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現代の眼 展覧会レビュー 「密室」からの眼差し——1950年代半ばにおける河原温の実践をめぐって

小倉達郎 (武蔵野美術大学 美術館・図書館学芸員)

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河原温が日本で活動した1950年代の実践としては〈浴室〉(1953–54年)ならびに〈物置小屋の中の出来事〉(1954年)と題された鉛筆画による連作がよく知られ、それらは「密室の絵画」という常套句を伴い、敗戦直後の閉塞的な精神状況を反映するものとしてしばしば評されてきた。他方、両連作の発表後河原が日本を離れた1959年までの期間における取り組みについては言及されることが少ない。本稿では「MOMATコレクション」7室に展示された油彩画の《洪水期》(1955年)[図1]を起点として、河原による同時期の活動がいかなるものであったか、特にその動機に着目しながら検討してみたい。

図1 河原温《洪水期》1955年、東京国立近代美術館蔵|© One Million Years Foundation

瓦屋根や支柱を思わせる形体が折り重なり、その表面を蟻のような生物が這い回る——《洪水期》に見られるこうした具象的かつ無機質なモティーフや、あるいは描かれた空間と対応するように歪んだ変形画面などの造形要素は、前述の素描連作において河原が追求してきた表現を油彩画へと応用したものであった。同時に、画面の奥に覗く青色は蒼天と奈落を想起させ、そこには無限遠へ延びる空間の表象という、以後1957年までに制作された複数の作品に共通する特徴を認めることもできよう。同室に展示された《孕んだ女》(1954年)や鉛筆画[図2]と比べればわかるように、1950年代半ばにあって河原の制作には転機が訪れていたのである。

図2 会場風景|左:河原温《孕んだ女》、中央:河原温〈物置小屋の中の出来事〉、いずれも1954年、東京国立近代美術館蔵|撮影:柳場大

また、画題の示す通り、《洪水期》は実際に九州地方で発生した水害に取材して描かれたということが明かされている1。したがって、主題の面においても同じく、この時期を境に河原の実践は変容していたと考えられよう。社会運動の現場を記録した同時代のルポルタージュ絵画ほど直接的ではないにせよ、浴室や物置小屋といった匿名的な舞台に閉じ籠ることなく、当時の河原は社会的な視座に立ち、眼前の現実と対峙しながらより具体的に制作を展開しようとしていたのではないだろうか。

ところで、この1955年に河原はまったく新しい取り組みを始めてもいた。活動の拠点である東京ばかりでなく、国内各地で作品発表の機会を持つようになったのである。まず同年7月には大分県大分市のキムラヤ喫茶部で個展を開催し、当時の新聞記事によれば、会場では主に先述したふたつの連作から「デッサン十八点」が展示された2。続いて8月に福島県磐城市(現いわき市)の小名浜公民館、11月初旬には福岡県小倉市(現北九州市)の北九州日米文化センター、同月中旬にはふたたびキムラヤ喫茶部をそれぞれ会場として、河原は「制作者懇談会」のメンバーであった池田龍雄や石井茂雄らとともにグループ展を開いてもいる。彼らは当初より「展覧会が東京でばかり開かれる傾向を打ち破つて、地方の方々との密接なつながりを得たいと思います」と表明しており、地理的制約を超えた新たな観客への接近、前衛芸術と大衆の媒介という目的を共有していたのである3。その後2年間にわたって断続した各地方での展覧会に欠かさず参加していることから、河原もまた、やはり自身の作品と社会との関係について意識的であったことが推察できよう。

さて、河原は1956年以降、自作の画集や漫画、出版物の挿画など、印刷による複製を前提とした種々の試行を繰り返しており、それらはオフセット印刷を用いたシリーズ〈印刷絵画〉(1958–59年)に結実することとなる。一連の取り組みを通じて掲げられたのも、マスメディアが台頭する時代において絵画の社会的な機能を回復すること、すなわち印刷技術を活用してより多くの鑑賞者へ伝達可能な発表形式を模索するという課題であった4。つまり、こうした1950年代末の取り組みに至るまで、河原は制作を通じて現実を捉えようとし、芸術が社会に対していかなる役割を果たすべきかという問題意識を抱き続けていたのである。

《洪水期》が制作された1950年代半ばの実践は、河原温にとってこうした様々な取り組みの端緒に位置付けうるものであった。その眼差しはもはや「密室」の内部に留まらず、自身を取り巻く社会的な状況へと向けられていたのである。

  1. 横山正「新しい視の枠組を求めて:1950年代の河原温」『On Kawara 1952–1956 Tokyo』パルコ出版、1991年、31頁。
  2. 「短信」『毎日新聞(大分版)』朝刊、1955年7月17日、8面。「文化消息」『大分合同新聞』朝刊、1955年7月28日、4面。
  3. 『制作者懇談会画家会員展に寄せて:作家の言葉』1955年、頁付なし。なお、制作者懇談会の活動については従来曖昧な部分も多かったが、次の論考で各展覧会の情報が詳らかにされている。小倉達郎「ドサ回り、リアリズム:制作者懇談会絵画部の活動に関する基本的情報の検証と考察」『Subject’23:多摩美術大学大学院美術研究科博士前期課程芸術学専攻研究誌』2024年、38–47頁。
  4. 河原温「『原画一点』への疑問」『美術手帖』第140号(1958年4月)、24–25頁。同時期の諸実践については次の各論考を参照。成相肇「俗悪の栄え:漫画と美術の微妙な関係」『実験場:1950s』東京国立近代美術館、2012年、176–187頁。桝田倫広「『印刷絵画』再考のための言説整理」『引込線:美術作家と批評家による第5回自主企画展』櫻井拓編、引込線実行委員会、2015年、395–407頁。小倉達郎「河原温による『印刷絵画』の取り組み:基本的情報の整理とその意義についての考察」『Subject:多摩美術大学大学院美術研究科博士前期課程芸術学専攻研究誌』2023年、28–35頁。

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