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現代の眼 展覧会レビュー MOMATコレクション うつしみの身体、不在の身体——イメージの力能を問う
戻る第12室を構成するのは、いずれも身体のイメージ——身体の形代(かたしろ)、不在の身体、虚ろになった身体、身体の抜け殻や断片といったもののイメージである[図1]。
展示室に入ってすぐ左の壁は草間彌生《冥界への道標》(1976年)、この時期の草間にとって強迫観念となっていた男性器を

その隣の壁には、前本彰子《大紅蓮》(1986年)[図2]が鎮座する。大粒のラメがまぶされたロココ調のドレスに、マティスをさらにバブル期めいた極彩色にしたような背景布。ドレスの中身を占めるべき身体は不在のまま、空洞がドレスの膨らみを形作っている。近寄って見ると、ドレスも背景の布も粗い織りのドンゴロスに塗料を塗ったもので、端はほつれたままである。この作品も登場する映画『ロビンソンの庭』(山本政志監督、1987年公開)の世界と地続きの、サイケデリックなトリップ感覚と裏合わせになった、ぼろとくずを寄せ集めて死化粧を施した人工楽園という感じを受けた。

反対側には、3枚の絵が掛けられている。村上早《まわる》(2015年)では、裸足の少女が曳く巨大な車輪に、白い輪郭線で描かれた犬が挟まれている。キャプションによれば、この作品は銅版に筆で描いた線を腐食させる手法を用いており、作者にとってその線は「心の傷」、インクは「血」、インクを載せる紙は「ガーゼ(包帯)」なのだという。ここでは描かれたモティーフのみならず、絵画の表面そのものが傷ついた身体、傷ついた皮膚であり、描く行為は傷を創ると同時にそれを手当てするものとなっている。
その隣のぼんやりとした色彩の塊は、イケムラレイコの《横たわる少女》(1997年)だ。仄暗い空間に浮かび上がる明るい黄色の帯の上で、少女がまどろんでいる。顔も身体の細部もぼやけており、それが色調とも相まって、海の底にいるようなまどろみの感覚を観る者に伝えてくる。「眠る少女」というモティーフは、ともすれば客体化・人形化されやすいが、ここにいるのはむしろ感覚の帰属先であり眠る主体としての、どっしりとした肉体を持つ少女である。
ミリアム・カーンの《無題》(2016年)では、野外を裸体で歩く人物たちが描かれている。乳房を見るに老齢の女性がふたり、それ以外の人物は身体的に無徴である。いちばん手前の背の低い人物像は、まだ幼い少女だろうか。
これも展示壁の一面を占める白井美穂《Waterfall (Why Are You Afraid of Black and White?)》(1993年)は、解説によれば、アメリカ人男性であるバーネット・ニューマンに対する、日本人女性としての応答だという。カラーフィールド・ペインティングの「崇高」や「オールオーバー」といった大きな抽象概念の代わりに、ここには「誰かの身体がそこにある」かのような個別性・具体性と、人工毛のつやつやと滑らかな触覚性がある。髪の毛は身体でもその模倣でもなく、ここには無い身体の断片であり、それゆえに不在の(本作では人工毛が用いられているから、むしろ「非在の」というべきだろうか)全体像を想像させてしまう効果がある。
ビル・ヴィオラのビデオ《映り込む池》(1977–79年)は、実写映像を合成した「時間の彫刻」だという。木立に囲まれた池のほとりに男がやって来て、水中に飛び込もうとした瞬間、彼の身体だけが空中で静止したままとなる。その間も池の水面は絶えず揺れ動く。男の身体は次第にフェイドアウトし、やがて水面には次々と人影が映り込むが、その影に対応する身体は存在しない。水面の影が消えると、水中から男が姿を現し、木立の奥へと歩み去ってゆく。「反映像としてのイメージ」や、動画における時間というテーマへと観る者の思考を導いてくれる。
身体の似姿とは、イメージとしての身体とは何か、そしてイメージが代理物やフィクションであると同時に、あるいはそれゆえに宿している力とはどのようなものかを、作品やその制作プロセスそれ自体において問う——そのような作品の配置された展示だった。
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