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インターンシップ
東京国立近代美術館及び国立工芸館では、美術館の活動と学芸業務に関心を持つ方を対象に、インターンシップの募集を行います。 本インターンシップは、当館の学芸業務を学ぶ機会を提供することで、具体的、実践的な知識や技術を習得し、次世代を担う人材の育成に貢献することを目的としています。 本インターンシップへの参加を希望する方は、以下の募集内容を確認いただき、関係書類を提出してください。意欲のある方からのご応募をお待ちしております。 ※分野ごとの実地研修のほか、全分野のインターンが参加する「全体レクチャー」等、オンラインによる研修を織り交ぜながら行う予定です。 募集案内 令和8年度インターンシップ募集案内(PDF)※本募集は終了しました。 令和8年度インターンシップ・エントリーシート(別紙1)[Word/PDF] インターンシップを終えて 令和7年度 インターンシップ生のことば 令和6年度 インターンシップ生のことば 令和5年度 インターンシップ生のことば 令和4年度 インターンシップ生のことば 令和3年度 インターンシップ生のことば 令和元(2019)年度 インターンシップ生のことば 平成30年度 インターンシップ生のことば 平成29年度 インターンシップ生のことば 平成28年度 インターンシップ生のことば 平成27年度 インターンシップ生のことば 平成26年度 インターンシップ生のことば 平成25年度 インターンシップ生のことば
ガイドスタッフによる所蔵品ガイド
撮影:加藤健 ガイドスタッフによる所蔵品ガイド MOMATガイドスタッフ(ボランティア)が選んだ所蔵作品3点を、対話を交えて鑑賞します。ガイドスタッフ・作品は毎回変わります。その日出会った作品や参加者との対話をお楽しみください。 開館日の11時~(50分程度)※ 5月30日(土)は実施しません。 なし 4階エレベーター前ホール(MOMATコレクション展示室内) 無料(要観覧券) ご参加にあたって: プログラムの特性上、ガイドスタッフやガイド作品の事前周知はしておりません。ご了承ください。 災害や会場の混雑状況等により、予告なく中止することがあります。 お問い合わせ 東京国立近代美術館 教育普及室メール: volunteer@momat.go.jp
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館長退任・就任のお知らせ
東京国立近代美術館は、現館長小松弥生が2026年4月30日をもって館長を退任し、2026年5月1日付で新たな館長に田中正之(たなか・まさゆき)が就任いたしましたので、お知らせいたします。
〈間合い〉を見る——下村観山展によせて
この度の下村観山展は、規模といい内容といい、かつてない充実した回顧展だ。二度、会場に足を運んだが、平日の午前中でも多くの観覧者が詰めかけ、とくに女性や外国人が熱心に作品を見入る会場の様子が印象的だった。今回、レンタル単眼鏡を利用したが、細部に技を見せる観山作品の鑑賞には適したサービスだと思う。 観山は実に早熟の画家である。小学生の頃から狩野芳崖に就いて基礎を学び、15歳で東京美術学校に入学したその実力は、のちに並び称せられる横山大観や菱田春草に比べて一頭地を抜いていた。美校時代、といっても17,18歳頃に、すでに芳崖や橋本雅邦が苦心の末に創造しようとした日本画の新たな方向を理解し、まるで教師が手本を示すかのように、新しい描法、新しい画題を取り入れながら、近代日本画の行くべき道を歩み始めていた。《雨の芭蕉》《西洋婦人》などが並ぶ最初の展示室で、そのことが鮮烈に伝わってきた。 美校卒業後すぐに助教授に採用され、明治31(1898)年には岡倉天心が創設した日本美術院の正員となる。20代の観山は、天賦の才に加えて古画の模写や事物の写生など努力と研究を重ね、さらには30代前半でロンドンに留学する経験を経て、吸収できるものは何でも自分のものにしていった。かつて江戸時代後期の画家谷文晁がそうであったように、その行き方は八宗兼学とも呼ぶべきもので、観山の飛躍の時代(第3章)、画壇のリーダーの時代(第4章)を見て行くと、狩野派、やまと絵、朦朧体(色的没骨)、水墨画、白描、琳派、西洋画、中国画などありとあらゆる描法が目に入ってくる。一人の画家の筆から生み出されたとは思えないバラエティの豊富さである。しかし、それは大観の大胆さや春草の冷静さといった画家の個性を発揮するタイプとは違った特徴であるために、観山らしさはと問われると説明しづらい面がある。 会場風景|撮影:木奥惠三|左は《弱法師》1915(大正4)年、東京国立博物館蔵、重要文化財 今回の展覧会が私にとって新鮮だったのは、はじめて目にする個人蔵の作品などを含めて多くの作品をまとめて見ることができたことだ。1点だけを見ていても気付かないこともある。画業の全体像をつかむことによって、観山らしさとは何かに思いを巡らせることができた。そのひとつに〈間合い〉ということがある。 間合いとは抽象的な表現だが、制作のなかでもそれは時折あらわれる。絵の中、すなわち構図において絶妙な間合いを見せる作品に、《白狐》《弱法師》《春雨》などがある。一双形式の左右の間ということもあるが、空間ではなく時間的な間を巧みにつくり出していることがわかる。実はこの3点は、私が東京国立博物館に在職中に何度も展示をして親しんでいた作品だが、部分に気を取られて、その間合いを見ていなかったのではなかったかと今更ながら反省させられた。さらに、この間合いが絵の外に展開する例は、やはり東博所蔵の三幅対《楠公図》である。この作品も、実際に展示する際には3幅の距離をどのようにはかるかが試される。中央上部の笠置山と思しき山容は左右幅と連続するが、下方の空間は左右とつながっていない。そして、主役であるはずの楠木正成は右幅に描かれ、3幅の中央は何も描かれていないという特異な構成となっている。 会場風景|右は《楠公図》1921(大正10)年、東京国立博物館蔵 和歌山の紀伊徳川家に仕えた能楽師の家に生まれた観山は、子供の頃から能の世界に親しんでいた。《弱法師》などの代表作と能との関連がしばしば指摘されてきたが、それは単に画題の選択ということに留まらず、絵画の構成そのものにも及んでいるとみてよいだろう。一つの視点で総てを見通すのではなく、ゆっくりと〈間〉をとりながら時間や空間を行き来するかのような能に通じる絵画世界。ほかの画家には真似のできない観山らしさがある。 観山は実力者でありながら、画壇での立ち位置に関しても微妙な間合いを保っていた。大観が常に前に出ていたということもあるだろう。だが、一歩譲って全体の調和をはかる、そのような観山の存在は、実は日本画界全体の土台を支える重要な役割を果たしていたのだ。
Ecce Tergum 背部を見よ
〜《Ecce Puer(この少年を見よ)》をめぐって〜
メダルド・ロッソは近代彫刻史を語る上で、欠かすことのできない存在である。1858年トリノに生まれ、当初ミラノで活動し、1889年からはパリを制作の拠点とした。オーギュスト・ロダンより18歳ほど若いが、ほぼ同時代を生きた彫刻家である。初期より、波打つようにタッチを重ね、その表面の抑揚のうちに人物の表情や雰囲気を捉えるスタイルで制作し、彫刻における印象主義を実現する。とくにその特徴が強まるのは作品表面への蝋の導入によってである。物質の半透明性は浸透する光を引き受け、像の内外を揺さぶり、かたちや輪郭を定めない。それは対象の周囲にある、言わば環境へのアプローチであり、次代の未来主義彫刻の造形原理にも深く関わる実践であった。 ロッソ彫刻のもうひとつの顕著な特徴はその正面性である。1883–84年に制作された《他人の肉》や《門番の女》では、早くも一方向より眺められるレリーフ的な彫刻づくりが意識的に進められている。これは、シャルル・ボードレールが1846年のサロン評で展開した彫刻の多視点性批判(さまざまな視点から眺められる彫刻の曖昧さにたいする低評価)への実践的応答と見て良いだろう。ロッソ自身「彫刻における印象主義 ひとつの説明」(1907年)において、「土や木、ブロンズ、大理石でできた作品のまわりを回る必要がないのは、画布に描かれた作品のまわりを回らないのと同様だ。そういう考えで作られる彫刻は、無限に刺激的で、無限に生動し、同質で、すぐれたものとなろう」と述べ、彫刻を観る視点の固定を訴える1。触覚性を強く喚起し、その意味において、絵画的な正面性を要求しないロダンの彫刻とは対照的である(もっともロダンの彫刻は写真を媒介に、むしろ絵画的に流通するのだが、ここでは詳述しない)2。 メダルド・ロッソ《Ecce Puer(この少年を見よ)》1920–25年頃、東京国立近代美術館蔵|撮影:大谷一郎 さて、このたびの新収蔵作品《Ecce Puer(この少年を見よ)》(1920–25年頃。最初のヴァージョンは1906年)はロッソ晩年の傑作である。6歳の少年の顔立ちがカーテン越しに現われるさまを捉えた像とされる(異説もある)。なるほど主に頭部左側の、首筋を経て胸元へと走る縦の線条は、ヴェールの微かな襞と、透過する光線の重なりのようである。蝋の半透明性をもって、少年の周囲の、言わば光の溜まりを暗示する、ロッソならではの表現である。 本作には合わせて正面性も認められよう。石膏と蝋の薄らかな抑揚のなかで造形された少年の繊細な面立ちは、正面から鑑賞すれば十分に伝わるものだ。つまり安定した正面観が供される。流通する《Ecce Puer》の画像の多くも、概ね同様のイメージである。ところで、像の裏側、より正確に言えば、耳の後ろから奥の部分を見ると、荒削りな石膏のモデリングが、そのまま蝋で覆い尽くされており、まさに不定形の塊として溢れている。そのさまは—ジョルジュ・ディディ=ユベルマンがロッソ作品《ヴェールの女》の記述で用いた語を援用するならば—渦巻き、襞打ち、溶岩のように変成する3。この背部は、しかし、見てはならないのか。上に引いたロッソ本人の言葉に私たちは忠実であるべきか。 会場風景(中央奥がメダルド・ロッソ《Ecce Puer(この少年を見よ)》)|撮影:柳場大 おそらくそれは無理なのではないか。少なくとも今回、展示室で《Ecce Puer》を見る私にはできなかった。《ヴェールの女》や《門番の女》が構造としてレリーフ的であるのに対し、本作の背部はしっかりと量と造形をもち、ほぼ丸彫りとしての全体性を有しているのである。眼差しは自ずと奥へ、背部へと滑り込む。滑り込むにしたがって、像の具象性は解れ、不定形なものに転ずる。蝋は同じ蝋でありながらイメージ形成の素材から、物質そのものへと変容していく。耳元あたりが言わば半透明の汽水域である。その前後で透明なイメージと、不透明な物質が拮抗している。さらに回り込んで、背部から逆に顔面へと戻ってくるならば、今度はイメージの現出を経験することになるだろう。ここに至って本作のタイトルも効いてくるはずだ。「Ecce Puer この少年を見よ」が「Ecce Homo この人を見よ」に拠っていることは明白である。暗示されるのはキリストのイメージや身体であり、そうであるとすれば、本作の示す物質性とその変化は、受肉や復活というモチーフとも接することになるだろう。量塊は培地となる。それを見逃してはならないのではないか。 さらに美術史の文脈で言うと、上述のボードレールの彫刻批判やアドルフ・フォン・ヒルデブラントによる浮き彫り的な彫刻の重視、美術史学の泰斗ハインリヒ・ヴェルフリンが示す彫刻撮影における視点へのこだわり、ルドルフ・ウイットコウアーによるルネサンス・バロック彫刻の単視点性の強調、クレメント・グリーンバーグによるデイヴィッド・スミス評価など、彫刻の視点の問題が、19–20世紀にかけて(写真が急速に影響力を増す時代に)、単視点性と多視点性に二項対立的に切り分けられ、そしていささか単視点を重視するかたちで(つまり絵画に寄せながら)語られてきた事実にも注意したい。そのことは今、再検討されるべきであるし、とすれば、ロッソの作品についても—作者の言葉をこえて—もう少し回り込む余地を求めても良いのではないかというのが、本作を見ての実感である。まずはEcce Tergum。展示室で「背部を見よ」である。 註 Medardo Rosso, Scritti sulla scultura, Abscondita, Milano, 2003, p. 16. ロダンの写真利用については以下を参照。金井直『像をうつす 複製技術時代の彫刻と写真』赤々舎、2022年 Georges Didi-Huberman, “In the Swirling Eddy” in Heike Eipeldauer (ed.), Medardo Rosso. Inventing Modern Sculpture, Walther und Franz König, Cologne, 2025.
絵筆がつなぐ、近代と現在(後篇)
(前篇からの続き) 聞き手:中村麗子(企画課主任研究員) 構成:杉崎友哉(企画課研究補佐員) 2026年3月19日 清晨堂にて さまざまな筆を使い分けていた観山 ―――観山が使っていた筆(図1)の特徴と、その筆が使われたと思われる作品について教えてください。 (図1)観山使用の筆。一番左は芳崖用筆、その隣は削用。一番右は連筆。連筆は本数をさらに足して作られることもある。 日本画用の筆として革新的なものが削用(さくよう)で、この時代の筆のハイライトといえます。観山の師・橋本雅邦と得應たちが交流してできた線描筆で、現在の日本画制作でも一般的に使用されています。芯にはコシのある狸やイタチ等の毛を使い、周りには絵具含みの良い山羊毛や馬胴毛をたっぷり巻きます。力強く、息の長い線が引けるという特徴があります。雅邦が、長い線が引けるように大きな筆の毛先を自ら切って調整していたことから、わざわざ切らなくてもそうなるように毛組(けぐみ、筆の形のデザインのこと)してできた筆と伝わっています。削って用いていた筆が元なので「削用」と名付けられました。観山の「芳崖用筆」とある筆も、削ったと思われる跡が見られます(図2)。 (図2)芳崖用筆(一番手前)の根元には毛を短く削った跡がある。 観山の絵のなかで、この削用と関連がありそうな作品としては、《線》(展覧会出品番号1.1.15〜18、以下cat.no.と表記)や《闍維(じゃい)》(cat.no.1.1.29)など。《魔障》(cat.no.1.3.09)(図3)では、建物の真っ直ぐな線にコシのある削用と面相等が使われていると思います。 (図3)《魔障》1910(明治43)年、紙本墨画着色、東京国立博物館 Image: TNM Image Archives 削用と天然則妙(てんねんそくみょう)は現在の美大受験で最も多く使われている筆です。先日は海外のタトゥースタジオから削用の注文を受けました。タトゥーのモチーフは般若や不動等日本的なものも多く、削用を使うと、西洋の筆ではできないような息の長く均一で力強い線描が描けるはずなので、評判が良いのも合点がいきます。 穂が長くて線が柔らかい付立(つけたて)筆は《草花図》(cat.no.1.2.04)などに使われていそうですね。連筆(れんぴつ)(図1)は、雅邦が刷毛とは違った塗り心地の面塗り、ぼかしができるような筆をと希望したことからできたもので、観山の作品でもグラデーションをつける際に使われていたと思われます。刷毛はどちらかといえば直線的で、幅も広いからいっぺんに塗れますが、連筆の場合は、例えば人物の肌等を曲線的に塗るときとか、速く筆を動かす必要があるときに使われるという違いがあります。 《不動尊》(cat.no.1.4.19)(図4)には、不動や脇侍の姿を形作る、削用等による力強い線描に加えて、連筆等によるぼかし、付立筆、大きな書筆等による大胆で動的な筆づかいが見られます。 (図4)《不動尊》1925(大正14)年、絹紺金泥、大倉集古館 一方で、《竹の子》(cat.no.1.4.27)の線は、細い面相等で描かれているように見えますが、絶筆ともなれば体力のうえで持ち替えるのも大変でしょうし、観山の技術力なら削用で細く調整して描くこともできたと考えられます。 日本画筆の現在 ―――観山の使っていた筆が、現代の日本画家の筆と大きく変わっていないということでしたが、そのなかでも違いはありますか。 日本画は岩絵具で描くので筆が摩耗して減ってしまうのですが、今と比較して観山は粒子の粗い絵具を使っていないかと思われます。当時、支持体は絹本が主流で、岩絵具も粒子の細かいものを薄塗りで使うことが多かったのですが、時代が下ると日本画の変遷とともに描き方も変わっていきました。私の祖父の時代は長流(ちょうりゅう)のような穂先の長い筆が主流でしたが、現在注文は当時の10分の1もありません。付立筆も、今の日本画の描き方とは結びつかなくなってきているのが現状です。逆に連筆はかつてあまり需要がなかったのが、今は毎月作っても在庫がなくなるぐらいです。しっかりと地を塗ることができる連筆や刷毛、細かく描ける面相や線描筆が現在はよく使われています。 ―――最後に、観山の筆をとおして阿部さんがお考えになる、日本画筆のこれからについてお聞かせください。 観山たちの時代に作られた削用や連筆、絵刷毛、他にもさまざまな筆が令和の今も使用されています。先人たちの革新的な試みが新たな伝統を生み出してきたことの意義を改めて感じました。基本的に作家さんが描きたいものや、やりたい表現に伴って筆や道具は生み出されるはずなので、その道具が今に至るまできちんと存在していることには理由がある。先人が本当に欲しいものを真剣に考えて開発したからこそ、今でも通用するのだと思います。 近年では海外の作家の間でも日本画筆の品質が少しずつ知られるようになり、使って頂く機会も増えてきたように感じます。さまざまな実利的なテクノロジーが発展してゆく現代において、観山のような100年以上前の先人たちが人生を懸けて描いた作品、それを支えた道具が実は思った以上に本質的な意味を持っていて、それが時代も国境も越えて現在も生き続けていることにロマンを感じました。 ―――貴重なお話をありがとうございました。 (完)
絵筆がつなぐ、近代と現在(前篇)
東京国立近代美術館で開催の「下村観山展」(2026年3月17日~5月10日)では、神奈川県立歴史博物館の特別協力のもと、観山が生前に愛用した絵画用品が展示された。そのなかにある絵筆には、明治時代に新しい日本画筆を生み出した宮内得應軒(みやうちとくおうけん)の刻字が見える。その得應の筆づくりの伝統を今に受け継ぐ筆工房・清晨堂(せいしんどう)主人の阿部悠季氏に、筆職人の立場から見た観山の筆や絵画作品の特徴についてうかがった。 阿部悠季(あべゆうき) 有限会社画筆清晨堂代表取締役。1983年東京都生まれ。2009年に画筆工房・清晨堂に入社、2018年に代表取締役に就任。筆制作のかたわら、東京藝術大学、多摩美術大学、武蔵野美術大学、女子美術大学等でゲスト講師として画筆の歴史、制作工程の講義を行う。 聞き手:中村麗子(企画課主任研究員)構成:杉崎友哉(企画課研究補佐員) 2026年3月19日清晨堂にて 清晨堂と筆職人 ―――まず、清晨堂について教えてください。 清晨堂の歴史を辿ると、「日本画筆の始祖」と呼ばれる明治時代の筆匠、宮内得應(1843–1914)に辿り着きます。得應は私の高祖父にあたる人で、橋本雅邦や川合玉堂らと交流して、「長流(ちょうりゅう)」「削用(さくよう)」「天然則妙(てんねんそくみょう)」といった現代にも通じる代表的な日本画筆を生み出しました。 得應には子供が6人いて、長男系、三男系、六男系が家業として残っています。長男系が神田にある画材店の得應軒本店。三男系が谷中の画材店の得應軒。そして六男系、私の曽祖父にあたる金吾郎が東京に筆工房を構え、私たちは父の代から清晨堂として筆づくりをしています。 (図1)清晨堂の工房の様子。制作中の筆の穂先が所狭しと置かれている。 ―――職人として筆が作れるようになるまで、どれくらいかかりますか。 筆づくりには工程が20も30もあって、日本画筆の種類も非常に多いです。全部の筆の種類の作り方を完全にマスターするとなったら、10年以上かかると思います。でも完成までの全体の工程を4つか5つに分割して、そのなかの5工程か10工程がきちんとできるようになれば、工房では1、2年で戦力になり始めますね。もっとも、今でも私はまだ新しいものを作ったり、経験のある作業でもまだ至らないなと感じることもありますので、そういう意味ではずっと修業は続きますね。 観山の日本画筆 ―――日本画用の筆にはどのようなものがあるのでしょうか。 筆は大きく「書筆」と「画筆」に分類され、画筆のなかに日本画筆もあります。もともとは書筆が書画兼用で使用されていましたが、江戸中~後期の画家・円山応挙の頃辺りから画筆が分化したとされています。明治時代に「日本画」というジャンルができると「日本画筆」もともに定義されたんです。はじめ中国から伝来して、島国という日本独自の風土で育ち、「日本画筆」として明治以降西洋文化の影響を受けて大きく変化したことは、「日本画」そのものの変遷と重なる部分も多いかもしれません。 なお、日本画筆と書筆の一番大きな違いはその種類の多さです。書筆は大きく大筆、中筆、小筆と分類されるのに対して、日本画筆は細かい線を引くための面相、蒔絵筆、長い骨描き(こつがき)註1のための線描筆、彩色筆やぼかし用の隈取筆に、没骨(もっこつ)技法註2等のために使用される長穂の付立(つけたて)筆、面を塗る刷毛や平筆、連筆(れんぴつ)と細分化されています。作品から逆算して考えてもらうと分かりやすいかもしれません。書道の作品を制作するのに筆を5本も10本も持ち替えるということはなく、逆に日本画はさまざまな場面で筆、刷毛を持ち替えて1枚の作品を描くことが一般的です。 ―――下村観山が使っていた筆(「下村観山展」出品資料、神奈川県立歴史博物館蔵)を実際に見てみていかがですか。 筆を見て、真っ先に感じたのは、令和の現代の日本画家の方々が使われている筆と、下村観山の使用していた筆のラインナップが大きく変わらなかったことです。決して今までの日本画筆に成長がなかったという意味ではなく、あらゆる分野での大きな転換点となった明治時代に日本画家と職人とが苦労して作り出した革新的な日本画筆が、令和に続く伝統となっている点に感銘を受けました。先祖の制作した刷毛の柄の形や漆塗り、日本画家の要望に応えるために良質の原毛を用い、毛先を薄手に作っている仕様なども今とほとんど同じだったことに驚き、伝統が守られているのだと実感しました。 観山の使用していた筆(図2)は、削用(線描筆)/絵刷毛(えばけ、冬毛、夏毛、短穂、幅もさまざま)/長穂唐刷毛(ちょうほからばけ、本山馬(ほんさんば))/連筆3本立/書道用大筆/その他に付立筆、彩色筆、面相筆など。柄に虎を描き漆塗りした刷毛もあります。これらは高祖父の得應かその子の代の仕事である可能性が高い。多くの筆が「得應軒製」と記されていることから推察できます。 (図2)観山の使っていた筆。「削用 東京宮内得應軒製」の文字が見える。 ―――観山の筆の素材には、何か特徴はありますか。 刷毛の柄の形等の規格や漆塗りは、現在の清晨堂製のものとほぼ同じです。観山の使用していた刷毛の多様さから、彼の道具へのこだわりがうかがえます。山羊の尾毛と胴毛を使った冬毛絵刷毛、それに馬毛も混ぜた夏毛絵刷毛という具合に、原毛が異なるものがありますね。穂先の形状についていえば、少し短穂に仕立てたもの、幅も2~5寸(3〜15cm)くらいまでさまざまな種類があります。 長穂本山馬唐刷毛(ちょうほほんさんばからばけ)というものもありますね。非常に太くて硬い本山馬でできている唐刷毛で絵具の含みは良くないのですが、その性質を逆手にとって、かすれやぼかし等の表現に使用されることが多い刷毛です。現代の日本画家からも、岩絵具のぼかし等に使うとよく聞きます。ちなみに「山馬」とは馬ではなくベトナム産のサンバーという鹿の毛。枯葉剤の影響などもあり、現在は絶滅危惧種で入手不可能です。なので、観山の持っていた長い本山馬は今では非常に稀少なものです。 面相筆については、白い毛(軟らかめの羊毛系と硬めの狸系)で長穂気味の筆が多いように見えます。現在は、面相筆にはイタチ(中国、ロシア産)が最も好まれますが、観山の生きた頃は、物流の都合上、こうしたイタチの毛の調達は難しかったかもしれません。 (図3)「下村観山展」会場風景(撮影:木奥惠三) (後篇に続く) 註 彩色の前段階で輪郭線を引くこと。 輪郭線を用いずに、色面で表現する技法のこと。
コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ
「昭和100年」、「戦後80年」という節目の年となる今年、美術を手がかりとして、1930年代から1970年代の時代と文化を振り返る展覧会を開催します。絵画や写真や映画といった視覚的な表現が果たした「記録」という役割と、それらを事後に振り返りながら再構成されていく「記憶」の働きに注目しながら、過去を現在と未来につなげていく継承の方法を、美術館という記憶装置において考察するものです。 しばしば美術は「時代を映し出す鏡」と言われます。その視覚的なイメージには、作家の感性を介して、制作時の世相や文化が刻印されています。それだけではありません。美術は時代を超えて生き続けることにより、後の世代によって新たに意味づけられるものでもあります。つまり美術が映し出すのは、作品が生み出された過去の一点から現在に至る時間の流れの中での、人々の美意識や社会と歴史を見つめる眼差しの変化なのです。 今、戦争体験を持たない世代が、どのように過去に向き合うことができるかが問われています。それは他でもない、現在を生きる私たちの実践にかかっているといえるでしょう。戦争記録画を含む当館のコレクションを中心に他機関からの借用を加えた計280点の作品・資料で構成される本展覧会を通して、美術に蓄えられた記録をもとに新たな戦争の記憶を紡ぎだすことを試みます。美術館がこのような記憶を編む協働の場になることができれば幸いです。 撮影:木奥惠三 章立て 本展は以下の8章構成で、1930年代~1970年代の美術を資料を交えながら展示します。 1章 絵画は何を伝えたか 満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続いた1930年代以降、新聞、雑誌という旧来のメディアに加え、ラジオ、映画などの新興メディアが急速に発展・浸透していったメディア環境の中で、絵画が果たした社会的な役割を整理します。 2章 アジアへの/からのまなざし 日本の圏域が拡大するにつれ、東北アジアのみならず、東南アジアの自然や風俗・文化を伝える絵画、写真、映画が多数制作されました。絵画に描かれたアジアと、描かれなかったアジアの両面に注目しつつ、日本人と現地の人々の視線のやり取りが含む政治的な力学についても想像を巡らせます。 3章 戦場のスペクタクル 日中戦争から太平洋戦争にかけて、陸海軍は作戦記録画の制作を画家に依頼し、その成果は各種戦争美術展で発表されるようになりました。戦況を伝えるために、写真や映画ではなく、絵画を活用した理由はどこにあったのかを、戦闘場面のスペクタクル化という観点から考察します。 4章 神話の生成 戦時下の美術は、文学、音楽、映画など、他の芸術ジャンルと連動しながら時局を反映したイメージを提供しました。本章では当時のメディア空間に注目することで、大衆に深く浸透し、社会を動かした「物語」が生成するプロセスを検証します。 5章 日常生活の中の戦争 本章では、前線/銃後、公/私、男/女、大人/子どもの境界が曖昧になる総力戦において日常生活がどのように変化していったかを、視覚的メディアを手がかりに読み解きます。とりわけ「銃後」を支えた女性の暮らしと労働に注目することで、戦争と日常が背中合わせにあったリアリティーを追体験します。 6章 身体の記憶 過酷な敗戦体験を経た1950年代には、戦時中には描かれることのなかった傷つき、変形し、断片化された身体像が、戦後の現実と戦争体験を重ね合わせる媒体として多数生み出されました。これらの身体のイメージにより、過去の戦争の記憶が呼び起されたのです。 7章 よみがえる過去との対話 1960年代後半から1970年代にかけて、戦争体験の風化が叫ばれる一方で、テレビを通して報道されたベトナム戦争の映像が契機となって、日本人は過去の戦争を想起するようになります。この時期に展開された戦争の記憶を掘り起こす活動が、過去に向き合う意識の変化をもたらしました。 8章 記録をひらく 「戦争記録画」は、戦後米軍に接収されたのち長らく米国で保管されていましたが、交渉の末1970年に「無期限貸与」という形で日本に「返還」されました。本章では、敗戦体験と戦後のブランクを経て、戻って来た戦争記録画が読み替えられていく経緯を検証するとともに、未来に向けた活用の方法を問いかけます。 記録集 「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」記録集 公開日:2026年4月28日 頁数:218頁 言語:日英併記 発行:東京国立近代美術館 目次 「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」制作ノート–鈴木勝雄 展覧会記録 1 絵画は何を伝えたか 2 アジアへの/からのまなざし 3 戦場のスペクタクル 4 神話の生成 5 日常生活の中の戦争 6 身体の記憶 7 よみがえる過去との対話 8 記録をひらく 年表 献納画について–大谷省吾 東京国立近代美術館における戦争記録画公開のあゆみ–佐原しおり 参考文献 戦争と美術に関する文献・展覧会 展示風景 撮影:木奥惠三 開催概要 東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー 2025年7月15日(火)~10月26日(日) 月曜日(ただし7月21日、8月11日、9月15日、10月13日は開館)、7月22日、8月12日、9月16日、10月14日 10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00) 入館は閉館の30分前まで 一般 1,500円(1,300円)大学生 800円(600円) ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込み。 高校生以下および18歳未満、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。それぞれ入館の際、学生証等の年齢のわかるもの、障害者手帳等をご提示ください。 キャンパスメンバーズ加入校の学生・教職員は、学生証・職員証の提示により団体料金でご鑑賞いただけます。 本展の観覧料で入館当日に限り、所蔵作品展「MOMATコレクション」(4-2F)、コレクションによる小企画「新収蔵&特別公開|コレクションにみる日韓」(2Fギャラリー4)もご覧いただけます。 観覧券は美術館窓口(当日券のみ)と公式チケットサイト(e-tix)で販売いたします。 東京国立近代美術館
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「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」記録集の公開について
2025年7月15日~10月26日に開催された「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」展の記録集を公開しました。 記録集のPDFデータはこちらからご確認いただけます。 ※記録集の冊子化、販売の予定はありません。
杉本博司 絶滅写真|開催記念特別講演会「絶滅について」
6月20日(土)に本展の開催記念特別講演会「絶滅について」を開催します。杉本博司氏、浅田彰氏(京都芸術大学教授・批評家)をお招きし、本展タイトルにもある「絶滅について」本展担当研究員と語ります。 2026年6月20日(土)14:00~15:30(開場は13:30) 杉本博司 氏浅田彰 氏(京都芸術大学教授・批評家)増田玲(東京国立近代美術館主任研究員) 東京国立近代美術館 地下1階講堂 100名(予定) 開催当日の10:00より、1階インフォメーションカウンターにて座席番号付き整理券を配布します。 整理券は、定員に達し次第、配布終了となります。 整理券の配布枚数はお一人につき1枚まで、参加者ご本人が直接お受け取りください。 会場内は全席指定となります。整理券に記載された番号の席にお座りください。 整理券には座席番号が記載してあります。 前列の席から順番に配布いたします。 席の選択はできかねますのでご了承ください。但し、車いすの方(またその介助者)や配慮が必要な方は整理券受取時にお申し出ください。 参加無料(観覧券不要) イベントの撮影、録画、録音はお断りしております。 イベント当日に有効の本展チケットをお持ちの方は、イベント参加後の展覧会への再入場が可能です。 内容や日時は都合により変更となる可能性があります。あらかじめご了承ください。 イベントのオンライン同時配信、アーカイブ配信はありません。 会場では、主催者や取材メディアによる撮影が行われる可能性があります。会場内のお客さまが映り込む場合があります。 登壇者プロフィール 杉本博司(すぎもと・ひろし) 1948年生まれ。1970年渡米後、1974年よりニューヨークと日本を行き来しながら制作を続ける。初期代表作に〈ジオラマ〉〈海景〉〈劇場〉シリーズがある。2008年に建築設計事務所「新素材研究所」、2009年に公益財団法人小田原文化財団を設立。2017年には構想から10年をかけて建設された文化施設「小田原文化財団 江之浦測候所」を開設。演出と空間を手掛けた『At the Hawk’s Well / 鷹の井戸』が2019年秋にパリ・オペラ座にて上演。著書に『苔のむすまで』『現な像』『アートの起源』『江之浦奇譚』『影老日記』などがある。2001年ハッセルブラッド国際写真賞、2009年高松宮殿下記念世界文化賞(絵画部門)受賞、2010年秋の紫綬褒章受章、2013年フランス芸術文化勲章オフィシエ叙勲。2017年文化功労者に選出、2023年日本芸術院会員に就任。 浅田彰(あさだ・あきら) 京都芸術大学教授、批評家 1957年生。京都大学卒業。同大学の人文科学研究所や経済研究所を経て、現在は京都芸術大学教授。『構造と力』(1983)をはじめとする著書でいわゆるポストモダン現代思想を本格的に導入し、それに基づく脱領域的な批評活動を展開する。杉本博司に関しては「時間の終わり」展(2005)評や「瑠璃の浄土」展(2020)に際する作家との対話などがある。
