過去の展覧会

  • 2021.10.5- 2022.2.13
  • 所蔵作品展

MOMATコレクション

MOMAT Collection

2021年10月5日-2022年2月13日の所蔵作品展のみどころ

佐伯祐三《ガス灯と広告》1927年

 MOMATコレクションにようこそ!19世紀末から今日に至る日本の近現代美術の流れを、国際的な関連も含めてご紹介します。
 いつも当館選りすぐりの名品が凝縮された4階1室、今回は「ハイライト改めインデックス」と題し、名品ぞろいは従来のままに、少し趣向を変えてみました。3室では、1階で開催される「民藝の100年」展(10月26日より)に関連して、柳宗悦も参加した雑誌『白樺』周辺の画家たちを取り上げました。3階7室と8室では、戦後にグラフィックデザインと絵画との境界を超えて活動した作家たちに焦点をあてます。2階11室では、田中功起《ひとつの陶器を五人の陶芸家が作る(沈黙による試み)》の「手話とバリアフリー字幕版」(2013/2021年)を公開します。昨年度に当館が、幅広い鑑賞の機会をつくるための取り組みの一環として試みたもので、今年度いっぱい、ウェブ上でもご覧いただけます。
 今期も盛りだくさんのMOMATコレクション。どうぞごゆっくりお楽しみください。

 

出品作品リストは、こちら (PDF)

今会期に展示される重要文化財指定作品

■今会期に展示される重要文化財指定作品は以下の通りです。

  • 原田直次郎《騎龍観音》1890年 寄託作品|1室ハイライト
  • 和田三造《南風》1907年|2室
  • 萬鉄五郎《裸体美人》1912年|3室
  • 岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》1915年|3室

  4点の重要文化財(1点は寄託作品)についての画像と解説は、こちら

展覧会構成

4F

1室 ハイライト
2-5室 1900s-1940s 明治の終わりから昭和のはじめまで

「眺めのよい部屋」

美術館の最上階に位置する休憩スペースには、椅子デザインの名品にかぞえられるベルトイア・チェアを設置しています。明るい窓辺で、ぜひゆったりとおくつろぎください。大きな窓からは、皇居の緑や丸の内のビル群のパノラマ・ビューをお楽しみいただけます。

「情報コーナー」

※MOMATの刊行物や所蔵作品検索システムは、現在ご利用いただけません。

 

1室 ハイライト改めインデックス

ポール・セザンヌ《大きな花束》1892-95年頃

 いつもは館を代表するような作品を展示している第1室ですが、今期は趣向を変えてみました。目指したのは序論のような部屋。次のふたつのことを意識して作品を選んでいます。
 ひとつは、今期のMOMATコレクション展全体のインデックスとなること。第2室から第12室には、それぞれの部屋のテーマに沿った作品が展示されています。それをいくつか先取りして、この部屋にも関連作品を交ぜました。解説文の最後に関連する部屋の案内を添えたので、興味をそそられたらそこだけ見に行くのもアリです。
 もうひとつはコレクション全体の幅を示すこと。当館のコレクションで最も制作年が古いのは1840年代の写真作品、最も新しいのは2020年作の洋画(寄託作品)と版画です。ここでは1880年代から2019年まで、130年余りの間に生み出された作品が、ガラスケース内の日本画は約25年刻み、紺色の壁にかかった額装作品は約15年刻みで並んでいます。最近は現代美術のコレクションも徐々に厚みを増してきました。

2室 和洋がなじむまで

和田三造《南風》1907年、重要文化財

 ひとつ前の部屋で原田直次郎《騎龍観音》をご覧になったでしょうか。仏教という東洋的な主題を西洋の技術(油絵)で描く和風洋画と呼ばれるスタイルはいま見れば奇妙に感じますが、その奇妙さこそが貴重な始まりの気運を伝えます。
 幕末以来急速に押し寄せる西洋化の波の中で、外来の技術を取り込みながらいかに日本の絵画を作り上げるか。それがすなわち日本美術の近代化の出発点でした。
 欧化と国粋化の間で揺れ動いた時代を経て、1907(明治40)年、フランスのサロンに倣った文部省美術展覧会(文展)が開設されます。日本画、洋画、彫刻のジャンルを規格化した文展が、日本の美術の形式や様式に落ち着きをもたらしました。この部屋で紹介している作品は、久米桂一郎の作品以外すべて文展出品作です。和田三造の描く理想的な(西洋的な)身体、陰の中の色彩を細密に描く久米の(西洋的な)写実、油気を抑えた(東洋的な)小杉未醒(放菴)の描き方、落差のある近景と遠景がつながる和田英作の(東洋的な)構図。和洋が揺すられ、攪拌され、溶け合い、なじんでいく過程をご覧ください。

3室 ほとばしるフライハイト ―『白樺』と青年たち

岸田劉生《B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)》1913年

 1階で開催される「民藝の100年」(10月26日より)とゆかりの深い白樺派に関連した作品を中心に紹介します。柳宗悦らが1910年に創刊した雑誌『白樺』は、個性を鼓舞する斬新な論説で若い世代の芸術家たちを刺激しました。『白樺』創刊と同年に高村光太郎が発表した評論「緑色の太陽」は、この時代のムードを色濃く伝えます。「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」。太陽は緑で描かれて構わない。それは個性の尊重であると同時に、(目を閉じたときに太陽が緑に映じるように)内面性の肯定、生命賛美の宣言でもありました。
 作者の恋情を託してうねる荻原守衛の彫刻、前世代を挑発する萬鉄五郎の強烈な色彩は、この時代の象徴といっていいでしょう。『白樺』は西洋近代美術を積極的に紹介し、同時代の作風の形成に直接の影響も与えました。前の部屋の穏健さから、がらりと様子が変わっていることがわかると思います。風景を刻み込むセザンヌの視点が、燃え立つようなゴッホのタッチが、筋肉の緊張を伝えるロダンの手法が、各作品に流れ込んでいるのが見て取れます。

 

4室 「 生」を刻む― 近代日本の木版画から

山本鼎《ブルトンヌ》1920年

 明治末から大正期にかけて、西洋の新しい美術思潮の移入に刺激され、近代的な自我意識や芸術の独創性への意識が高まりをみせるなかで、単なる複製技術ではない、芸術としての「版画」を立ち上げようとする機運が高まりを見せました。印刷技術の発達や浮世絵版画の分業体制への反発も背景にもちながら、絵を描くところから刷るところまで、一貫して画家が制作に携わる創作版画が提唱され、1918(大正7)年には日本創作版画協会が結成されましたが、木の板に直に彫る木版画はその中心的な役割を担います。そこには「民藝」が重きをおいた手仕事に通じる精神も見ることができるでしょう。民藝運動に関わりの深い棟方志功も木版画家でした。画家の内面や感情と直接的に結びついた表現から、次第に単純な形態、黒白の対比、力強い線といった木版表現の特質の追究も加わり、個性豊かな多様な作品が制作されました。

5室 パリの空の下

アンリ・ルソー《第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神》1905-06年

 ユベール・ジロー作曲の有名なシャンソンでは「パリの空の下、歌が流れ、恋人たちが歩く」といいますが、アンリ・ルソーによればパリの空には芸術家たちを導く自由の女神がいるようです。女神のラッパに従って、芸術家たちは作品を片手に展覧会場に集まっていきます。審査を受けずに発表できる展覧会、それはすなわち、芸術家ひとりひとりの個性の尊重を意味します。そうした思想は明治時代末以降の日本の芸術家たちにも大きな影響を与えました。芸術の都にあこがれ、パリをめざした日本人芸術家は、とりわけ二つの世界大戦の間におびただしい数にのぼります。彼らはさまざまな視点からパリを描きましたが、当館のコレクションをあらためて眺め渡してみると、いわゆる観光名所のような華やかな景色よりも、裏道や、場末のカフェや、労働者といった、どちらかというと目立たない存在に光を当てるものが多いようです。それらは異邦人としてパリに身を置いた者にとって共感できるモチーフだったのかもしれません。

3F

6-8室 1940年代-1960年代 昭和のはじめから中ごろまで
9室 写真・映像
10室 日本画
建物を思う部屋(ソル・ルウィット《ウォールドローイング#769》

 

6室 激動の時代を生きる

靉光《自画像》1944年

 この部屋には、日中戦争の始まった1937(昭和12)年から、戦後の1949年までの、さまざまな人間像を集めました。靉光の《眼のある風景》は人間像とはいえないかもしれませんが、しかしここに描かれている眼は印象的です。これはいったい誰の眼で、何を見つめているのか、しばし考えながらこの部屋をめぐっていると、麻生三郎の《自画像》の、切迫したまなざしにも似ていることに気づかされます。だとするとやはり、《眼のある風景》に描かれている眼は、靉光自身の眼なのでしょうか。しかしながら彼が戦争へ行く直前に描いた《自画像》では、その眼は全く異なる印象を私たちに与えます。
 画家たちはまた、この激動の時代に、身近な人の存在のかけがえなさをキャンバスに刻み付けたようにも思われます。前述の麻生は、妻や幼い娘を繰り返し描きました。脇田和の《画室の子供》に描かれているのは、彼の二人の息子です。
 彼はこの直後に陸軍の委嘱でフィリピンに渡る予定でした。彼は何を思いながらこの絵を描いたのでしょうか。

7室 純粋美術と宣伝美術 その1

 日本初のグラフィックデザイナーの職能団体である日本宣伝美術会(日宣美)が設立したのは1951(昭和26)年でした。設立当時に会のメンバーが記した文章を読むと、デザインという言葉は見当たらず、宣伝美術という言葉が用いられています。また、宣伝美術が一つの分野として独立性を持たないことに対して不満を抱えている一方で、芸術性や作家性を重んじたいという思いがあったことを感じ取ることができます。
 日宣美のなかには、美術同人として活動している者もいました。例えば、瑛九が中心となって活動したデモクラート美術家協会には、早川良雄や山城隆一が参加していました。造形の類似性も指摘できます。シュルレアリスムの絵画でよく用いられる白昼夢の風景や擬人化といった手法は、宣伝ポスターでも見ることができます。ヤマハのピアノや三協のカメラのデザインをした山口正城は、抽象画家としても作品を発表しています。美術とデザインの間に今ほどはっきりと境界線が存在していなかったことが分かります。

8室 純粋美術と宣伝美術 その2

 あるものの要素や性質を抽出してそれに形を与える、いわゆる抽象化という過程が美術やデザインには存在します。美術家やデザイナーは、表現における抽象度の度合いを巧みに操ることで作品を介して鑑賞者とのコミュニケーションを図ります。例えば、宣伝ポスターでは適度に抽象化された表現を用いた方が情報の伝達が早い場合があります。絵画や彫刻において、感覚的な「イメージ」を伝えるには、写実的な表現を避けた方がいい場合があります。
 1950年代、60年代の抽象表現でよく用いられていたのは、おおらかな曲線のフォルムです。有機的で、なんとなく生き物を思わせる形象はビオモルフィックといわれ、家具の造形においてもその影響が見られました。
 菅井汲や小磯良平、北代省三が制作した絵画や彫刻作品と、彼らがデザインしたポスターとの比較もお楽しみください。小磯は新制作協会、北代は実験工房というグループに属していたので、その仲間の作品も一緒に展示しています。

9室 石元泰博:落ち葉・ あき缶・雲・雪のあしあと

 生誕100年を記念して、石元泰博が1980年代後半から90年代半ばにかけてとりくんだ、「うつろいゆくもの」をめぐる四つのシリーズを特集します。
 雨に打たれて朽ちていく路上の落ち葉をとらえた〈落ち葉〉に始まる四つのシリーズのうち、〈雲〉と〈雪のあしあと〉が発表された個展のリーフレットには、『方丈記』の一節が引かれていました。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と、またかくのごとし」
 一連の作品は、時の流れという主題をめぐるものであり、のちに他のいくつかのシリーズを加えて『刻−moment』(2004年刊)という写真集にまとめられます。
 アメリカ、シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニューバウハウス)に学んだ生粋のモダニストとして知られた石元ですが、この一連の仕事を通じて見出したのは、螺旋形を描いて流れる日本的な時間感覚であり、また自らの中にも、そうした日本的な感性が強く息づいていることだったといいます。

10室 音はみえるか、きこえるか(前期:10月5日―12月5日)

中村大三郎《三井寺》1939年
(展示期間:10月5日―12月5日)

 絵を見る時の私たちの意識は、色や形、構図など、目を通して得られる情報に頼っています。だからと言って、視覚芸術は音と無縁だったわけではありません。むしろ、音という見えないものをどのように表現するかということは、古くから多くの画家たちにとって重要なテーマでした。
 ワシリー・カンディンスキーやハンス・リヒターは、音の組合せだけで旋律やリズムが成り立つ音楽の構造を絵画に取り入れました。何かを表すための色彩や形態ではなく、キャンバスの上で色彩と形態それ自体が純粋に響きあう、新しい表現を生み出そうとしたのです。
 奥の部屋では、日本画と版画を中心に、音が聞こえてきそうな作品をご紹介します。音楽を主題にしたものだけでなく、日常の生活の中で自然に生じる音や、生き物たちのざわめきまで、見えないものをどうやって表すかは作者の腕の見せどころ。耳を傾けると、静かな展示室からさまざまな音がしてきませんか?目と耳をリラックスさせて、あなただけに聞こえる音を楽しんでみてください。

10室 機械メカの美(後期:12月7日―2022年2月13日)

太田聴雨《星をみる女性》1936年
(展示期間:12月7日―2022年2月13日)

 近代化が進展した1920–30年代は、都市文化の繁栄とともに、機械ならではの美しさに対する意識が新たに芽ばえた時代といえます。あたかも機械の部品のように、人体を各パーツへと解体し、幾何学的な形態と組み合わせて再構成した萬鉄五郎の《もたれて立つ人》。パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックがフランスで創始したキュビスムの影響を受けていることは明らかですが、人間と機械を等価なものとするまなざしを見てとることもできます。
 一方、同時代の日本画はどうでしょう。望遠鏡やカメラは新しい時代の到来を象徴するモチーフとして描かれ、金属の硬さや重量感が、女性の若々しい透き通るような肌やしなやかさと引き立てあう効果を生んでいます。戦後になると、パンリアル美術協会の三上誠や星野眞吾らは「写実的」という意味のリアルではなく、「現実社会」という意味のリアルと向き合うための日本画を追求しました。
 彼らの作品には、生命感の希薄な動植物あるいは意思を持った機械のようなモチーフなど、生命と機械が融合した心象世界が広がっています。

2F

11–12室 1970s-2010s 昭和の終わりから今日まで

 *ギャラリー4(13室)

※今期のギャラリー4は「民藝の100年」の展示会場になります。

 

 

11室 協働する

田中功起《ひとつの陶器を五人の陶芸家が作る(沈黙による試み)》「手話とバリアフリー字幕版」(2013/2021年)より

 近年、美術館での映像展示の機会は増えていますが、バリアフリー字幕や手話映像が付いているものは少なく、ろう者、中途失聴者、難聴者にとっては、美術館での映像作品鑑賞に高いハードルがあります。2020年度、東京国立近代美術館は、幅広い鑑賞の機会をつくるため、アーティストの田中功起氏の全面的な協力のもと、所蔵作品である《ひとつの陶器を五人の陶芸家が作る(沈黙による試み)》(2013年)の「手話とバリアフリー字幕版」を制作しました。この作品は、出自や境遇、性別、考え方の異なる人々の「協働」をテーマとしています。今回制作した「手話とバリアフリー字幕版」も、アーティスト、ろう者、美術館スタッフ等、様々な立場の人々が一つの作品を制作する「協働」でした。複数人で目的を共有することは時に困難を伴いますが、そのプロセスは立場の異なる他者を理解することへの始まりでもあります。
 この部屋では、この新たな鑑賞機会の試みとともに、「協働」にまつわる作品を合わせてご紹介します。

12室 近代の領分テリトリー

 この部屋では、(1点の例外をのぞいて)1960–80年代末の作品を紹介します。
 東京国立近代美術館(1952年開館)の「近代」とは、「modern[モダン]」など西欧言語の訳語で、近代の、現代の、近頃の、いま風の、と時に応じてさまざまな訳が当てられてきました。70–80年代、日本では美術館の建設ラッシュが起き、「近代」を冠した美術館が各地に開館します。そしてこの建設ラッシュと近代という名づけ(のブーム?)は、80年代末頃に終息していきます。これにはバブル崩壊や、80年代に盛んに語られたポストモダン(モダン以後)という動向も関係しているでしょう。
 「近代はすでに終わってる?」、「近代と現代の区分は?」、「いや、名前の問題じゃないのでは?」…、 同時代の美術を90年以降も扱い続ける「近代美術館」には、なかなか大問題です。以上のような関心から、今回の展示の結びを「近代」にとってひとつの転換点である80年代末の美術としました(みなさまとこの問題を少し共有してみたいという希望を込めつつ)。

小特集:純粋美術と宣伝美術(3F、7室8室)について

展示を読み解くキーワード

展示を読み解くうえで、知っておくと理解や鑑賞がぐっと深まるキーワードを解説付きで紹介します。

展示を見る前の予習にもおすすめです。

スマートフォン用PDFはこちら

 

キーワード一覧

 ※タイトルをクリックすると該当箇所にとびます。

1.純粋美術

2.宣伝美術

3.日本宣伝美術会

4.シュルレアリスム

5.コラージュ

6.デモクラート美術家協会

7.実験工房

8.新制作協会

9.工芸ニュース

10.商工省工芸指導所

 

・展示に関連する順番に記載しています。

・引用文に用いられている旧字体は新字体に変換しています。送り仮名等は原文のままです。


 

1.純粋美術

 現代では聞き慣れない言葉ですが、本小特集が焦点をあてている1950〜60年代頃は絵画や彫刻のように、芸術的価値の追求、鑑賞を目的とした美術を純粋美術と呼ぶことがありました。便宜上の単なる区分と理解できますが、単に美術と言わず、「純粋」をつけることで非純粋な美術も存在することをうかがわせています。ちなみに純粋美術と対になるのは非純粋美術ではなく、応用美術です。応用美術は美術的表現に加え、生活や宣伝といった機能や実用性を持つものを指します。例えば、インテリアの装飾、家具や食器、ポスターやチラシなど商業を目的とした印刷物などが含まれます。

2.宣伝美術

 応用美術のひとつである商業美術に属します。商業美術は商業を目的とした制作物を指しますが、特にディスプレイやチラシ・ポスターなど、何かを宣伝をするためのものを宣伝美術と呼びます。普段私たちが目にする日用品の広告を呼ぶ際にはあまり用いませんが、演劇やダンスといった公演のチラシやポスターのことを宣伝美術と呼ぶことがあります。劇場で演じられるパフォーマンスのための舞台装置や衣装を舞台美術と呼びますが、それと対になって使われている印象です。 
 1950年代初頭はこの種の仕事に従事する人たちの呼称として、宣伝美術家以外に図案家、商業美術家などが用いられました。50年代後半になると徐々にグラフィックデザイナーと呼ばれることが増えてきます。

3.日本宣伝美術会

 1951年に設立したグラフィックデザイナーの職能団体です。山名文夫あやお、河野鷹思たかし、原弘、今泉武治、高橋錦吉きんきち、新井静一郎、亀倉雄策の7名が世話人となり発足しました。略称、日宣美。宣伝美術の向上と宣伝美術家の職能地位の確立と支援を目的としており、全国組織として運営されました。年に一度開催される日宣美展以外に、定期的に研究会や日本各地のメンバー交流も行われました。約20年間活動を継続しましたが、時間の経過とともにグラフィックデザイン界における権威的な組織としての側面が際立つようになり、60年代末には美術系の学生たちが起こした反体制運動で批判の的となりました。その後、1970年に解散します。

4.シュルレアリスム

 1924年にフランスの詩人アンドレ・ブルトンが提唱したことから始まった芸術運動です。文学に加え、美術、映画など多分野で展開されました。日本語では超現実主義と訳されます。精神分析学者であるジークムント・フロイトの理論を基軸にし、芸術を通じて無意識の自由な表出を試みました。シュルレアリスムは、自動筆記やフロッタージュ、コラージュといった多様な表現技法を生み出しました。日本でも20年代後半には紹介され、その影響は波及、30年代を通して前衛美術のスタイルとして大きな潮流を生み出します。その中心にいたのが美術評論家、詩人そしてアーティストでもあった瀧口修造です。
 非現実的なものや奇抜で幻想的なものを見ると私たちは「シュール」という言葉を使いますが、シュルレアリスムから転じたカタカナ語です。

5.コラージュ

 はり絵(コラージュ)とは、写真や新聞、絵など様々な素材を切り貼りし、新しいイメージや性質を作成する技法です。素材となるものが元々持っていたイメージや性質が本来の意味から切り離され、他のものと組み合わされることで新しい意味が生み出されます。「糊付け」という意味のフランス語「coller」に由来し、シュルレアリスムの作品でよく用いられました。
 ポスター《平和祭》をデザインした今竹七郎もシュルレアリスムに注目しており、シュルレアリスムの作品に用いられる様々な技法のなかでも、特にコラージュは商業美術で効果的に作用すると言っています*。コラージュで生まれる個々の無関係な素材の組み合わせは、現実を破壊し、そこに詩的な表現を発生させますが、商業美術においては、それが伝えたい内容へと転換されるのだそう。みなさんは《平和祭》の宇宙、薔薇と原子力の組み合わせに、どんなメッセージを読み取ることができるでしょう。

*今竹七郎「どうして商業美術はシュール化したか」『広告界』1939年9月号

6.デモクラート美術家協会

 1951年に瑛九を中心として大阪で結成されたグループです。名前の頭に付く「デモクラート」とは、デモクラシー(民主主義)を意味するエスペラント語です。その名の通り、自由と独立の精神を大切にし、既存の美術団体や権威主義を否定しました。またメンバーの活動ジャンルも幅広く、芸術家の泉茂、森けい、郡司盛男らに加え、デザイナーの早川良雄、写真家の棚橋紫水しすい、河野徹らが創立メンバーとして参加。1957年の解散まで、展覧会の開催や機関誌の発行などを行いました。
 ポスター《カロン洋裁》をデザインした早川良雄は、自著で瑛九に初めて会った時のことを回想し、「困惑にも似た戸惑い」を感じたと記しています*。その不思議な魅力と懐の深さに惹きつけられ会に参加し、解散までメンバーとして活動しましたが、その経験はとても「エキセントリック」だったと語っています。

*早川良雄「ふたりの思い出=山口正城と瑛九」『徒然感覚』、用美社、1986年

7.実験工房

 1951年に結成された芸術家たちの集まりです。美術や音楽、文学などジャンルを超えて結成されました。芸術家の山口勝弘、北代省三、駒井哲郎、福島秀子、大辻清司きよじに加え、作曲家の武満徹やピアニストの園田高弘、詩人・評論家の秋山邦晴、舞台照明家の今井直次らが参加。瀧口修造によって「実験工房」と名付けられました。
 実験工房は芸術活動だけでなく、企業と協働で行うプロジェクトにも参加しています。日本自転車工業会の海外用PR 映像を製作したり、東京通信工業(ソニーの前身)が開発した発売前のオートスライドと呼ばれる装置を用いて、抽象的な写真と音響を組み合わせた映像作品の制作をしたりしています。

8.新制作協会

 美術界での派閥争いを否定し、真摯な気持ちで芸術活動に専念することを目的とし、1936年に新制作派協会として結成されました。画家の猪熊弦一郎、小磯良平、脇田和、鈴木誠、伊勢正義らが初期の中心メンバーです。1949年には、丹下健三、谷口吉郎、吉村順三、山口文象、前川國男、池辺きよし、岡田哲郎の7名によって建築部が設けられました。1951年に日本画部が設けられ、新制作協会と改称します。
 建築部の設置の際に、丹下は、「創造的な世界では、建築、彫刻、絵画は一つである。それをModernismと呼びたいと思う」と創造活動の統一の必要性を『新建築』で論じました*。
 新制作協会で誕生した領域を超えた協力関係は、会の活動以外にも見ることができます。例えば丹下が設計した香川県庁舎の東館1階にある壁画は猪熊によるものですし、当館から徒歩圏内にある帝国劇場は谷口による設計で、ロビーには猪熊の絵のステンドグラスが使われています。ちなみに当館の建物も谷口の設計です。

*丹下健三「建築・彫刻・絵画の統一について」『新建築』24巻11号、1949年11月号

9.工芸ニュース

 1932年に商工省工芸指導所の編集により創刊された研究機関誌です。工芸指導所での試験・研究発表の他、国内外の工芸・デザイン関連のニュースを詳細に伝える貴重な情報源の一つで、1974年まで刊行されました。
 キャプションに表記されている巻・号情報は、正式な書誌情報に基づいていますが、表紙の表記と一致しないのでご注意ください。今だったらあり得ない誤植(あるいは単にルールがなかったのか?)ですが、ともかくおおらかな時代だったことが分かります。

10.商工省工芸指導所

 国内の工芸の近代化、産業化と東北地方の工芸業界の発展を目的とした国立の研究・指導機関で、1928年に仙台市に設立されました。素材や技術の研究や情報交換、海外との交流の中継等、日本におけるものづくりの発展に寄与しました。剣持勇、秋岡芳夫、豊口克平といった、日本のデザイン史を彩る面々が所員として所属していました。1952年に、工芸指導所は産業工芸試験所と改称し、インダストリアルデザインの指導・研究が主な業務となります。
 1950年に工芸指導所を訪れた彫刻家イサム・ノグチは、剣持勇の協力を得て、一時的に指導所内にアトリエを構えました。当時関わっていた慶應義塾大学の新萬來舎のための家具や彫刻作品の制作にあたるためです。その後、アメリカに帰国したノグチが仲介となって、イームズ夫妻がデザインしたアームチェアが剣持と柳宗理のもとに届けられます。この逸話も含め、工芸ニュースにはイームズに関する記事が多数掲載されています。

 

文:野見山桜(本小特集企画者|東京国立近代美術館工芸課 客員研究員)

 

特別インタビュー

永井一正

小特集「純粋美術と宣伝美術」では1950年代に制作されたポスターを取り上げています。それに関連して、その当時まさに駆け出しのグラフィックデザイナーだった永井一正さんに展示の企画者がお話をうかがいました。どんな時代だったのでしょうか、そして今回の小特集のテーマになっているデザインと美術の関係性をどのように見ていたのでしょうか。その模様を一部こちらでご紹介します。

※全編は2022年春に発行予定の東京国立近代美術館研究紀要に掲載予定です。

photo:Yoshiaki Tsutsui

話し手:永井一正 (グラフィックデザイナー/日本デザインセンター最高顧問)

聞き手:野見山桜 (東京国立近代美術館客員研究員)

[2021年7月19日(日本デザインセンターにて)]


戦後、そして大学進学

野見山 永井さんは、戦後、1950年代からグラフィックデザイナーとして活動されていますが、東京芸術大学では彫刻を学ばれています。幼少期から大学進学あたりまでのお話をおうかがいできればと思います。

永井 

戦時中の話からになりますけれど、勉強部屋から空襲警報が鳴って飛び出した直後に、そこに直撃弾が落ちて、だから2、3分遅かったら今頃こうしていないというか、死んでいたんです。そこからもちろん家は全焼して、母と姉とで命からがら逃げて、焼死体はゴロゴロ転がってという感じだったんですよ。本当に飢餓に苦しんだというか、だから栄養失調みたいなものもあったと思うんですけど。姫路が両親の故郷だったものですから、姫路にちょっと移って、旧姓の中学、だから5年生なんですけど、卒業したときに、父が勤め先のダイワボウ(大和紡績)から満州繊維公社の理事ということで、満州に行っていたんですよ。今の中国で、そのころは満州国というのがあって。それから終戦後は完全に音信不通になってしまって、噂ではシベリアにソ連軍が占拠してましたからね、連れていかれたのではということで。

自分は長男ですし、姉はいたんですけれども、何とかしないといけないと思って、北海道の山奥を開拓すれば自分の土地になると聞いて。僕は体がものすごく弱かったんですけれどね、無謀にも、もう10日間くらい満員電車、窓から乗らないと乗れないような超満員の列車なんですけど、そこでゴタゴタしてて。今は地下トンネルがありますけど、青函連絡船に乗って北海道へ渡って、室蘭に着いて。室蘭鉄道っていうのに、父の知人が鉄道会社にいたものですから、それを頼って行ったんです。そこでちょっと過ごして、そこで知り合った人と釧路からだいぶ離れた音別っていう駅があるんですけど、そこからさらに、なん十キロか、馬で半日以上かかるようなところの山奥に入って、丸太小屋で生活しました。

そして、馬で開墾するんですけど、親方ともう1人の、一緒に行った兄貴分のような人は大丈夫なんですけど、僕は馬鹿にされて、馬に蹴られたりとか散々な目にあって。ある日、道に迷って、真夜中に月も出てもない真っ暗で、獣の咆哮を受けて。一晩中彷徨って命がないかと思ったんですけど、ようやく人家にたどり着いて。そのことを横尾忠則さんなんかは、永井一正のデザインの原点はそこにあるっていうようなことを文章に書いてくれたりしてたんですけど。そうするうちに父が戻ったっていうから帰って来いっていうことで、半年くらいかな、そこにいたんですけれど。また戻って新制の、今の高校の3年生に編入学して、そこから芸大に行ったんですよね。

芸大っていうのは東京美術学校だったんですけど、僕は東京芸術大学に改称後の一期生なんです。彫刻科に、塑像なんですけれども入りまして、2年生の時に眼底出血といって、網膜から出血をして、その時は、ばっと黒い渦がまいているという感じで、左目なんですけど見えなくなってしまったんですよね。それで、もちろん慶應大学かなんかの眼科に行って色々として、徐々に徐々に薄くはなってくるんですけれども、それが2回続けてなって。塑像というのはご存じのように、粘土をこねたりとかするのに割と体力がいるので。必ずしも眼底出血は目の病気だけではなくて、恐らく戦時中の栄養失調とか、結核性もあったかもわからないんですけども、そういうもので重なって体からきているので、塑像みたいに体力を使うものをやると完全に失明するって脅かされたんですよね。それで、止む無く、まだ退学はしないで休学して、大阪が郷里だったものですから戻ってしばらく休んでいたんです。

紡績会社というのが、戦後に活発化したんですよね。物のない時代ですから、糸を作ったり、布を作ったりすれば、それは問屋さんに売れていったんですよね。ところがだんだんと50年代に入ってくると、まぁ45年に終戦になってますから、5年位経つと、世の中が多少は落ち着いてね。ダイワボウがワイシャツとか帆布とかを作り出してね。例えばワイシャツを作るとパッケージもいるし、宣伝のパンフレットとかそういうのもいるし、営業報告書みたいなものもいるしっていうようなことで、永井の息子が芸大にいて、ぶらぶらしているらしいから、やらしたらどうかって。当時暢気なものでその芸大に行っていれば、何だって、デザインだってできるっているふうに思われていたんですね。でもまぁ興味がないこともないので、とにかく行って自分一人ではできないからアシスタントを誰かつけて部屋を作ってくれって言って。工芸学校出の女性なんですけども。

 

彫刻家ではなくグラフィックデザイナーに

野見山 北海道から戻られて、美術家になろう、あるいは彫刻家になろうと思ったきっかけはいかがでしょう。絵の先生のもとでお勉強されていたというのは、以前資料で読んだことがあります。

永井 ひとつは姫路にいたものですから、姫路城。白鷺城って言われる非常にきれいな、用と美を兼ね備えたお城ですから、その圧倒的な立体性と堅牢さっていうのか、敵に攻められないような構造とかね、そういうものにすごく惹かれて。だから建築か、なにか立体みたいなものに行きたいということと、友達に誘われて美術部に入って尾田龍っていう国画会の会員で、当時割と有名な人だったんですけど、その方が顧問で、母校の姫路西高校にいらしていて、そこの美術部で教わって興味を持ったっていうことで芸大を受けて。まぁ、競争率も高かったんですけど、一回で通って。

野見山 立体に関心があって、建築と彫刻を天秤にかけられたんですね。勉強としては全く違うものだと思うんですけど。

永井 やっぱりね、数字に弱いんですよね。数学が苦手だから。やっぱり建築って数学的なものがいるじゃないですか。彫刻はそんなのいらないから。

野見山 相当デッサンなされて、受験に挑まれたんですね。

永井 うん、試験はブルータスかなんかの石膏デッサンだったりしたんで。受けるときは東京に先に半年くらい前に出て、御茶ノ水の美術の予備校に通って、デッサンを習ってということがありましたけども。

野見山 そして、大学に入られて、眼底出血されて中退されるわけですが、当時、彫刻家の石井鶴三さんが先生だったんですよね。図案科に転科されたいと永井さんが申し出た時に強く止められたそうですね。現代だと個人の自由として教授が止めるということもないと思うのですが、やはり当時は彫刻から図案への転向は珍しかったのでしょうか。

永井 極めて珍しいと思います。杉浦康平[1]が建築を出て、グラフィックをやりましたけども、ほかにはあまり聞いたことがない。でも僕の場合は完全に偶然なんですよね。そんなこと夢にも思わないのに、ダイワボウから永井の息子がって、声がかかって、で行って、ぶらぶらしてても彫刻に戻れないならどうして食べていけばいいか分からないしっていうようなことで、じゃあやってみるってやったんですよね。それが不思議にデザインに向いていたというか。とにかくこんな面白いことやって給料もらえるのが嘘みたいって思ったぐらいで、やっぱりデザインがわりと面白かったんですね。

それと、プレスアルト[ⅰ]っていう雑誌があったんですけど、そこにすぐに作品が載って、田中一光[2]が産経新聞社にいて産経会館の何かをやってチラシとかやって、それも載ってお互いに面白い作品作っているなって。お互いに知り合うより前に作品で知り合って、プレスアルトをやっていた脇清吉さんって人に頼んで2人が初めて会ったんですよね。それで意気投合して、そこにキムラカメラっていって不思議なモンタージュを作る木村恒久[3]と、後にハーバード大学の教授になる片山利弘[4]、いずれも個性的な人なんだけど、その4人が意気投合してAクラブというのを作って。僕の下宿っていうのは四畳半にも満たないぐらいなんですけど、そこで4人が川の字に、川の字でもない、4人だから。とにかく議論で疲れて、そこでごろ寝をして、っていうのをやって。ほとんど会わない日はないぐらいで。そして作品を作れば、お互いにぼろくそ言い合うみたいなことをやったりとか。とにかくAクラブという組織を作ったので、大阪の早川良雄[5]さんとか山城隆一[6]さんとか、あるいは東京から山名文夫[7]さん、河野鷹思[8]さん、亀倉雄策[9]さんとかが大阪にいらしたときにはAクラブで話を聞くとか、そういうようなことで色々吸収していった。

 

50年代のポスターについて

「世界のポスター展」展示風景、左側の上から2段目に写る3枚連ねて展示されているポスターが伊藤憲治による《リファインテックス》。

野見山 50年代って仕立てる服から、先ほどおっしゃっていたようなワイシャツのような既製服へと移行し始めて、新しい販促物が必要になってきた頃ですよね。広告の重要性も高くなっていたのかと思います。今回の展示でやろうと思っているのは美術とデザインの狭間の話なのですが、50年代のポスターを見ていくと、布に関連する広告が結構多いなという印象でした。少し資料を見ながらそのあたりの話もうかがえればと思います。
国立近代美術館は、1952年に開館しました。そして、もしかしたら永井さんも行かれたかもしれませんが、1953年に「世界のポスター展」という展覧会を開催しています。これは国立の美術館で開催した初めてのデザイン展で、グラフィックデザインが一番最初だったというのが面白い点なんです。当館で当時展示されたポスターが保管されていたのをここ数年で調査、修復してきました。今回は、その一部なのですが、お披露目するということで、どんなテーマができるのかなぁと考えていたんです。例えば、この《リファインテックス》とかは、まさにお洋服の生地を宣伝するものだと思うのですけど、これは仕立て用の布のためのものですよね。あとは早川さんの《カロン洋裁》もありますね。やっぱりお洋服を作るとか、ファッションに対する関心が高まっていたのだとポスターから読み取れます。

永井 我々は、早川さんのこれらのポスターにはすごく魅せられたといいますか、感銘を受けたんですよね。直接、僕のデザインは早川さんから影響を受けたわけではないですけど、田中一光なんかは惚れ込んで近鉄の駅に貼ってある早川さんのポスターを夜中に盗んだとかいうような逸話があるんですけども。

野見山 当時は、繊維業界は活発で、お金も潤沢にあったんですね。そして結構、関西のデザイナーさんが多いですね。

永井 関西の方は割と自由だったんですよね。感性的でね。東京の方は亀倉さんに代表されるように非常にバウハウス的な論理的な、構築的なものだったんですよね。だけど関西はもうちょっと早川さんに代表されるように、すごい自由だったということでね。

 

ビジュアルコミュニケーションという言葉

日本のグラフィックデザイン運動を考えてみても、その図案的概念から、つまり絵画に対するコンプレックスからときはなされ、絵画と比肩しうるようになったのは、絵画への接近のためではなく、逆に絵画から離れていったためである。したがって、その運動は、デザインの独自性の確立だったといえる。そして、ビジュアルコミュニケーションという言葉と概念の導入は、私達グラフィックデザイナーにコミュニケーターという社会的役割をふりあてて、その立場を再認識させた。(永井一正「コミュニケーション・デザイン=グラフィック・デザイナーの役割」、林進編『現代デザインを考える』美術出版社、1968年)

 

野見山 私が関心を抱いている点ですが、1950年台の初めは割と美術の動向に近い動きをしていた宣伝美術家が多くいたと思います。1960年代に入ると、世界デザイン会議[ⅱ]がきっかけになったと思うのですが、社会的な立場やデザイナーの責任が問われるようになり、日宣美[ⅲ]でもそのようなことが問われるようになりと。そのなかで、ビジュアルコミュニケーションという言葉がデザイナーの役割を価値づけるというか、位置付けるのに重要だったというのがこの文章から凄く分かったんですが、やっぱり意識的にビジュアルコミュニケーションという言葉を取り入れるようになって、自分の作るものに変化はあったんですか?

永井 それはありますね。それと、やっぱり完全にデザインというのは時代に敏感なもので、やっぱりアーティストなんかも時代っていうのはあるけれども、自分が美的世界を作ればね、どんな人間でも現代に生きている限りはそんなに時代を意識していなくても、時代と共に変化をしていきますよね。デザイナーというのは、あえて時代性というのを敏感に感じとらなければいけない職業ですから、やっぱりアーティストとその辺は違うと思うんですよね。

永井 一正《アサヒスタイニー》1965年

野見山 永井さんがデザインされたポスター《アサヒスタイニー》を例に取ると、グラフィック的に力強いものもありますが、商品をちゃんと見せなければならない、売らなければならないという意識も画面から見ることができます。ほかにも後楽園のプールの広告とかも、これも永井さんがされているんだなぁと。永井さんのされていた造形的な特徴とはまた別で、意識的に使い分けていたところはあったんですか。

永井 やっぱり日本デザインセンターというのは、元来は広告を主にやっている会社ですから、そこに入るとどうしても広告を作らなければなりません。アサヒビールなんかはそうですし、ニコンは割と僕の造形的なものでやってはいたんですけれども。やっぱり依頼はそういうビジュアルコミュニケーションを、広告的な要素が加味されたものを要求されるわけですから、それに答えるということがありますよね。だから、アーティストとの決定的な違いはクライアントがあるということですよね。クライアントなしにやっている作家もいるし、僕自身も「LIFE」でね、そんなにクライアントを特定しないで、まぁクライアントも入ってますけれども、全く自由にやっていることはあります。

原則としてはクライアントがあって、それが公共体であれ、消費者であれ、会社であれ、なんにしろ、とにかくそこのものをどのようにして広めていくか、もっと端的にいえば売るかということが求められますから、そこはファインアートと全然違いますよね。

いずれも永井一正《Life》1995年、当館所蔵

野見山 同じ世代くらいの、田中さんは西武のお仕事を長くされて、その仕事を数え出したらキリがないですけど、文化的なものが多かったですね。シアターのものだったりデパートのものもあったり。一方で田中さんの作品で知られているのは日本舞踊のポスターだったりします。そのあたりは皆さんのスタンスはどうだったのでしょうか。

永井 やっぱり作品を作りたいというか。まあ、デザイナーは本来無名でいいんですよね。だけども自分の名前でというよりも、自分が確信した造形の作品を作りたいという、それで自分の個性が一番出るのはポスターなんですよね。だからポスターを作りたいという欲はすごくあるんですよね。だから今もJAGDA[Ⅳ]とかADC[ⅴ]とかも、こういう時代でも、ポスターなんていうのは斜陽だと言われてから久しいですけれども、やっぱり一番ポスターが多いんですよね。

野見山 絵画ではなく、複製という美術のかたちであることに意味はあるんですか?

永井 やっぱり版画もそうですけれど、数から言えばもっと刷られるということがあるし。多くの人に見られるということがありますよね。それで、横尾忠則[10]みたいにアーティストになって、サイトウマコト[11]も最近アーティストになったんですけど。そういう人もなかにはいるけれども、僕はやっぱりアート的なんだけどデザインとしてのギリギリの節度は守りたいと。ポスターの中にどれだけ自由に、今までの既成概念を壊してできるかっていうことに挑戦してきたと思うんですけどね。

 

永井さんが関心を持つ美術

野見山 今この席から見えるのですが、色々と部屋の棚に作品を展示してありますね。例えばあれは倉俣史朗[12]さんのアクリルの作品ですか?コレクションしている美術作家はいますか?

永井 いやぁ、そんなない。三木富雄[13]さんの作品はあるし、高松次郎[14]の作品とか色々ありますけれども、特別にコレクションしてるわけじゃない。

野見山 何かしら購入されたり、手に入れるときに何か惹かれるものがあったと思うのですが、例えば三木富雄さんの作品にあるように耳への執着とか。高松さんも倉俣さんと交流があったりしていましたが。

永井 うちにあるのは、こうフックがあって、それに影がこうあるやつ。

野見山 あぁ影があるやつですね、有名なシリーズですね。

永井 彼も色々面白いものを作ったんだけど、やっぱり影が一番すごいですよね。

野見山 どういうところがお好きなんですか?

永井 影であれだけ色々できたっていうのは。

野見山 お持ちになっている作品は表現であったり、造形の面白さだったりで、何か永井さんがご関心を持っている人の作品っていうことですね。

永井 そうですね。

野見山 最近でなくてもいのですが、作家さんや展示で、ずっとこの人の作品は好きだなぁとか作品集をお持ちの作家さんで思いつく人はいますか?

永井 色々あると思うけど、やっぱり親しいから横尾くんの作品とか。サイトウマコトも毎回呼ばれて、迎えに来てくれて連れて行かれるから。でも興味あるのは、もう亡くなっちゃったけど河原温[15]の初期の浴室の。それから文字だけの、あれはもうすごい長いですからね。

野見山 ちょうど今回のインタビューのきっかけである小特集「純粋美術と宣伝美術」の展示にも河原温さんの作品が出ます。まさに浴室の《孕んだ女性》ですね。ちょうどこの時代が早川さんとか山城さんがデモクラートに所属しているときに、河原さんもいらっしゃったんですよ。同じ頃に活動していたんですね。

永井 この浴室シリーズは傑作だと思いますね。

野見山 この辺のシュルレアリスムの作品も出ますし。あとは、山口正城[16]さんってご存知ですか?当館では2点持っているのですが、本邦初公開します。早川さんや山城さんも山口さんから学んでいたし、もしかしたら永井さんのアシスタントにつかれていた工芸学校の卒業生の方も学んだかもしれません。

永井 バウハウスの教育理論をものすごく勉強された方だよね。

野見山 そうです。でも理論とは見事に異なる、もっと感覚的な人たちが生まれていますが。(山口さんの作品と早川さんの作品を比較しながら)こういう作品を見ると、類似点も指摘できるとは思うんですけども。
今日話をしていて思ったのは、永井さんの上の世代人たちは、少し違う視点で美術との関係性を持っていたんじゃないかということですね。永井さんの世代になると、すんなりと彫刻からデザインへ転向することができたわけで、デザインに対する印象、それを取り巻く社会の状況や教育の在り方も違っていたように感じます。それではそろそろ時間が来ましたので、終わりたいと思います。ありがとうございました。(了)

 

[註]

<人物名>

[1] 杉浦康平(1932-):グラフィックデザイナー。実験的な装丁、造本とタイポグラフィーで知られる。曼荼羅などアジアの図像や文字の研究にも取り組む。

[2] 田中一光(19302002):グラフィックデザイナー。日本の伝統美と幾何学構成を融合させたグラフィック表現で知られ、≪NIHON BUYO≫(1981)は、その代表的な例。

[3] 木村恒久(19282008): グラフィックデザイナー。写真集『キムラカメラ』(パルコ出版、1979)では、精巧なフォト・モンタージュを用いて、奇抜で異様な世界の図像を創作した。

[4] 片山利弘(19282013):グラフィックデザイナー。四角や三角といった基本的な造形要素を、規則性を持たせて変形したり、配置したりすることで生まれる幾何学的な作品を多く生み出した。

[5] 早川良雄(19172009):グラフィックデザイナー。独特の緩いタッチで描かれた絵と文字を大胆に構成したポスターで知られる。

[6] 山城隆一(19201997):グラフィックデザイナー。1955年に制作された《森・林》では、当時新しい技術であった写真植字(写植)が用いられた。

[7] 山名文夫(18971980):グラフィックデザイナー。花椿マークを筆頭に、アール・デコ様式を基調にした資生堂のスタイルを確立させたことで知られる。

[8] 河野鷹思(19061999):グラフィックデザイナー。映画広告から本格的なキャリアをスタートし、大衆の心を掴むユーモアあふれるグラフィック表現を生み出した。

[9] 亀倉雄策(19151997):グラフィックデザイナー。構成主義的なアプローチを軸に、力強く明快なデザインを数多く生み出した。戦後のグラフィックデザイン界で中心的な役割を担った。

[10] 横尾忠則(1936):画家。グラフィック・デザイナー、イラストレーターとして活動を開始し、ポップ・アート的な感覚を取り入れた独自の表現を開拓した。1980年に絵画制作に専念すると宣言した。

[11] サイトウマコト(1952):画家。シンプルながら大胆かつ力強い画面作りを得意とした。デザイン活動の傍ら絵画制作を進め、2008年、画家として初めて作品を発表した。

[12] 倉俣史朗(19341991):プロダクトデザイナー。コンセプチュアルな側面を持つ家具や照明をデザインした。新しい素材に強い関心を示し、なかでも透明のアクリルを用いた作品で知られる。

[13] 三木富雄(19371978):彫刻家。1962年より人間の耳をかたどった作品を制作しはじめる。アルミニウム合金を中心に様々な素材と技法を用いて、多様な耳の作品を数多く生み出した。

[14] 高松次郎(19361998):美術家。絵画にとどまらず、様々なメディアを用いて観念の広がりを感じさせる視覚表現を探求した。1964年から開始した「影」シリーズでは、キャンバスに主題となるものの実体を描かず、影のみを描いた。

[15] 河原温(19322014):美術家。《孕んだ女》(1954)には、上下左右のないタイル貼りの浴室に、切断された体の一部や妊婦が配置された様子が描かれている。日付絵画は、単色で塗られたキャンバスに白色で制作日の日付を描くもので、1966年から始まった作家の代表作である。

[16] 山口正城(19031959):画家、デザイナー。プロダクトデザインを実践しながら、抽象画家としても活躍。大阪市立工芸高校や千葉高校でデザイン教育に従事したことでも知られる。

 

<そのほか>

[ⅰ] プレスアルト:京都のワキヤ書房店主・脇清吉が戦前に発行を始めた雑誌。チラシやパッケージ、包装紙の実物と一緒にそれらに対する批評が掲載された。

[ⅱ] 世界デザイン会議:1960年に東京で開催された日本初の国際デザイン会議。建築、グラフィック、インダストリアルなど、ジャンルを幅広く網羅した内容が話し合われた。

[ⅲ] 日宣美:日本宣伝美術会の略称。1951年に設立した宣伝美術家の職能団体。1970年に解散。

[Ⅳ] JAGDA:日本グラフィックデザイン協会の略称。日宣美の後身的な存在として1978年に設立。初代会長は亀倉雄策。

[Ⅴ] ADC:東京アートディレクターズクラブの略称。1952年に設立したアートディレクターの職能団体。

展示室 レビュー 

協働とクラック /木下知威ともたけ(手話マップ)

展示中の新しいコレクション 

舟越桂《森へ行く日》1984年/成相肇(東京国立近代美術館主任研究員)

野口彌太郎《巴里祭》1932年/大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)

協働とクラック 木下知威(手話マップ)

会場風景|撮影:大谷一郎

会場風景|撮影:大谷一郎

会場風景|撮影:大谷一郎

 2021年10月から2022年2月まで開催されている東京国立近代美術館のMOMATコレクション展では、11室に「協働する」のテーマが与えられた。その展示作品のひとつが田中功起《ひとつの陶器を五人の陶芸家が作る(沈黙による試み)》「手話とバリアフリー字幕版」(2013/2021年)である。
 この制作に手話マップとして制作・監修にかかわった。手話マップは、美術館のアクセシビリティを向上するための後方支援を行うべく、情報保障(手話通訳・文字通訳など)のあるイベントをろう者や難聴者など耳の聞こえない方に提供するためのプラットフォームとして設立された[註1]。東京国立近代美術館のYouTubeチャンネルでは昨年度のキュレータートークの日本語字幕版の監修を行っているほか、最近は対話型鑑賞プログラム「シュワー・シュワー・アワーズ」の開発・実施をしている[註2]
 《ひとつの陶器を五人の陶芸家が作る(沈黙による試み)》「手話とバリアフリー字幕版」の展示方法は次のようなものだ。広い壁にかけられたディスプレイに映像作品が上映されており、その前方に椅子が3脚、左右に出演者たちによる陶芸作品4点が配置されている。右側には、手話ナビゲーターが手話について解説する映像がある。陶芸家たちの映像作品を包むように、作家の田中、美術館、映像制作会社、手話ナビゲーター、手話通訳、手話マップといった各々の意見の相違とそれによる討議の結果が表現されている。背後には同じく田中の《一つのプロジェクト、七つの箱と行為、美術館にて》(2012年)のために積まれたダンボールやソファがある。
 作品を中心に関係するものが集合している11室の展示は、セルゲイ・エイゼンシュテインの映画『イワン雷帝』(1944–46年)で皇帝と貴族・民衆たちが集っているパノラミックな風景を思わせた。手話とバリアフリー字幕版の制作における仔細は東京国立近代美術館の研究紀要26号に載る小川綾子との共著にゆずるが、わたしが言いたいのは、この制作を表象する言葉として選ばれた「協働」は手を取り合って円滑に物事を進めることでは決してないということだ。『イワン雷帝』で、皇帝と配下たちの国の統治をめぐる協働が一筋縄にはいかないように。
 じっさい、制作の過程において関係者の異なる専門性は、基本的な作り方や画面上でのレイアウト、撮影の方法までの全体で意見の相違にあらわれていた。それをクラック(ひび割れ)と呼ぶならば、それを引き起こさないよう調和に努めることは協働のあり方とは思えない。むしろ、積極的にクラックを誘発し、引き受ける必要があった。
 まず、全国の美術館・博物館などにおいて障害のある人の参加を促すためのラーニング・プログラムがまったく十分ではないという調査結果がある[註3]。また、ろう教育においても協働による学習の必要性が指摘されている[註4]。一方で、アーティストが構想するプロジェクトの「参加者にとってのダイナミックな経験の生産=創造」への注目がある[註5]。こうした状況から、手話とバリアフリー字幕版の制作を目的と設定するのではなく、今後の美術館におけるアクセシビリティやろう者の参加可能性を拡充する契機にしたいと考えた。つまり、「他者の参加を促すためのプラットフォームやネットワーク形成に重点が置かれ、それによってプロジェクトの効果が一過性のプレゼンテーションを超えて長期間続くことをめざしている」と考えられている、ソーシャリー・エンゲイジド・アートを目指したということだ[註6]
 ここで意識したのは、反復である。関係者のあいだで頻繁に交わされるメールを読み返しつつ応答することから、手話ナビゲーターの表現の確認を繰り返すことまでの反復だ。また、わたしはスタジオで撮影されたカットを何度も再生しながら自分の知覚にしみこませたうえで、疑問が出てきたら周りに問いかけたが、それは他者の知覚による新しいクラックを見いだすためだったと思い出している。つまり、わたしにとって協働とは反復によって意見の相違を重ねる—クラックを発見する過程のさなかで判断を行うことだった。作品を覆い包むものに無数のクラックが入り、それがやがて音を立てて崩れ落ちた瞬間に、次なる道を探索するための経験が待っている。そういう機会を作ろうとした。

(手話マップ 木下知威  /『現代の眼』636号)

 

1 手話マップのウェブサイトは以下。https://www.facebook.com/shuwamap

2 シュワー・シュワー・アワーズは展覧会の作品について手話と日本語で話し合うワークショップで、2021年10月に横浜市民ギャラリーの企画展「新・今日の作家展2021 日常の輪郭」にあわせて開催された。https://shuwamap.tumblr.com

3 『障害者による文化芸術活動の推進に向けた全国の美術館等における実態調査』(株式会社 文化科学研究所、2020年)では、調査の結果「全体として障害者対応のノウハウが不足しており、前提としての法の認知も進んでいない」(142頁)と結論づけられている。https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/shogaisha_bunkageijutsu/pdf/92531001_01.pdf(2021年12月1日確認)

4 佐々木倫子「ろう教育の現場が直面する課題」『混乱・模索するろう教育の現場:教育政策・言語政策のはざまで』慶應義塾大学湘南藤沢学会、2008年、15–16頁。

5 クレア・ビショップ『人工地獄:現代アートと観客の政治学』フィルムアート社、2016年、374頁。

6 パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』フィルムアート社、2015年、46頁。

 

※本展示は、所蔵作品展「MOMATコレクション」11室にて2022年2月13日まで。

舟越桂《森へ行く日》1984年 FUNAKOSHI Katsura, The Day I Go to the Forest, 1984

舟越桂(1951–)
《森へ行く日》
1984年
木、彩色、大理石、ゴムチューブ
79.0×49.0×24.0 cm
令和2年度購入
撮影:大谷一郎

 例えばここに、中原佑介編著『80年代美術100のかたち INAXギャラリー+中原佑介』(INAX、1991年)という書籍があります。評論家の眼を通して同時代の様々なアーティストを継続的に紹介した1980年代の記録ですが、見返すと直截な人体彫刻は一切現れません(ついでに言えば人物を描いた絵画も、そして女性作家も稀です)。それどころか50年代頃まで遡っても、いわゆる現代美術の中で人体彫刻が脚光を浴びることはほとんどなかったと言っていいでしょう。一種のトレンドとして歴史を語ることには注意を要しますが、80年代中頃の舟越桂の登場というトピックは大きなインパクトを持っていました。
 彩色の木彫、粗めに残された彫り跡、等身大より一回り小さい着衣の人物、大理石による玉眼、へその下までの半身像、木材とは異なる素材との組み合わせ、細い鉄製の台座、そして文学的なタイトル。本作は90年代半ばまでの作者の典型的な特徴を備え、ヴェネチア・ビエンナーレ(88年)、「アゲインスト・ネイチャー」展(89–91年)や主要な個展に出品されてきた代表作です。
 舟越の作品は伝統的な木彫の刷新として迎え入れられるとともに、何よりも、言葉を強く喚起しました。彼の彫像に対する過去の言説を遡ると、いわば象徴主義と呼び得るほどに比喩を駆使した詩的な言葉で埋め尽くされ、またその作品は数々の小説の装丁に採用されてもきました。何がこんなに言葉を、あるいは詩情を誘うのでしょうか。
 タイトルの文学性(本作のタイトルは舟越の最初の作品集の題名でもありました)以外に造形として気付かされるのは、玉眼の配置です。ふたつの黒目はわずかに水平をずらして外向きに開き、視線の焦点は追い切れません。前に立ってもこちらと目が合わないこの特徴に加えて、手首や腰以下の関節が見えないことが抑制された暗示的な動きを生み、何かをほのめかしながら沈思黙考しているような印象を与えます。そこから見る者もまた沈思黙考に導かれ、内面的な物語を紡いでいくのでしょう。あえて比喩を使えば、鏡のような作品であるわけです。
 この像に特定のモデルはなく、肩から胸にかけて張り付いた特徴的なゴムチューブは、もともとデッサンのこの部分に描いていた「つやと粘り気のある黒い帯状のもの」を実際に表したものであったといいます[1]。実在的なリアリティよりもデッサンの発想を優先するそのような制作理念もまた、こちらの空想を触発する詩的な印象と造形に結び付いているに違いありません。

 

(美術課主任研究員 成相肇 /『現代の眼』636号)

 

※ 本作品は、所蔵作品展「MOMATコレクション」12室 にて展示中。(~2/13まで)

[註]

1 「舟越桂 私の中にある泉」カタログ、渋谷区立松濤美術館、2020年、p.117

野口彌太郎《巴里祭》1932年 NOGUCHI, Yataro, Bastille Day, 1932

野口彌太郎(1899–1976)
《巴里祭》
1932年
油彩・キャンバス
116.3×104.0cm
令和2年度購入

 夜の情景。狭い路地を埋め尽くすように、たくさんの男女が手を取り合って踊っています。街の灯りによって闇の中から浮かび上がる青、白、ピンクなど鮮やかな衣装が目を引くでしょう。描いたのは、野口彌太郎。1929–33年にパリに留学、マティスなどに傾倒し、帰国後は独立美術協会の会員となりました。この作品はパリで制作されたもので、帰国の翌年、1934年の第4回独立展で最初に発表されましたが、そのときの題名は「七月十四日祭(モンパルナス)」でした。フランス革命の端緒となったバスティーユ牢獄の襲撃の日、7月14日を記念して、毎年フランスで行われる革命記念日の祭を描いたものです。
 映画好きの方なら、この題名を聞いてルネ・クレール監督の映画「7月14日」(Quatorze Juillet、邦題「巴里祭」)を思い出すかもしれません(おそらく映画の邦題が有名になったため、この絵の題名も後に現在のものに改められたと考えられます)。そしてたいへん興味深いことに、クレール監督の映画も、野口の絵と同じ1932年に製作されているのです。同じ時代の空気を呼吸しながら生み出された両者を見比べてみてもおもしろいでしょう。とはいえ、野口の絵には何らかのストーリーがあるわけではありません。野口は帰国後まもない時期に発表した文章の中で、次のように述べています。

「絵画はもっとそれ自体の価値、存在に邁進したいものだ。文学的要素も、音楽的要素も、又は記録的要素も、説明的要素も、何んでもそれはそれ等の部門にゆずって、絵画としての立場をまもりたい」[1]

 ここでは絵画の自律性、つまり絵画は視覚的な探求に徹すべしということが主張されており、その考えはこの絵にも貫かれているといってよいでしょう。この絵の旧蔵者である友人の画家、大久保泰は、明部と暗部の強烈な絵具の対比を称賛しましたが、それに応えて野口は、ただのけばけばしい対比ではなく、油絵の透明性を活かした重ね塗りの表現(グラッシ)の重要性に注意を促しています[2]。なるほどこの絵の暗部をよく見ると、奔放な筆致ではありますが、緑などの寒色と、その補色となる赤褐色とが重ねて塗られていて、闇の深みの表現や、全体の色調のバランスに注意が払われていることに気づかされます。その上ではじめて、明部の鮮やかな色彩が活かされているのです。

 

(美術課長 大谷省吾/『現代の眼』636号)

 

※ 本作品は、所蔵作品展「MOMATコレクション」5室 にて展示中。(~2/13まで)

 

[註]
1 野口彌太郎「偶感:絵画は絵画的にあれ」『独立美術』15号、1934年12月、p.70
2 大久保泰「野口彌太郎のことなど」『みづゑ』495号、1946年11月、p.53

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オンライン・キュレータートーク公開中

新型コロナウィルス感染症の感染拡大防止の観点から、当面の間、すべての講演会などのプログラムを中止しております。

代わりに、YouTube公式チャンネルにて、「オンライン・キュレータートーク」を配信しております。所蔵作品を約3分ほどの短い動画でご紹介しておりますので、こちらからご覧ください。

 

会場:
東京国立近代美術館本館所蔵品ギャラリー(4F-2F)
会期:
2021年10月5日(火)-2022年2月13日(日)
開館時間:
10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00)
*入館は閉館30分前まで
休室日:
月曜日[2022 年1 月10 日は開館]、年末年始[12 月28 日(火)ー 2022 年1 月1 日(土)]、1 月11 日(火)
 →月間カレンダーもご参照ください。 
チケット:
会場では当日券を販売しています。
会場の混雑状況によって、当日券ご購入の列にお並びいただいたり、入場をお待ちいただく場合がありますので、オンラインでの事前のご予約・ご購入をお薦めいたします。

新型コロナウイルス感染症予防対策のため、 ご来館日時を予約する日時指定制を導入いたしました。
こちらから来館日時をご予約いただけます。

※観覧無料についても、上記より来館日時をご予約いただけます。
※お電話でのご予約はお受けしておりません。

観覧料:
一般 500円 (400円)
大学生 250円 (200円)
※( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。
5時から割引(金曜・土曜):
一般 300円 
大学生150円
※高校生以下および18歳未満、65歳以上、「MOMATパスポート」をお持ちの方、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。入館の際に、学生証、運転免許証等の年齢の分かるもの、障害者手帳等をご提示ください。
キャンパスメンバーズ加入校の学生・教職員は学生証または教職員証の提示でご観覧いただけます。
「友の会MOMATサポーターズ」「賛助会MOMATメンバーズ」会員の方は、会員証のご提示でご観覧いただけます。

「MOMAT支援サークル」のパートナー企業の皆様は、社員証のご提示でご観覧いただけます。(同伴者1名迄。シルバー会員は本人のみ)

・作品リスト(PDF)

・プレスリリース

主催:
東京国立近代美術館

所蔵作品展「MOMATコレクション」(4-2F)のご案内

9室「写真・映像」

9室「写真・映像」*

10室 「日本画」*

「眺めのよい部屋」*

「眺めのよい部屋」*

 「MOMATコレクション」展は、日本画、洋画、版画、水彩・素描、写真など美術の各分野にわたる13,000点(うち重要文化財15点、寄託作品2点を含む)を超える充実した所蔵作品から、会期ごとに約200点をセレクトし、20世紀初頭から今日に至る約100年間の日本の近代美術のながれを海外作品も交えてご紹介する、国内最大規模のコレクション展示です。最近は工芸館で管理する工芸作品も登場させるようになっています。
ギャラリー内は、2012年のリニューアルによって、12の部屋からなるスペースに生まれ変わりました。その1室から12室までを番号順にすすむと、1900年頃から現在に至る美術のながれをたどることができます。そして、そのうちのいくつかは「ハイライト」、「日本画」という特別な部屋、あるいは特集展示のための部屋となって、視点を変えた展示を行っています。
「好きな部屋から見る」、「気になる特集だけ見る」あるいは「じっくり時間の流れを追って見る」など、それぞれの鑑賞プランに合わせてお楽しみください。


展示替えについて

年間数回大きく作品を入れ替えています(会期によっては、さらに日本画を中心とした一部展示替があります)。

このページ内の会場風景はすべて撮影時のものであり、現在の展示と同じとは限りません。
*印:いずれもphoto: 木奥恵三

 

所蔵品ギャラリーについて

 「MOMATコレクション」では12(不定期で13)の展示室と2つの休憩スペースが3つのフロアに展開し、2Fテラス付近や前庭にも屋外彫刻展示を行っています。マップの水色のゾーンが「MOMATコレクション」です。4Fには休憩スペース「眺めのよい部屋」を併設しています。

所蔵作品展「MOMATコレクション」の会場入口は4Fです。1Fエントランスホールからエレベーターもしくは階段をご利用のうえ、4Fまでお上がりください。

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