新しいコレクション

こちらでは、近年収蔵された新しいコレクションをご紹介していきます。
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北大路魯山人《紅白椿鉢》

北大路魯山人(1883–1959)
《紅白椿鉢》
昭和13–15(1938–40)年頃
陶器、色絵
高さ21.3、幅43.0、奥行41.8cm
令和3年度購入

 紅白の椿が描かれた鉢。ぽってりとした厚みを感じさせる花びらと、2色に彩られた葉。細かく描かれたシベの先には、ほのかに黄色みが差しています。写真で見ると実感しにくいかもしれませんが、径43cmというと大人が両腕で抱え込むほど、かなり大きな器です。
 作者は北大路魯山人。陶芸のみならず、書、料理、漆芸、篆刻などさまざまな分野で才能を発揮し、広くその名を知られる芸術家です。幼少期から抱いてきた食への探究心が高じて、料亭「星岡茶寮」を開いたのが42歳のとき。よい器なくして、よい食事はありえないという考えのもと、みずから器をつくりはじめます。
 魯山人が作陶の師としたのは、300年以上前につくられた古陶磁の名品。瀬戸、美濃、九谷、唐津、備前など日本国内はもとより、中国、朝鮮半島の陶磁器も広く蒐集し、それぞれの優れた点を自分の眼でたしかめながら、自身の表現に昇華していきました。なかでも琳派の名手、尾形乾山には大きな影響を受けています。魯山人が乾山の作品について評した「大まかな筆不精なズバッとした優美な意匠」[1]という言葉は、この椿鉢にもそのまま当てはまりそうです。
 あらためて本作を眺めてみると、花びらは一息に描いた円のようにおおらかな姿をしていますが、その筆の運びは一つひとつ微妙に違います。硬質でやや反りのある葉の感じは椿の特徴を見事にとらえており、モチーフを単純な花のパターンとして抽象化せず、生きたありさまを写し取ろうとした姿勢がうかがえます。
 この椿鉢は1938–40年にかけて制作された連作のひとつで、鉢の大小や、花や葉の配色にさまざまなバリエーションがあります。葉の部分に黄色を用いた本作は、実際に椿が咲く冬の景色よりも明るい雰囲気で、どこか軽やかな感じもします。
 さらに描かれた椿の奥に目を凝らすと、薄紅色の下地に所々、白い斑紋が見られます。これは窯の中で釉薬が変質して起こる「窯変」の一種で、「御本手」と呼ばれるものです。高台の中と側面は、釉薬をかけない「土見せ」になっており、魯山人がどのように土という素材と向き合ったのかを知る手掛かりが隠されています。
 ものごとの表面的な解釈や模倣を嫌い、なにごとも本質から体得しなければ気が済まなかった魯山人。あるとき雑誌記者が「ものを美味しく食う方法」を尋ねたところ、魯山人は「腹を減らせばよかろう」[2]と一言。まるで取り付く島もない返事にも思えますが、それは「本当に知りたければ、まずは自分の体で経験してみよ」という魯山人らしい薫陶だったのかもしれません。

(工芸課客員研究員 髙橋佑香子)

 


1 北大路魯山人 平野正章編著『魯山人陶説』中央公論社、1992年
2 北大路魯山人 平野正章編著『魯山人味道』中央公論社、1980年

 

鈴木治《馬》

鈴木治(1926–2001)
《馬》
1977年
磁土、青白磁
高さ51.6、幅34.4、奥行15.4cm
令和2年度購入
撮影:エス・アンド・ティ フォト

 小さな頭部、長い首、大きく角ばった胴体、それに短くて丸い脚がちょこんとついています。まっすぐ前を向いた姿は堂々としていますが、独特のプロポーションはどことなく愛らしくもあります。
 鈴木治は、八木一夫、山田光らとともに1948年に京都で前衛陶芸家集団「走泥社そうでいしゃ」を結成し、用を持たない立体造形としての表現を模索した戦後の日本陶芸に新たな領域を拓きました。馬や鳥、雲や山など、自然界のさまざまな形象の本質をとらえ、そのイメージを簡潔なフォルムの内に凝縮した作風で知られます。
 赤化粧の上から灰をかけた焼締め風の陶による作品が代表的ですが、転居を機に自宅で還元焔焼成のできる窯を使うようになり、1970年代から青白磁(影青いんちん)も制作しました。本作は鈴木の青白磁作品のなかでも最大級のもので、作者自身もとりわけ気に入っていた優品です。ちなみに影青とは、素地に彫り模様などを施した凹みの部分に釉薬がたまり、いっそう青く見えることに由来します。
 同じ焼き物とはいえ、素材も工程もまったく異なる青白磁と赤化粧の陶。両者の違いを「青白磁の作品は加えていくプラスのフォルム、陶器作品は削ぎ落としていくマイナスのフォルム」1と鈴木はいいます。さて、この作品のプラスの要素を見てみましょう。まず、胴部に点々と捺された装飾模様。つるつるした頭や脚と対照的に、細かな凹凸が釉薬の色の濃淡を強調しています。もう一つは、各パーツを接合する際に生じるバリ・・の部分。きれいに取り去ってしまうことも可能なはずですが、あえて残した不定形の陰影が作品のマチエールとなっています。
 青白磁といえば、気高く近寄りがたいほどに端正な中国宋代の影青が一つの規範であり、到達点として陶芸の歴史上に高くそびえています。それは、鈴木が初めて青白磁の作品を発表した際、「もう随分長い時間、心の片隅に、憧れとおそれを同居させながらおいていた、影青でした」2と語っていることからもうかがえます。
 ところが、この《馬》はどうでしょう。一つひとつのパーツを継ぎ合わせた工程が想起されるような制作の痕跡(に見えるもの)が、馬というイメージを構成しています。従来の影青における磁土は、釉の美しさを引き立てる素地としての控え目な存在です。しかし、鈴木は影青の手法を生かしつつも、磁土と手のあいだから生み出された「焼き物」なのだということを静かに言明する、新しい影青の世界へと歩を進めました。幼い子どもが粘土をこね、ちぎり、無垢に作った動物を思わせるプリミティブで柔らかい「プラス」の造形には、長い歴史の中で蓄積されてきた陶芸の価値基準を鮮やかに転換してみせる仕掛けが潜んでいるのです。

(工芸課主任研究員 中尾優衣/『現代の眼』636号)

 


1 鈴木治、白石和己(対談)「ルポ 詩情のオブジェ 鈴木治の陶芸―展覧会に寄せて」『なごみ』233(1999年5月)号、63–64頁。
2 「作家あいさつ」、「鈴木治展」パンフレット、新宿伊勢丹、1971年。

 

荒川豊蔵《志野茶垸 銘 不動》

荒川豊蔵(1894–1985)
《志野茶垸 銘 不動》
1953年頃
陶器
高さ9.7、幅12.3、奥行12.6cm
令和2年度寄贈
撮影:エス・アンド・ティ フォト

高台 撮影:小笠原敏孝

 1930年4月、日本の陶磁史に残る大きな出来事がありました。現在では、桃山時代に焼造された「志野」と呼ばれるやきものが、岐阜県の東濃地域を産地とした美濃焼であることは周知されていますが、その当時は美濃焼ではなく、愛知県の瀬戸で焼造された瀬戸焼として言い伝えられていました。その通説をくつがえし、志野が美濃焼であることを突き止めたのがこの茶碗の作者、荒川豊蔵です。荒川はこの出来事を機に「志野」の制作に着手し、ついには初めての重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されました。
 その荒川は、桃山時代に焼造された「志野」について、「白い釉といっても朝鮮や中国の白さでなく、やわらかい感じの釉が、厚くたっぷりとかかっておりあたたか味を感じるものである。そのところどころに、緋色ひいろという志野独特の調子の高い薄紅色が、柚子のようなぽつぽつアバタのある膚に、自然ににじみ出ている美しさは他の国にも類がない」と、その見どころを解説しています。
 これらの言葉からは、鑑賞者である荒川が「志野」というやきものを読みとき、そして創造者として自身の志野を生み出そうとした手がかりを見つけることができます。
 志野をつくる材料として、ボディには山から掘ってきた白い「モグサ土」、白い釉には水車でついた「長石」と呼ばれる鉱物が用いられました。制作のプロセスとしては、手回しの「轆轤ろくろ」で成形し、「木箆きべら」で削って形を整え、乾燥させた後に施釉し、半地下式の「薪窯」に松の割り木をくべて焼成を行うというものでした。
 これら材料や道具、その制作プロセスについて、現在では当たり前のように知られていますが、荒川が志野を手掛けはじめた昭和初期は、技法書も口伝もなく、まったくの手探りからスタートしました。通説をくつがえしたきっかけは窯址で発見した志野の陶片でしたが、荒川はそれを師として手元に置き、材料を吟味し、技法を探りながら、志野を生み出す手法を一つひとつ確かなものとしていったのです。
 先ほどの見どころをこの茶碗に当てはめてみると、白く厚く掛かっている釉薬が長石を材料とした志野釉です。釉薬がやや薄くなっているところや施釉の際の指跡の周りには紅色が滲み出ています。これが緋色です。そして、志野釉のところどころには柚子の肌のような小さなくぼみ(アバタ)を見つけることができます。加えてこの茶碗では、「梅花皮かいらぎ」と呼ばれる白い釉薬に見られる独特の縮れやボディに用いられている赤い土など、桃山の志野ではあまり見られない効果や材料が認められます。
 荒川は、桃山志野の研究を通して技を高度に体得し、その再現だけに終わることなく独自の作風を確立しました。この茶碗には自身の志野を生み出したいとした荒川の考えが映し出されています。

(国立工芸館長 唐澤昌宏/『現代の眼』636号)

金子潤《Untitled (13-09-04)》

金子潤(1942–)《Untitled (13-09-04)》
2013(平成25)年
陶器/高さ305.3、幅141.4、奥行85.8 cm
令和元年度購入
撮影:太田拓実

 誌面ではその大きさや質感が想像できないかもしれませんが、高さ3メートルを超える陶による作品です。陶ということは、この作品は窯で焼かれています。それも焼成後にパーツを組み立てることなく一体なのです。
 金子潤は愛知県名古屋市に生まれ、1963年に絵画を学ぶためアメリカ・ロサンゼルスに渡りました。たまたま出会った現代陶芸のコレクターに作品を見せてもらったことがきっかけとなりその世界に魅せられ、大学で陶芸の基礎を学びました。当時のアメリカ陶芸は、抽象表現主義の画家やその作品に影響を受けた作品がすでにひとつの歴史をつくっていて、大学の指導者もまた、その潮流に刺激を強く受けていました。素材は土ですが、生み出される作品は、感情が豊かに表現された彫刻的で造形性が強いもので、また、装飾も自由そのものでした。
 1983年に金子は、ネブラスカ州オマハの使われなくなったレンガ工場で、陶作品の大きさの限界に挑戦する「オマハ・プロジェクト」を開始します。そして、大規模な工場の大きな窯を使って、高さ1.8メートル、重さ4~5トンもある巨大な作品、〈ダンゴ〉シリーズの制作に成功します。その後、このオマハにスタジオを構えた金子は、ストライプやドット模様に代表される陶作品をはじめ、絵画やガラス作品、オペラの舞台や衣装を手掛けるなど、多彩な活動を展開していきます。
 本作品は、そのオマハのスタジオで制作された柔らかな丸みを帯びたフォルムが特徴となる〈ダンゴ〉シリーズのひとつです。アメリカという大国が生み出した象徴的な作品として見ることもできます。なぜなら、日本で大きな陶による作品を制作する場合、作品のサイズはその作品を焼成する窯の大きさに左右されてきました。小さな窯で大きな作品を制作する場合、成形後の乾燥する前に小さなパーツに切り分け、絵付や釉薬を施して焼成し、それらを組み上げる必要があります。しかし〈ダンゴ〉シリーズには、大きな窯で焼成された一体としての強さと迫力があるとともに、一種の憧れのような見方もできるかもしれません。空間の中にすっくと立つ姿にはモニュメントとして確固たる存在感がそなわっています。
 いま本作品は、石川県金沢市に移転した東京国立近代美術館工芸館(通称:国立工芸館)のエントランス正面の中庭に展示して、来館者を出迎えています。中庭のダークグレーの色調の中で、青と白のコントラストが輝きを放つ様子を観ることができます。目まぐるしく天候が変わる金沢は、曇天が多く日照時間が少ないことでも知られています。上部の紺色は空の色を映し出し、また胴部のストライプは天からの恵みの雨を思わせます。冬のシーズンには雪の帽子を被った姿も見せてくれました。天気によって、時間によってもその表情が変化する様を、是非、ご覧いただければと思っています。

(国立工芸館長 唐澤昌宏/『現代の眼』635号)