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現代の眼 展覧会レビュー MOMATコレクション 「生誕120周年 長谷川三郎と国立近代美術館」に寄せて
戻る長谷川三郎といえば、画家としてだけでなく、東京帝国大学文学部美学美術史学科で培った博識を背景に、多くの芸術論、作家論、評論を手がけた論客としても知られている。そして、没後1977年に出版され、長らく基礎資料となってきた作品集が「画」と「論」の二冊構成となっていたことから、双方を等価な仕事としてとらえることが、長谷川研究や長谷川の回顧展における定石となってきた。今回の小企画展はそこに新たに「キュレイター」としての仕事を加えることで、この異色の人物の固定化された見方に風穴を開けようとする意欲的な試みである。

本展には前提となるふたつの展覧会がある。東京国立近代美術館で2022年に開催された「プレイバック『抽象と幻想』展(1953–1954)」と、2024年に開催された「プレイバック『日米抽象美術展』(1955)」である。「抽象と幻想」展は、同時代の美術に寄り添う「動的な美術館」として1952年に開館した東京国立近代美術館(当時は国立近代美術館)が、実質的なスタートラインとして企画、開催した展覧会であり、2年後に開催された「日米抽象美術展」は、その視野を海外に広げたこれもまた同館にとって重要な展覧会である。これらを所蔵品とアーカイブ資料で検証する「プレイバック展」の調査過程で浮かび上がったのが、長谷川三郎であった。

「抽象と幻想」展での、一般の鑑賞者に向け展覧会の背景をなす戦前の前衛美術の成果——「抽象」と「シュルレアリスム」とは何かを説明した趣意書や、作品図版をちりばめた巨大なパネルの解説文が長谷川の手になるものであることは、すでに「プレイバック展」で明らかにされていた。今回は、甲南学園長谷川三郎記念ギャラリーが所蔵する長谷川の原稿と並置されることで、それがより説得力をもって示されている。また、「日米抽象美術展」は、1953年に長谷川がアメリカ抽象美術家協会の依頼を受け、日本の抽象美術家のとりまとめとアメリカでの展覧会への出品に尽力したことへの返礼として実現した展覧会であったが、抽象美術に前衛書を含める発想は長谷川ならではのもので、日本側の出品作家や作品の選定にまで彼が深く関与したことが分かる。

「抽象と幻想」展と「日米抽象美術展」はどちらも国立近代美術館の主催であり、公式の資料のどこを見ても企画や協力に長谷川三郎の名は見当たらない。長谷川はいわば黒子となって、このふたつの展覧会をキュレーションしたのである。裏返せば、当時の国立近代美術館が、自館に研究官がいて「抽象と幻想」展では表向き高名な美術評論家、植村鷹千代と瀧口修造に協力を仰ぎながら、実際には長谷川に全面的に頼ったということになる。それはいったいなぜだったのか。
残念ながら、本展ではこの核心部分に答える直接的な資料、例えば国立近代美術館から長谷川にあてた文書やアメリカ側と長谷川とのやり取りなどは示されていない。しかし、国立近代美術館の研究官や美術評論家の手に負えない内容だったからこそ長谷川に託されたと考えるならば、彼が当時日本の美術界でいかに特別な役割を持つ存在であったかが知れる。

じつは本展では、その役割を示唆する資料がさりげなく展示されていた。それは、長谷川が敗戦直後から「抽象と幻想」展の直前にかけて立て続けに出版した単行書の数々である。『新らしい絵を見る手引』(1948年)、『モダン・アート』(1950年)、『現代美術:理論と鑑賞』(1952年)。これらは芸術論、作家論、評論ではない。近代美術、とりわけ抽象美術の解説書であり、啓蒙書、教育書である。つまり彼はキュレイターである以前に、一般には難解だと思われがちな近代美術を分かりやすい言葉で解説できる、優れた「啓蒙者」「教育者」だったのである。その実績と評価から「抽象と幻想」展のキュレイターとして長谷川に白羽の矢が立ったのではないか。とはいえ、美術団体の対立が激しかった当時のことだから、自由美術家協会のいち会員だった長谷川を国立の美術館の企画展のキュレイターとして前面に出すことは憚(はばか)られたのかもしれない。そこで、その借りを返す意味で、彼の個人的な人脈による展覧会をあえて引き受けたのが「日米抽象美術展」であった、と考えると一連の流れが腑に落ちる。
もちろん、これは筆者の憶測である。いや妄想かもしれない。しかし、本展はそんな妄想をかきたて、長谷川の多面性を認識させるに十分な好企画である。時を同じくして、長谷川の研究者であった故・河﨑晃一氏による半世紀ぶりの作品集も出版された。これを機に、この稀有な人物の再考が活発化することを期待する。
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