過去の展覧会

  • 2021.3.23 - 5.16*終了いたしました
  • 企画展

あやしい絵展

Ayashii : Decadent and Grotesque Images of Beauty in Modern Japanese Art

絵に潜む真実、のぞく勇気はありますか?

甲斐庄楠音《横櫛》1916(大正5)年頃、京都国立近代美術館

明治期、あらゆる分野において西洋から知識、技術などがもたらされるなか、美術も西洋からの刺激を受けて、新たな時代にふさわしいものへと変化していきました。

このような状況のもとで生み出されたさまざまな作品の中には、退廃的、妖艶、グロテスク、エロティックといった「単なる美しいもの」とは異なる表現がありました。これらは、美術界で賛否両論を巻き起こしつつ、激動する社会を生きる人々の欲望や不安を映し出したものとして、文学などを通して大衆にも広まっていきました。

本展では幕末から昭和初期に制作された絵画、版画、雑誌や書籍の挿図などからこうした表現を紹介します。

展覧会の見どころ

上村松園《焰》大正7年、東京国立博物館 [展示期間:3月23日~4月4日]

1.一度見たら忘れられない名画たち
日本近代の美術における美しさの「陰画(ネガ)」をご紹介。上村松園の《焰》や《花がたみ》、鏑木清方《妖魚》等、「あやしい」魅力にあふれた作品が勢揃いします。

 

2.ディープな「あやしい」作品が盛りだくさん
甲斐庄楠音《横櫛》、橘小夢《安珍と清姫》、秦テルヲ《血の池》等、脳裏に焼きつくほど美しく強烈な「あやしさ」をそなえた作品が多数出品されます。

 

3.私たちを捉えて離さない「あやしい」物語
安珍・清姫伝説、「高野聖」等の物語はさまざまな作家を魅了し作品に展開されました。非現実であったり「あやしい」女性が登場したりする物語は、明治、大正期のみならず今の私達にも魅力的に映ることでしょう。

 

4.西洋美術も!
アルフォンス・ミュシャ、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、オーブリー・ビアズリー、エドワード・バーン=ジョーンズ等、日本の画家達に影響を与えた西洋美術の作品もあわせて紹介します。

 

作品保護のため、会期中一部展展示替えがあります。
詳しくは作品リストをご確認ください。
(前期:3月23日~4月18日、後期:4月20日~5月16日)

上村松園《花がたみ》大正4年、松伯美術館 [後期展示:4月20日~5月16日]

橘小夢《安珍と清姫》大正末頃、弥生美術館 [後期展示:4月20日~5月16日]

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《マドンナ・ピエトラ》1874年、郡山市立美術館

開催概要

会場:
東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー
会期:
2021年3月23日(火)~5月16日(日)
休館日:
月曜[ただし3月29日、5月3日は開館]、5月6日(木)
*臨時休館期間:4月25日(日)~
開場時間:
9:30-17:00(金・土曜は9:30-20:00)
*臨時夜間開館日:5月12日(水)-16日(日)は20:00まで開館いたします
*入館は閉館30分前まで
*本展会期中に限り9:30開館(ただし「MOMATコレクション」、コレクションによる小企画「幻視するレンズ 」は10:00開場)
チケット:
チケットの詳細・購入方法は 特設ページをご確認ください。
観覧料:
一般 1,800円
大学生 1,200円
高校生 700円
*いずれも消費税込。
*中学生以下、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。それぞれ入館の際、学生証等の年齢のわかるもの、障害者手帳等をご提示ください。
*本展の観覧料で入館当日に限り、所蔵作品展「MOMATコレクション」(4-2F)、コレクションによる小企画「幻視するレンズ 」(2F ギャラリー4)もご覧いただけます。
主催:
東京国立近代美術館、毎日新聞社、日本経済新聞社
協賛:
損害保険ジャパン、DNP大日本印刷
美術館へのアクセス:
東京メトロ東西線竹橋駅 1b出口より徒歩3分
〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1
詳しくはアクセスマップをご参照ください。


展覧会レビュー

 

あやしい絵展の二つの衝撃 松嶋雅人(東京国立博物館学芸研究部調査研究課長)

会場風景

図1 橘小夢《水魔》昭和7(1932)年、個人蔵

図2 岩佐又兵衛《洛中洛外図屏風》舟木本(左隻部分)江戸時代(17世紀)、東京国立博物館蔵、国宝

 熱が冷めやらない。展覧会を見終えた後、グルグルと廻る頭を冷ましたところで、二つの衝撃がこの熱を生んだのだと思い至った。
 そのファースト・インパクトは、安本亀八の生人形《白瀧姫》ではじまる展示構成だ。長袴の緋色が燃えるように揺らめく黒い床が、初っ端に眼に入る。「絵」の展覧会なのに、立体造形からはじまる展示構成で、鑑賞者の先入観や事前の知識を洗い流してしまう。そしてあやしい世界に稲垣仲静の「猫」がシルエットでいざない、処々でカッティングシートの切り文字の都々逸が、あやしい絵を彩り、蜘蛛の糸のように絡み合う作品群を大きな奔流に輻湊ふくそうさせている。
 本展では展示ブロックごとに、視覚的に異なる世界を見せようとしていることが明らかだ。甲斐庄楠音の《畜生塚》をはじめとする大型作品を、長手のケースに並べていき、そこからでは見通せない後半の展示ブロックで小村雪岱の挿絵がまとめられている。この展示の位置関係には、大きな意味がある。展示室を歩み進むことで、ケースから離れて作品の全体像を見たり、反対にケースを覗き込む動作は身体的な刺激になって序・破・急のようなインパクトを眼に与えていく。平面作品といっても、物理的な厚さや重さを持つリアルな作品が並ぶ視覚効果は、一つの物語を読み進める心の動きと同じ作用をするのである。
 しばしば見かける展覧会——作品を時系列に並べて、展覧会カタログに著したエッセイの挿絵のごとく作品を扱う——では、この物理的な衝撃は生まれてこない。この展示構成によって、本展カタログなどに示された展覧会趣旨を読まなくとも、その意図は伝達されている。

 そしてセカンド・インパクトは、幕末・明治から大正、昭和時代に描かれた作品そのものである。とりわけて楠音や岡本神草といった京都市立絵画専門学校の卒業生たちによって結成された「密栗会」の作品は目が離せない。西洋社会の思想潮流が流れ込んだ日本の社会状況に照らし合わせながら、作品が選択されているので現代の私たちの眼にも、突き刺さるような波動を作品の「かたち」から受け取り、ザワザワと心が波打つのである。
 また橘小夢の《水魔》[図1]を見つめていると、水面に広がる波紋が画面下にあって、河童に画面上へと連れていかれる人物は、もしや男性なのか?と一つの作品の中に深く深く引き込まれていく。なぜこのような心持ちになるかというと、近代日本において、西洋文明の波を受けた暮らしぶりと、現代の私たちの生活は、近代以前の日本の世界観、価値観に立った視点と比べれば、はるかに近しいところにあるからだろう。
 そもそも「あやしい」とはいったい何か。時代や地域、さらには階層(「人による」と同義)が違えば、この「あやしさ」の定義はそれぞれ異なるものとなるだろう。
 造形の歴史の中では、「あやしさ」はどのように生まれたのだろうか。「美」や「美しさ」といわれるものは、絵に表される場合、しばしば「型」によって表現されている。歴史的にいえば、絵画を制作する主体(多くは宮廷などにおける権力者の男性)が望む「美しさ」が型となって表されている。描かれる対象が女性であれば、男性が望む表情やしぐさが型として継承されていった。そして古今東西問わず「表面的な美しさ」が連綿と描き続けられた中で、それらとは異なるもの、逸脱したものが「あやしさ」として現れたといえよう。大正期には「あやしい絵」が京都で数多く生まれたが、それは上方の浄瑠璃、歌舞伎、浮世絵に表された当世風俗(「世話物」のモティーフ)のあやしい「型」が脈打っているからであろう。
 その上で18世紀に描かれた曾我蕭白の《美人図》と、大正7年の上村松園の《焔》にしぐさの相似を見るとき、その型は同じ「あやしさ」を生み出しているのだろうか? 「あやしさ」は時代や地域によって千差万別だ。例えば日本の江戸初期に描かれた国宝《洛中洛外図屏風》舟木本に登場する小姓を抱きしめる僧侶の姿[図2]を、この絵を見た人々はどう感じたのか。「あやしく」見えたのだろうか。当時の身分や思想、あるいは男女によっても受容する側の感じ方はさまざまに異なっていたはずだ。
 人類の造形史の中で、「あやしさ」をたどることは気の遠くなる作業であるが、このあやしい絵展では、まさにダイバーシティ(ここでは「視点」の多様性)を実感できる。日頃思い描いている世界が、揺り動かされる展覧会ということだ。SNS上でも喧喧囂囂ごうごう、さまざまな意見が飛び交っている。多くの人々が展覧会に注目して、それに向けて意見を発出する展覧会企画はそうそうない。学芸員冥利なことであろう。

 本展は大阪へ巡回されるが、展示室の天井高、床の色、照明などが異なる会場で、どんな展示構成となって、アディショナル・インパクトを見せてくれるのだろうか。

「あやしい絵展」をのぞく時 トミヤマユキコ×清田隆之

 退廃的、グロテスク、妖艶、神秘的といった要素を持つ作品を「あやしい」という語で括って提示した「あやしい絵展」。主にSNS上では、「あやしい」の定義、描かれた対象の女性性を中心に、さまざまな意見が飛び交いました。今回、日本の少女漫画を研究するトミヤマユキコさんと、「恋バナ収集」を通してジェンダーや男性性について考察する清田隆之さんに本展をご覧いただき、あやしい絵展の「あやしさ」について語っていただきました。

清田隆之さん(左)、トミヤマユキコさん(右)


トミヤマ

あやしい絵に女の人が多いのって、私としては腑に落ちるんですよ。今も昔も基本的にこの社会は男性中心的で、そうなると女の人はどうしたって周縁の存在になってしまいますよね。「ふつう」からはみ出してしまって、「あやしい」と思われてしまうような状況に陥りやすいとも言えるわけです。それって女の人が個人的に引き寄せているというよりは、社会構造によるところが大きいと思うんです。この「あやしい絵展」では、周縁にいる女たちが無視されることなく、ちゃんと描かれていたんだと知ることができますし、その意義はちゃんと考えなきゃいけないなと思いました。

清田

僕は昔から絵に触れる習慣が全然なくて、知識や鑑賞法を知らないと絵を正しく理解できないという思い込みがありました。でも、これは絵でも音楽でも演劇でもなんでもそうだけど、作品に触れるというのは正解を探る行為ではなくて、そこで感じたものが大事なんだと大人になってから思えるようになった。あやしい絵展もそういう風に鑑賞したのですが、ゾッとする感じとか、恐怖みたいな感覚とか、そこはかとないおかしみとか、「あやしい」というコンセプトから感じた多義的なものを一つ一つ考えていく時間が楽しかったです。でも一方で、「あやしい」と感じるのは自分の中にある“ふつう”とか“平常”みたいなものとずれているからであって、そうなると今度は、「あやしい」と感じている自分の感覚自体はどうなんだ、自分の感覚がスタンダードだと思っているその状態こそグロテスクなのかも……みたいな問い返しもありました。

トミヤマ

「あやしい絵展」というタイトルですけど、「あやしい(仮)」みたいなところがありますよね。徹頭徹尾あやしいですよって決めつけてるわけじゃなくて、あくまで「(仮)」でしかないというか。私は観賞しながらあやしい「からの」をかなり考えました。「あやしい」からの「可愛い」とか、「面白い」とか、「怖い」とか、「気持ち悪い」とか。あやしいの先が絶対にある。あやしいからの何に辿り着くかは、生まれ育ってきた環境とか、自分の美意識とか、人それぞれですから、結果として自分自身が逆照射される感覚を味わいました。これ、二人とか三人とかで観に行けば、全然違う感想が出てきてすごく面白いと思うんですが、清田さんはどうでした?

図1 上村松園《花がたみ》1915年、松伯美術館

図2 梶原緋佐子《古着市》1920年、京都市美術館

清田

僕はこの絵(上村松園《花がたみ》1915年、松伯美術館)[図1]がパッと見た時に気になって。色使いのかわいさに惹かれた部分もありますが、この絵のあやしさをどこに感じたんだろうと自分の中をのぞいた時、服が着崩れていたり、カゴを気怠そうに持っていたり、ちょっとだらしなさそうな感じに魅了されている部分が正直あった。でもそれって、きっちりしているのが女の人のデフォルトだと思っているからこの絵の女性を「少し崩れている」と感じたわけですよね。そんな自分の感覚を紐解いていくと、これっていわゆる「ミソジニー(女性蔑視)」では……と、ちょっとゾッとしたんです。というのも、女性を神聖視するのもミソジニーの一種で、女性を「聖なるもの」と「俗なるもの」とに分ける感覚は“男性あるある”ですよね。自分としてはそういうものから距離を取りたいと思っているのに、こうして根深く染み付いている事実をふいに突きつけられる。トミヤマさんが逆照射と言っていたけど、一枚の絵を前にした時にいろんなことを考える体験があちこちの作品の前で起きていて、面白くもあり、怖くもあるという感じが個人的にはありました。

トミヤマ

清田さんは怖さも感じていたんですね。私は一種の開放感みたいなものを覚えたんですよ。周縁の存在って中心から放逐されているみたいなニュアンスもある一方で、中心から解放されて自由になっていると捉えることもできると思うんですね。そう思ってみることで、なんか元気が出てくるというか。私はこの古着市(梶原緋佐子《古着市》1920年、京都市美術館)[図2]の女の人が忘れられなかった。普段は忙しく立ち働いているであろう女の人がちょっとボーっとしちゃってる瞬間が描かれていて、この油断と隙も含めて女だし、人間じゃん、いいじゃん、みたいな気持ちになれたんです。私は少女漫画の研究者ですけど、漫画の世界は男性向け漫画が数の上でも売上でも圧倒的で、少女漫画も人気とは言え、それには遠く及ばないんですね。だけど周縁にいるからこそ好き勝手できる部分もあるので、周縁に位置しているのは必ずしも悪いことではないんですよ。そこは今回の展示と相通ずるところがあるなと思いました。

清田

これはライターの西森路代さんも言及していたことだけど、阿佐ヶ谷姉妹って今までのお笑いの世界にはあまりいなかったタイプだと思うのね。独身の中年女性で、日常の何気ない瞬間を表現している。近所でお裾分けをもらったとか、豆苗が育ってうれしいとか、そういうネタが本当に面白いんだけど、それってつまり、ハイテンポでボケとツッコミがあって男性中心で……というお笑いの世界における周縁の存在だからこそ、開放感や脱力感が味わえるのかもなって思った。と同時に、マジョリティを逆照射する批評的な存在でもあるわけだよね。

トミヤマ

あと、描き手のことで言うと「美人を描いたら表面的と言われた」という上村松園のエピソードがとても興味深かったです。美しい人には中身がないと言われて、じゃあ頑張って中身を描きます、となった時にどうするか、描く側の苦悩をすごく感じました。少女漫画はストーリーがありますから、美男美女にもちゃんとバックグラウンドがあるし、立体的な存在なんだよと説明ができます。でも絵画はたった一枚でいろんなことを伝えないといけないから、これは大変ですよ。美しいイコール中身がないと言われても、画家は困っただろうなと思います。その辺りの葛藤も感じられる展示でしたね。

清田

上村松園は女性だし、セクシュアリティもそれぞれ様々だから、これはちょっと強引な話ではあるのだけど……個人的に「男の描く女性像がファンタジーに満ちてる問題」が気になってます。脳内で作り上げた極めて都合の良い女性をモチーフに絵を描いたり歌を作ったり……というのは古今東西あると思うんですよね。例えば以前、大学のジェンダー講座に招いてもらった時に「J-POPの歌詞からジェンダーを考える」という講義をやったんですね。その時は大学生に人気があった「別の人の彼女になったよ」(wacci)という歌をとり上げたのね。歌詞の主人公は女性で、元彼に宛てた手紙のようなストーリーになっている。いわく、私は別の人の彼女になったからあなたにはもう会えないけど、新しい彼氏はちゃんとした人で、素敵な人なんだけど、正直ちょっと息苦しい。あなたには幼稚なところがあったし、喧嘩もたくさんしたけど、自由に遊んでいたあの頃が懐かしくて、私はズルいからそのうち電話しちゃうかもしれない。だからあなたも早く別の人の彼氏になってね……という歌詞で。

トミヤマ

別れたいのか、ヨリ戻したいのか、本心はどっちなんだ(笑)。

清田

歌もメロディもエモいし、ミュージックビデオもすごく良くて、ついうっとり魅了されてしまうのよ。でも、この歌詞を書いたのが男性(橋口洋平)であることを思うと、急に見え方が変わってくる。こんな風に元彼のことを思う女性は本当にいるんだろうか、男が脳内で作り上げた極めて都合の良い妄想なんじゃないか……と疑ってしまうわけです。でも、そういう歌は昔からいっぱいありますよね。我々の世代で言うとMr.Childrenの歌詞なんて本当に男に都合が良いんだけど、「歌詞のジェンダー観がやばいよー!」と思いつつ、聴くとめっちゃ引き込まれてしまう(笑)。妄想だしファンタジーだし、偏見やご都合主義に満ちてはいるんだけど、それを作り出した際の謎のエネルギーってあって、結果的に女性も含めて魅了してしまう……みたいなことがよくある。そういうものに対してジェンダー的な観点からツッコミを入れる時の無力感というか、野暮ったさというか、そういうものを感じる瞬間も少なくない。

トミヤマ

そうですね。正面切って正しいことを言う虚しさって生きてるとたまに感じますよね。悔しいけど妄想力に勝てない……。

清田

たとえそこにジェンダー観の偏りやねじれがあったとしても、表現されたものの強度がすごいな、と感じるものが今回の展示にもたくさんあった。

図3 青木繁《大穴牟知命》1905年、石橋財団アーティゾン美術館

トミヤマ

清田さんはどの作品に一番強度を感じました?

清田

これ。(青木繁《大穴牟知命》1905年、石橋財団アーティゾン美術館)[図3]。女性が乳(のように貝殻の粉を溶いた水)を塗ると男性が生き返る物語を描いているっていう。

トミヤマ

元ネタが『古事記』とはいえ、すごいですよねこれ(笑)。

清田

もちろん背景には深遠なストーリーがあるのだと思うけど、全裸の男性(大国主神)が乳房を露わにした女性に救われるって……その構図がファンタジーすぎるだろって(笑)。でも、そんなツッコミを入れつつも、絵の強さがすごくて、作品を目の前にするとその迫力にひれ伏してしまう感覚がやっぱりあるんだよね。

トミヤマ

わかります。圧倒されてしまうんですよ。今、私達は理性を働かせて話しているけど、またこの絵を前にしたら問答無用で魅力的な絵だな、と感じちゃうんです。女性観ひとつ取ってもいろいろな作品があるのは良かったですね。女の人を崇め奉るタイプのものもあれば、まぁミソジニーと言われてもしょうがないよねというものもあるし、ありのままのリアルを切り取っているものもある。アプローチの仕方がさまざまで、一概に言えないというか、男性が女性をただ対象化して好き勝手描いているばかりじゃないのが面白かったです。

図4 橘小夢《刺青》1923/34年、個人蔵

図5 橘小夢《水魔》1932年、個人蔵

清田

この刺青(橘小夢《刺青》1923/34年、個人蔵)[図4]という作品。谷崎潤一郎の小説が題材になっていて、「美しい少女」を「薬で眠らせ」、「玉のような美しい肌に女郎蜘蛛を彫り込んだ」と解説にあったけど、これはもう完全に暴力だし犯罪だし、それで「彼女の魔性もまた花開いた」ってどんだけ妄想がすぎる話なんだよ……と思うけど、実際に絵を前にすると圧倒されてしまったりもする。とんでもないなと思う気持ちと、それはそれで絵としての迫力がすごいなという気持ちが同時にやってきて、よくわからない気持ちになりますよね。少女に刺青を彫りたい気持ちは全くわからないけど、もっと陳腐に野暮に考えれば「処女性を尊ぶ」とか「俺色に染めたいみたい」みたいなことかもしれず、それは極めて男性あるあるな感覚で、自分も他人事と切り離せないかもだぞ……みたいな恐怖があった。同じ作者で言うと、この河童の作品(橘小夢《水魔》1932年、個人蔵)[図5]も気になった。小柄の男が自分より身体の大きな女性にしがみついている構図に映り、なんかとてもわかる気がするなって(笑)。

トミヤマ

私もこの絵は面白いと思いました。「あやしい」からの面白い、ですね。ちっちゃい河童がしがみついていて、なんだか滑稽なんですよ。引きで見ると幻想的だけど、近づいてよく見てみると笑っちゃう。

清田

主語の大きな話になって恐縮ですが、男性って自分の身体をどこか醜いものとか汚いものと考えている節があると思うんですよ。自分を美しいと思えないからケアとかしないし、普段は自分を大きく強く見せようとしているけど、実際は自信がなくてちっちゃくて痩せっぽっちで……みたいなマインドが河童というモチーフに象徴されているように感じた。一方でこっち(左の人物)は身体が大きくて……。

トミヤマ

豊かな肉体を持っているという意味では、完全に強者ですね。

清田

そこにしがみついていて、生気を吸っているのか、癒されたいのかわからないけど、その感じとかもちょっとわかるなと思って。

トミヤマ

私は河童に全く感情移入していなかったので、清田さんの河童視点はとても新鮮です。私が女であることとも関係あるかもしれないですけど、なんとなくこっち(左の人物)の気分でいたので。「なにこれ、なんかへばりついてるんですけど!」みたいな(笑)。きっと見る人のジェンダーとか、性的嗜好とか、どういうところにフェチを感じるかとか、そういうものが感想に混じっているんでしょうね。あやしい絵が教えてくれる何かが確実にあります。

清田

自分のいろんな部分が刺激される感じがありますよね。

トミヤマ

人によって受け取るものが多種多様だから、感想戦は盛り上がるんじゃないかなと思いますね。同じ絵を見たとしても、他の人と同じようには感じられないと思う。そこがいいところです。

清田

確かに! こうして話してる時間もめっちゃ楽しい(笑)。勝手にいろんなものに引きつけて、自分の関心とか好きなものとか体験とか、なんでも結びついてしまう。

トミヤマ

知りたくなかった感情に気づいてしまう人もいるかもしれないですね。なんでこれが好きなんだろう?ひょっとして私……?みたいな目覚めがあるかも(笑)。この感情はなんだろう、と考えて、自分の問題として引き受けるのはすごくいいと思います。あやしい、あやしくない、というジャッジをするだけではもったいないです。

清田

ニコ生[註1]で、男性の学芸員さんが「美しさ」と「あやしさ」の違いの話をしていて、美しいっていうのは既存の何かに触れた時の感情で、あやしいっていうのは未知のものと触れた時の感情だという意見になるほどなと思った。自分が持っている感性、ストック、構築されたものは人それぞれ違うから、どう感じるかは人それぞれなわけで。

トミヤマ

「わからない」が少しでも入ると「あやしい」になるのかもしれないですね。綺麗だけどよくわからない、だから、あやしいと感じる、とか。私は江戸川乱歩で修士論文を書いたので、「わからない」部分がだいぶ減って、純粋に面白いとか楽しいと感じますけど、乱歩と言えばやっぱり「あやしい」だろうと思う人もいるでしょうし。

清田

自分は卒論で野坂昭如の小説をテーマにしたんですね。当時は野坂の「エロ・グロ・ナンセンス」を面白いと感じていたんだけど、ジェンダーを学ぶようになってからは、「女の人の描き方が酷いな……」と思うようになり、しばらく遠ざかっていた。でもさっき出た話のように、そこに宿るパワーや迫力みたいなものはやっぱりすごいし、ジェンダー観の偏りをもって切り捨てることはできない何かがある。問題は問題として捉え直しながら、自分が惹きつけられてしまったものは何か、人々を魅了するものがあるとしたらそれはなんだろうって。

トミヤマ

ええ。かなり自分と向き合うことになりますよね。

清田

着崩した女の人をエロいと感じてる自分嫌だな……と葛藤しつつ考えていきたいと思います(笑)。

 

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1 ニコニコ美術館「休館中の東京国立近代美術館「あやしい絵展」を巡ろう」2021年4月26日放送。2021年8月15日までアーカイブ配信あり。
https://live.nicovideo.jp/watch/lv331508139


プロフィール

トミヤマユキコ:東北芸術工科大学芸術学部文芸学科専任講師。著書に『少女マンガのブサイク女子考』(左右社、2020年)など。
清田隆之:恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。著書に『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス、2020年)など。二名の共著として『大学1年生の歩き方』(左右社、2017年)がある。