展覧会
小林古径展
会期
会場
東京国立近代美術館本館企画展示室
展覧会について
小林古径(1883-1957)は、近代日本画の展開に重要な役割を果たした画家の一人です。大正から昭和にかけ、西洋から次々ともたらされる新たな美術思潮の渦のなかで、日本画の世界は大きく揺り動かされますが、古径は日本画が本来もっている特質に深く根ざしながら、近代という新しい時代にふさわしい日本画を創造し続けました。
新潟県に生まれた古径は、明治32(1899)年、16歳の時に上京して梶田半古のもとに入門、日本絵画協会・日本美術院連合共進会などに出品し、受賞をかさねました。明治43 (1910)年、今村紫紅、安田靫彦に誘われて紅児会に入会するとともに、大正3 (1914)年の第1回再興院展に《踏絵(異端)図》を出品して同人に推挙され、日本美術院の中心的な画家として活躍しました。
古径の作品の魅力は、無駄のない厳しい描線と濁りのない澄んだ色彩にあり、高雅で品格に満ちた作風は日本画の伝統的な美しさにあふれています。しかし、古径の作品は、伝統を固守することから生まれてきたわけではありません。画面に漂う張り詰めた緊張感と、どこまでも純化された表現は絵画におけるリアリズムを徹底して追求したところに生まれたもので、近代的というにふさわしい造形感覚を示しています。そこには、日本画という伝統と、絶え間なく流れ込む西洋美術との葛藤を通じ、近代という歴史の流れにつらなろうと格闘する古径の姿をみることができます。
現代の美術はジャンルを越え、境界も曖昧になりつつあります。表現の可能性が拡大し、「日本画」の意味そのものも大きく問われています。そうした状況にあって、古径の歩みは今多くのことを示唆しているように思われます。
この展覧会は代表作124点に素描を加えたリストから構成されています。一章「明治 -歴史画からの出発-」、二章「大正 -ロマン主義の華やぎ-」、三章「昭和 -円熟の古径芸術-」に分けて古径の画業の軌跡を辿るとともに、その芸術が現代に意味するものをあらためて探ろうとするものです。
ここが見どころ
岡倉天心の肝いりで実現された《加賀鳶》が出品
日本美術界の重鎮、岡倉天心の依頼を受けて制作された初期の大作《加賀鳶》が出品されます。加賀藩前田家江戸屋敷お抱えの消防団の勇敢な活躍ぶりを描いたこの作品は、前田侯爵家からの出品として明治43年ロンドンで開催された日英博覧会に展示されました。若干26歳の新進画家であった古径はこの作品を制作するにあたり、信貴山縁起絵巻のようなものを目指して描くようにと天心から励まされ、大いに感銘を受けたと伝えられています。
切手で知られるあの名作
切手の絵柄にも用いられたことから広く親しまれている《髪》も7月5日~7月18日まで本展に出品されます。乙女の体温や皮膚の柔らかい感触までもが描き出され、髪の毛一本一本に筆を重ねることで女性の豊かで美しい黒髪を表現した、まさに古径の最高傑作とよぶにふさわしい名作です。描かれている姉妹のモデルとなったのは古径の二人の娘たちといわれます。乙女たちの凛とした清々しい美しさ故に、この作品は裸体画としては日本で初めて切手のデザインに選ばれました。また《芥子》や《阿弥陀堂》といった作品も切手になっています。
実業家・原三溪や文豪・志賀直哉といった人々も古径のファンだった
古径の支援者のひとりに、横浜の名園「三溪園」でいまもその名を広く知られる生糸貿易の原三溪(原富太郎)があげられます。豪商・原三溪は古美術の大コレクターであり、また同時代の優れた画家を見出し支援する美のパトロンでもありました。原の招きで仏画や大和絵など第一級のコレクションを実物研究することができたことは、古径芸術の発展に大きく寄与しました。
また『暗夜行路』で知られる白樺派の文豪・志賀直哉も古径の作品を高く評価していました。古径は志賀直哉の著書の題字や挿絵をたびたび手がけています。
このように生前から実業界や知識層にもファンを持っていた古径は、まさに近代日本画壇を代表する画家であり、その作品はいまも清冽な画風で私たちを魅了します。
故郷・新潟によみがえった古径のアトリエ
古径の自邸は1934(昭和9)年に東京の大田区馬込に完成しました。設計を手がけたのは吉田五十八(いそや)(1894-1974)。日本の伝統的な数奇屋建築を近代によみがえらせたことで知られる建築家です。新しい自邸の夢を、古径は「私が好きになるようなものに」というひとことにこめました。古径邸に見られる伝統と近代の調和、豊かさを内に秘めた清澄で簡素な美しさは、古径芸術の特徴とも響き合っています。
築60年後の解体を経て、2001年春、古径邸は故郷・新潟の上越市内に画室とともに移築され、見事によみがえりました。現在は小林古径記念美術館の一部として一般公開され、美術ファンや建築ファンを魅了し続けています。
展覧会構成
第一章 明治 -歴史画からの出発-
故郷新潟で修行に励んだ古径は、16歳の時に上京し梶田半古の画塾に入門します。半古は当時まだ30歳でしたが、特に新聞挿絵の世界では名の知られた実力派の画家でした。入門して間もなく、半古からもらった雅号が「古径」です。古径は半古から懇切丁寧な指導を受け、また生来の画才も手伝ってたちまち頭角を現し、明治38(1905)年に奥村土牛が入門してきた時にはすでに塾頭格でした。この間展覧会などでも受賞を重ね、若手日本画家の有望株と見なされるようになります。この時期古径がもっぱら描いていたのが、いわゆる歴史画です。本展では最初期作の《村上義光》から第1回文展出品《闘草》、日英博覧会出品《加賀鳶》など初期歴史画の優品を集め、古径芸術の出発点を紹介します。
トピック①スケッチブックの中の青春 -模写と写生
半古画塾での古径は、古画あるいは半古のお手本を模写することによる基礎学習を徹底して行う一方で、草花や人物、風景などの写生を繰り返していました。それらは、現在、東京芸術大学ほかに遺されている写生帳類に散見されますが、模写にせよ写生にせよその正確な描写には驚くべきものがあります。ここでは半古塾時代を中心に、模写や写生などから選りすぐった作品をご紹介します。それらによって古径芸術の原点を探るとともに、絵画修行に明け暮れた古径の青春時代を追想したいと思います。
第二章 大正 -ロマン主義の華やぎ-
大正元(1912)年の第六回文展に出品された《極楽井》は、それまでの歴史画の集大成であるとともに、半古風の世俗的表現から脱皮して古典的な題材にロマン的な香りを感じさせる画風への展開を示すものとなりました。盟友安田靫彦はこの作品が発表された時を「この絵で古径芸術は八分通り出来上がった」と評したといいます。これ以降、ちょうど大正期全般にわたって、後年の研ぎ澄まされた線描芸術とは趣を異にする甘美でおおらかな画風が展開されます。これは、まさに大正のロマン主義という時代思潮と呼応するものでした。《踏絵(異端)図》《阿弥陀堂》《竹取物語》など、色彩豊かで華やかな作品群は、昭和に入ってからの清澄な画境に対して未成熟なものと位置づけられるべきではありません。むしろ、歿後50年近くを経た今日、古径芸術はこうした大正期の作品から再評価されつつあります。
トピック②ヨーロッパ留学 -見聞・古画模写とその成果
1922(大正11)年から翌年にかけて、古径は前田青邨とともに日本美術院の留学生としてヨーロッパに滞在しました。エジプト、イタリア、フランスなどで美術品を見て回り、イギリスでは長期滞在して東北大学の依頼により大英博物館所蔵の伝顧愷之筆《女史箴図巻》を模写しました。完成には50日かかったといいます。古径の画業にとってたいへん重要な転機となったこのヨーロッパ留学について、当時のスケッチ、見聞した西洋画の模写、写真資料、そして《女史箴図巻》模写などから留学中の古径の体験を様々な角度から紹介します。これまでの古径展にはない試みのひとつです。
第三章 昭和 -円熟の古径芸術-
ヨーロッパ留学から帰国後、古径は《鶴と七面鳥》(1928年)《清姫》(1930年)《髪》(1931年)と、続けて代表的な傑作を発表しました。ここに来て古径は、古典への真摯な探究心と線描に対する研究心を深め、静謐で研ぎ澄まされた画境に入っていきました。ここでは、昭和戦前期から戦後の晩年に至る、円熟の古径作品を、動物、植物、人物の三つのパートにわけてご覧いただきます。
I 生命への賛歌
《鶴と七面鳥》《孔雀》《牛》といった獣禽類を題材にした、格調高い作品も古径の真骨頂といえるでしょう。古径の描く動物は、実際に古径が飼っていた犬や、兎、猫など、日常の生活によく見かける小動物たちも多いのですが、そうした身近な題材を描いても作品には気品が漂っています。
II 花と実と―自然を見つめて
日本画では、梅花、牡丹、菖蒲などは古くから題材とされて来ました。しかし、古径の描く花や草木は、花鳥画と呼ばれる分類から抜け出しているように思われます。古径は、余計な要素をぎりぎりまでそぎ落としていきながら、植物の根源的な姿を追い求めているかのようです。
III 人の姿―祈り/暮らし
古径には清楚な女性像を描いた作品が多く、《犬と遊ぶ》《髪》《琴》《食後》などからは現代女性に取材しながらも古典的な香りを漂わす古径一流の女性観が窺われます。また、《文殊》《馬郎婦》《不動》《松風》など、仏教や謡曲などから題材をとった人物画も取り上げています。
トピック③制作の舞台裏―画稿から本画へ
古径が遺した画稿類の中には模写や写生以外に、本画のための構想スケッチが多数見られます。ここではその中から、戦後相次いで制作された人物画《食後》(1949年)、《壺》(1950年)の関連資料を、本画とともに紹介します。スケッチから下絵、本画へと制作の過程をたどることで、着想から紆余曲折を経て、やがて無駄のない簡潔で品格のある作品を生み出してゆく、ひたむきな古径の制作プロセスが浮かび上がってきます。
作家紹介
明治16(1883)年 2月11日新潟県に生まれる。本名は茂(しげる)。[0歳]
明治20(1887)年 母ユウ亡くなる。[4歳]
明治27(1894)年 東京美術学校出身の教諭山田於莵三郎について日本画の手ほどきを受ける。[11歳]
明治29(1896)年 父株亡くなる。[13歳]
明治31(1898)年 菊池容斎派の画家青木香葩につく。「秋香」の号をもらう。[15歳]
明治32(1899)年 親戚宅にひきとられ上京。
梶田半古の画塾に入り「古径」の雅号をもらう。第7回日本絵画協会・第2回日本美術院連合絵画共進会に《村上義光》を出品。[16歳]
明治43(1910)年 安田靫彦や今村紫紅に誘われ紅児会入会。[27歳]
大正元(1912)年 同じく半古塾で学ぶ三好マスと結婚。
第6回文展に《極楽井》を出展。[29歳]
大正3(1914)年 第1回再興院展に《異端》を出品。日本美術院同人に推挙される。[31歳]
大正9(1920年)年 東京・馬込に画室を新築。[37歳]
大正11(1922)年
~大正12(1923)年 日本美術院から派遣されて前田青邨らとともに渡欧。大英博物館で中国上代絵画の傑作《女史箴図巻》を模写。[39~40歳]
昭和6(1931)年 第18回再興院展に《髪》を出展。[48歳]
昭和10(1935)年 帝国美術院会員となる。[52歳]
昭和12(1937)年 文部省美術展覧会(文展)審査員となる。[54歳]
昭和19(1944)年 東京美術学校教授に就任。帝室技芸員となる。[61歳]
昭和25(1950)年 文化勲章を受章。[67歳]
昭和32(1957)年 死去[享年74歳]
イベント情報
講演会
※いずれも聴講無料、先着150名
尾崎正明(東京国立近代美術館副館長)「小林古径の芸術と生涯」
- 日時
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7月2日(土)14:00~15:00
田渕俊夫(日本画家、日本美術院所属)「技法から見た古径作品の魅力」
- 日時
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7月9日(土)14:00~15:30
- インタヴュアー
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古田亮(当館主任研究官)
カタログ情報
開催概要
- 会場
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東京国立近代美術館
- 会期
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2005年6月7日(火)~7月18日(月・祝)
- 開館時間
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午前10時~午後5時
(金曜日は午後8時まで、入館はそれぞれ閉館30分前まで) - 休室日
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月曜日休館(7月18日は開館)
- 観覧料
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一般 1200(800)円
大学生 900(600)円
高校生 500(350)円
小・中学生無料- ( )内は20名以上の団体料金
- いずれも消費税込
- 上記観覧料で入場当日に限り「所蔵作品展 近代日本の美術」、「所蔵作品展 瑛九とオノサト・トシノブ」もご覧いただけます
- 主催
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東京国立近代美術館、日本経済新聞社
- 協賛
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鹿島建設、コスモ石油、大日本印刷
- 協力
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山種美術館
- 問い合わせ先
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TEL 03-5777-8600 (ハローダイヤル)