その一部は、実際に兄弟が収集したものである。なお1999年には日本人の建築家、黒川紀章の設計により新館が完成した。

クレラー=ミュラー美術館

富豪アントン・クレラーの夫人だったヘレーネ・クレラー=ミュラーが収集したコレクションを核にしたこの美術館は、ヴァン・デ・ヴェルデの設計により1938年、オッテルローにあるオランダ最大の国立公園内に開館した。スーラ、ピカソ、モンドリアン、ブランクーシなど近現代美術の名品を数多く所蔵しており、特に約300点(うち油彩は87点)を数えるファン・ゴッホのコレクションは有名。南仏アルルのはね橋を描いた〈ラングロアの橋〉、ミレーへの関心に基づく〈種まく人〉、サン=レミ時代の〈糸杉と星の見える道〉などの代表作とともに、画家の変遷をじっくりとたどることができる。また野外には25ヘクタールにもなる彫刻庭園があり、ロダン、ムーアから現代の作家に至るまでの彫刻作品を、豊かな自然のなかで鑑賞できる。

作家紹介

フィンセント・ファン・ゴッホは、オランダ生まれの芸術家です。セザンヌやゴーギャンなどと同じくポスト印象派(後期印象派)の画家と言われますが、その絵画は、筆触を見れば表現主義の創始者といわれるほど激しく個性的で、色彩や作品の主題を見れば、象徴主義的といわれるほど深遠かつ論理的です。いわばファン・ゴッホは、時代とともに生き、そして時代を先取りしてしまいました。

また、熱狂的過ぎて伝道をとめられてしまったり、娼婦と同棲したり、自らの耳を切ったり、その情熱的な人生はもはや伝説となっています。生涯で一つの作品〈赤い葡萄畑〉しか売れなかったというエピソードも良く知られているでしょう。

彼の作品が世界中の人々に愛されているのは、それらが慈愛に満ちているからだけではなく、彼の生涯を経済的、精神的に支えた弟テオとの手紙のやりとりがほとんど完全なかたちで残っているからでもあります。不遇の画家と有能な画商であった二人の間に交わされた膨大な書簡集は、ファン・ゴッホ作品や当時の美術の状況についての理解に役立つだけでなく、書簡文学の傑作とみなされてもいます。

そしてその書簡集の最後、フィンセントが亡くなった1890年7月29日に発見されたと、テオ自身が書き込みを入れている手紙は、次のように締めくくられています。

「ともあれ、僕は、僕自身の作品に対して人生を賭け、
  そのために僕の理性は半ば壊れてしまった―それもよい―…」

フィンセント・ファン・ゴッホ略年表

1853

3月30日オランダ南部のフロート・ズンデルトに牧師の父のもと生まれる。

1857

5月1日フィンセントの弟テオドルス(通称テオ)誕生。

1864

ゼーフェンベルヘンの寄宿学校に入る。

1869

画商の伯父を通して、美術商グーピル商会のハーグ支店に見習いとして就職。

1872

テオとの生涯にわたる文通が始まる。

1873

グーピル商会のロンドン支店に転勤になる。下宿先の娘に恋する。

1874

10月、失恋のため精神に変調をきたし、パリへ一時勤務となり数ヶ月滞在する。

1875

グーピル商会のパリ本店へ正式に移る。

1876

グーピル商会を辞職。4月、イギリスへ渡りラムズゲートの寄宿学校でフランス語とドイツ語を教える。
その後ロンドン郊外の日曜学校で補助説教師をつとめる。

1877

1月から4月、ドルドレヒトの書店で働く。
5月、アムステルダムに赴き、神学を学ぶため大学入学を志す。

1878

進学を断念。伝道師になるための教育を受けるべく、ブリュッセル郊外のラーケンへ赴く。
12月、ベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュで伝道活動を始める。

1879

熱心すぎるあまり、伝道師の資格はあたえられなかった。

1880

夏、画家になることを決意し、テオの経済的援助のもと、素描をはじめる。ミレー、ドービニー、ルソーを模写する。
10月、ブリュッセルに出て、若いオランダ人画家アントン・ファン・ラッパルトと出会う。

1881

4月、ブラバント地方のエッテンにもどり、地元の農民の素描を制作。
8月、ハーグを訪れ、当地の画家たちおよび特に従兄のアントン・モーヴと交流する。
12月、ハーグに落ちつき、主にモーヴの指導のもと制作をする。

1882

身重の娼婦シーンと知り合い、彼女とその家族をモデルにして制作。

1883

9月、シーンと別れハーグを去る。ハーグの画家たちになじみ深い北部のドレンテへ移り、真剣に油彩画にとり組む。
12月、家族の移転地ニューネンを訪れる。

1884

隣家に住むマルホ・ベーヘマンと恋愛関係になるが、両家の反対にあい、彼女は服毒自殺を図る。

1885

地元の農民や職工を描いた作品のなかで頂点をなす〈馬鈴薯を食べる人々〉制作。
11月、アントワープへ移る。この後、ファン・ゴッホがオランダの地を踏むことはない。

1886

3月頃、パリを訪れ、テオとともに暮らす。フェルナン・コルモンのアトリエに入る。
ジョン・ラッセル、トゥールーズ=ロートレック、ベルナール、シニャック、ゴーギャンらに出会う。

1887

自ら収集していた浮世絵の展覧会を開く。

1888

2月20日アルルに到着。
5月、黄色い家を借りる。
ゴーギャンが10月から12月にかけて滞在する。しかし、ゴーギャンとの確執の末、左耳下部を切り取り、アルルの病院に収容される。

1889

3月、テオが結婚する。
5月、サン=レミの療養院に入院。野外での制作も許され、オリーブ畑、糸杉、麦畑などを主題とした作品を制作する。そのほか、ミレーやドラクロワの模写などを制作。

1890

1月、テオに息子誕生、生まれた息子にフィンセントの名前をつける。また、アルベール・オーリエが、『メルキュール・ド・フランス』誌にゴッホの作品について記事をのせる。ベルギーの「レ・ヴァン」展に出品し、アンナ・ボックが〈赤い葡萄畑〉を買いとる。
5月、オーヴェール=シュル=オワーズに移る途中、パリのテオを訪ね、妻とその子フィンセントに会う。その後、ピサロの薦めで精神科医ガシェの世話になるが、7月27日、胸部をみずからピストルで撃つ。29日テオに見守られながら息を引きとる。
9月、テオの健康状態が悪化、10月には心身ともに衰弱する。

1891

1月25日テオ、ユトレヒトの病院で死亡。

イベント情報

講演会

  • いずれも聴講無料
  • 先着150名(4月2日は当日10:00より整理券を配布します)

「ファン・ゴッホの色彩論(仮題)」

日時

3月24日(木)18:00~19:30

担当

シラール・ファン・ヒューフテン
(ファン・ゴッホ美術館チーフ・キュレーター)※通訳付

「ファン・ゴッホをめぐる『物語』の系譜」

日時

4月2日(土)14:00~15:00

担当

國府寺司
(大阪大学教授・本展企画者)

ゴッホ展教職員研修会「『ゴッホ展―孤高の画家の原風景』のみどころ」

東京国立近代美術館では、小・中・高校の先生方に美術館と美術作品に親しんでいただき、それを通じて児童生徒への鑑賞教育を充実していただくために、「教員のための鑑賞プログラム」を実施いたします。

第1回目は、図画工作や美術の授業でとりあげられる機会の多いフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)です。「ゴッホ展」の趣旨や作品について、企画・立案にあたった学芸員が説明したあと、自由に展覧会をご覧いただきます。

日時

3月31日(木)(申込終了)
4月15日(金)(申込終了)

  • 両日とも開館時間は10:00~20:00(入場は19:30まで)。
対象

小・中・高校の教員および職員

定員

各回150名(事前申込制、先着順)

会場

講堂(地下1階)

講師

保坂健二朗(当館研究員)

主催

東京国立近代美術館、NHK、NHKプロモーション、東京新聞

参加費

無料

※当日のみ、「ゴッホ展」、所蔵作品展を無料でご観覧いただけます。
展覧会チケットのお渡し方法につきましては、参加証でご案内いたします。

主催

ファックス:申込用紙にご記入のうえ、お申込みください。
メール:申込用紙の項目を明記し、お申し込みください。
おりかえし参加証をお送りいたします。
※1通のお申込みにつき1名のみ。当日は必ず参加証をお持ちください

申込・お問い合わせ

東京国立近代美術館 教育普及係
FAX 03-3214-2576
Eメール school@momat.go.jp
TEL 03-3214-2605

カタログ情報

開催概要

会場

東京国立近代美術館

会期

2005年3月23日(水)~5月22日(日)
会期中無休:4月11日(月)除く

開館時間

4/29~5/8: 午前10時~午後8時
5/9以降の木・金・土・日: 午前10時~午後8時
5/9以降の月・火・水: 午前10時~午後5時

  • 入館は閉館時間の30分前まで
観覧料

一 般: 1,500円(1,100円)
大学生: 1,000円( 700円)
高校生:  600円( 300円)

  • 中学生以下は無料
  • ( )内は20名以上の団体料金
  • 前売券は3月22日で終了しました。
問い合わせ

ハローダイヤル 03-5777-8600
http://www.momat.go.jp

主催

東京国立近代美術館、NHK、NHKプロモーション、東京新聞

後援

外務省、文化庁、オランダ大使館

協賛

昭和シェル石油、スズキ、損保ジャパン、大日本印刷、トヨタ自動車

協力

日本航空、日本通運

連携協力

財団法人 2005年日本国際博覧会協会

巡回
  • 国立国際美術館2005年5月31日(火)~ 7月18日(月・祝)
  • 愛知県美術館2005年7月26日(火)~ 9月25日(日)
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