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《かえり路》
1915年
絹本彩色・四曲一隻屏風
158.5×228.5cm
令和4年度寄贈
池田蕉園は東京でいちばん人気だった美人画の描き手として知られています。文展で売約となった作品数は最多を誇り(註1)、当時は上村松園とともに女性美人画家の双璧とされていました。今、松園に比べて画名が低いのは、蕉園が31歳で早逝し、大作が少ないことが理由のひとつです。そんな蕉園が1915年の第9回文展に出品した《かえり路》が、当館のコレクションに加わりました。
ご注意いただきたいのは、今は四曲屏風の本作が、発表当初は左にあと2扇がつながった六曲屏風だったことです。失われた2扇に描かれていたのは若武者の後ろ姿。もともとはその彼が振り返る娘の視線を受け止める構図でした。
蕉園と同門だった鏑木清方は、蕉園の描く女性像の特徴を「長い袖袂を重たげに引き摺つてゐるやうな形、悩ましげなる風情、堪へ難きもの思ひ」(註2)にあると言っています。蕉園は師の水野年方から「人間を写すので、人形を画くのでは無い。絵は精神気品が大切だから、其事を忘れてはならぬ」と指導され、人物の内面描写に努めました。本作でも、振り返る娘の恋心を秘めた表情にそれが十分に発揮されています。だから2扇が失われた今でも絵が成立する――そう見えるのは幸いですが、当然ながら蕉園にとっては、娘が目で追う若武者も絵を成り立たせる重要な要素でした。蕉園は本作の構想にあたり、若武者の姿を素描帳に繰り返し描いているのです。
《素描帳》は1964年に東京国立博物館から当館に移管されて以来、その題箋から蕉園の夫、池田輝方のものだと思われてきました。しかし、本作の寄贈を受けて改めて見直したところ、本作の構想が半分ほどを占めていたことから、二人の共用であったと判明しました。構想図のなかには「両大師」の立て札を背景にしたものもあります。《かえり路》の場面設定はどうやら上野の寛永寺あたりだった、そんなこともわかりました。
蕉園は輝方との恋愛、婚約破棄、復縁を経て、1911年に結婚してからは、好んで輝方の画風に染まっていったとされます(註3)。ならば、輝方が本作の3年前に文展で発表した《都の人》(所在不明)との関係も探るべきでしょう。清遊の帰りみち、着飾った男女がぞろぞろと歩く右隻は、その情景も人数が10人であることも本作と共通します。そうしたことも含め、今後の研究が俟たれる作品です。
註
(1)「自第一回至第十一回売約品の筆者画題買受人」吉岡班嶺編『帝国絵画宝典』帝国絵画協会、1918年
(2)鏑木清方「明治より大正初期の美人画雑感」『現代作家美人画全集 日本画編・上』新潮社、1932年
(3)松浦あき子「池田蕉園研究―明治美人画の流れ」『明治美術研究学会第24回研究報告』明治美術研究学会、1987年
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