展覧会

会期終了 企画展

声ノマ 全身詩人、吉増剛造展

会期

会場

東京国立近代美術館本館企画展ギャラリー

見どころ

本展は日本を代表する詩人、吉増剛造(1939 ‒)の約50 年におよぶ止まらぬ創作活動を美術館で紹介する意欲的な試みです。

東日本大震災以降書き続けられている〈怪物君〉と題されたドローイングのような自筆原稿数百枚のほか、映像、写真、オブジェ、録音した自らの声など様々な作品や資料を一挙公開します。

大友良英(音楽家)とのコラボレーションによるパフォーマンス、ジョナス・メカス(映画監督)作品上映など、イベントも多く開催する本展は、「詩人」の枠を飛び越えた、吉増ならではの多様性あふれる形態で、聴覚・触覚をも刺激する、体感する展覧会です。「言葉」の持つ力、豊かさを体験してください。

「声ノマ」とは          

詩人である吉増は、しばしば漢字をカタカナ(音)に置き換えることで、言葉(声)が本来もっていた多義性を回復させます。展覧会タイトルとなっている「声ノマ」の「マ」には、魔、間、真、目、待、蒔、磨、交、舞、摩、増など様々な意味が込められています。

声や音を空間にあふれさせる        

会場に入ると、壁をなるべく立てず、布でゆるく仕切った7つの部屋が広がり、声や音が空間にあふれていきます。そしてその奥には、飴屋法水による空間と、パフォーマンスや映像をみせるシアタースペース。計9つのタイプの異なる空間から展覧会は構成されます。

会場構成

 1. 日記 [ note ] 22歳の頃から2011年まで

吉増は日記魔でもあります。この展覧会では、詩人としてデビューする前の1961年(22歳)頃から2011年までの日記を公開します。詩のメモや、まるで水彩のような色使いがされたスケジュール表など、吉増ならではの日記帳です。

2. 写真 [ photo ] 多重露光写真を中心に 

1994年(55歳)頃から制作開始された、多重露光写真を中心に展示します。ちなみに吉増が撮影を始めたのは、10歳で中古のミノルタカメラを買ってもらった時でした。

3. 銅板 [ copper ] 文字を銅板に打刻したもの

若林奮(彫刻家)が送る銅板に文字を打刻した、オブジェのような作品を展示します。1989年(50歳)に始まったこの作品形態は、さらに発展して、長さ5メートルにもなる作品となりました。

4. 声ノート [ voice note ] 録音した自らの声

日常や旅先など、吉増が30代からライフワークとして、あらゆる場面で録音した自らの声のカセットテープは数百本におよびます。それらアーカイブから選りすぐった「声」を、各々が自由に聞くことができる空間です。他の詩人の朗読などを含むと、千本を超えるテープのコレクションも展示します。

5. 原稿・メモ [ autograph ] 吉増に影響を与えた3人の原稿

びっしりと書かれた吉増の原稿とともに、1977年(38歳)頃から交流が始まった親友、中上健次(作家)の集計用紙に書かれた原稿、自分で罫線を引いて書いた吉本隆明(評論家)の詩の原稿、龍安寺の石庭にインスピレーションを得たジョン・ケージ(作曲家)のドローイングなど、吉増が影響を受けた3人の原稿を紹介します。

6. 映像 [ gozoCiné ] 吉増版ロードムーヴィー

2006年(67歳)に誕生した、無編集を基本とする吉増版ロードムーヴィーは、「gozoCiné」( ゴーゾーシネ ) と命名され、今日に至るまで吉増のライフワークのひとつに加わります。厳選した約10本をスクリーニングします。

7. 怪物君 [ drawing ] 自筆生原稿

2012年(73歳)、東日本大震災の後から書き続けられた長編詩〈怪物君〉のための、数百枚におよぶ自筆生原稿を紹介します。一般的な詩の生原稿を大きく逸脱した、ドローイングとも、水彩とも、コラージュとも、パフォーマンスの結果とも呼べる、触感あふれる原稿です。

8. 飴屋法水による空間

演出家としても知られる飴屋法水(1961-)による、〈怪物君〉をモチーフにした空間。。

9. シアタースペース [ theater ]

吉増が釧路で行った舞踏家の大野一雄とのパフォーマンスを映像で紹介するほか、「音とのコラボレーション」として大友良英、空間現代と吉増がパフォーマンスを行うなど、身体性の高い創作活動を体験するためのスペースです。

展覧会レポート

会場風景(左:多重露光写真スペース、右:飴屋法水による空間) Photo: Kioku Keizo

2016年7月11日
取材・テキスト:島貫泰介  

開幕から約1か月が経った「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」。詩人や文学者に関する展示は極端に珍しいものではないが、文学館でなく美術館で行われるとしたら話は別である。生原稿や貴重な初版本をガラスケースの内に並べたとしても、それが作家の創造性に迫るものになるとは限らない。

出版物の量が作家の遠大なキャリアを代弁し、直筆原稿に記された癖のある書き文字がアウラを伝えるとしても、それは二次的、三次的な権威の再編でしかなく、端的に言ってしまえばオタク的なファン心理を慰撫するものでしかない、とも言える(きゃ〜、○○先生にお近づきになれちゃった〜! 的な)。

無論、美術館で行われる回顧展も同様の属人的な力学と無縁ではいられない。とはいえ、ある時代において特異な活動を成した(生きている詩人である吉増にとっては「成している」)表現者の、その作品の内に示された思考や構造を分析し、「体験」としてリアライズすることは、美術館の使命である。権威の追認に終わらず、作家と作品の持つポテンシャルを広く示すため、「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」はどのようなアプローチを選んだのだろうか?

本展は、9つのブースに分けられており、長い回廊で隔てられた、飴屋法水によるインスタレーション、1994年の釧路湿原で撮影された吉増と舞踏家・大野一雄のコラボレーション映像を展示した空間を除いて、そのすべてがゆるやかにつながっている。入場口を入るとすぐに、案内員から正面の「日誌・覚書/Diaries and Memos」のブースに進むことを促されるが、来場者はそれを無視したってかまわない。なぜなら正面にも右にも左にも自由に進むことができるからだ。

大展示室には、先述した「日誌・覚書/Diaries and Memos」、吉増が自分の声を吹き込んだテープや、彼の関心領域に関わるテープ(ボブ・ディランや相撲甚句など)が並ぶ「〈声ノート〉等/Voice Notebooks, etc.」、盟友である彫刻家・若林奮の銅板を譲り受けて制作された「銅板/Copper sheets」、1994年以降に展開した「写真/Photography」、2006年以降に制作された映像詩〈gozoCiné〉、吉増本人や、彼に大きな影響を与えた中上健次、吉本隆明 の直筆原稿などが並ぶ6つのブースが、黒い紗幕で区切られるように設えられている。それらをぐるりと取り囲むロの字型の回廊では、最近作である〈怪物君〉の全容が展開している。また、映像作品と写真作品の一部は、自分たちの領域からはみ出すように、回廊にも展示されている。

中央の6つのブースを仕切る黒い紗幕は、たしかにブースごとの特質を分かつものとして機能しているが、その一方で、多様な作品群が交錯し、共振しあうような企みにも加担している。それが端的にわかるのが「声」の要素である。

「〈声ノート〉等〜」のブースでは、天井からいくつかの指向性スピーカーが吊られ、その下に立つと、さまざまな時代と場所で発せられた吉増の声を聞くことができるようになっている。言葉に付帯する意味をパラフレーズするような節回しでささやかれる無数の声は、聴く者を瞑想的な精神状態へと誘う。この「声」の展示こそが、美術館で詩人の展示を行うことのブレイクスルーとなった核心だ。

そして、声の展示がこの場所だけに留まらないことを、来場者は徐々に気づきはじめるだろう。
声そのものではないが、「銅板〜」のブースでは、吉増が銅板に言葉を打ち付ける打刻音が常に響いている。また、〈怪物君〉の各章の冒頭部分でも、同作を朗読する吉増の声が響いている。

それらの音や声はささやかで、力強く主張するものではない。けれども、日記や写真の内容に視覚的に没入し、ふと集中力を緩めた瞬間に、それらは黒い紗幕の向こう側から我々の耳内へと浸透してくる。その瞬間に起こる覚醒の感覚は、頻繁に吉増の作品に生じる、自らの詩作に対する批評、すなわち、詩論とも言うべきメタ的介入を想起させるものだ。それは、吉増自身が詩作の際に経験しているはずの感覚(パフォーマンスにおいて、しばしば吉増は突然朗読をストップし、自分が現在進行形で体験しつつある状況や、コンディションの変化について語りだすことがある。それは、詩作と詩論が吉増の中で並行してあることを示している)を、来場者に追体験させるものでもあるだろう。

吉増にとって欠かすことのできない「声」を効果的に用い、詩人の内側に生起する詩の触感を具現化すること。そこにこそ、「作品の内に示された思考や構造を分析し、『体験』としてリアライズすること」を企図した「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」の狙いと成果があるはずなのだ。

ちなみに、筆者がおすすめしたいビューポイント(あるいはオーディオポイント?)は、入り口から向かって右奥の角だ。ちょうど〈怪物君〉の一章のスタート地点であるこの場所からは、100メートル以上にわたって続く巻物状の同作を一望することができ、さらに、それを朗読する吉増の声を頭上に仰ぎながら聴くことができる。また、隣接する「銅板〜」のブースから漏れ出る打刻音も左方向からミックスされ、心地よい音律を体感できる。

そうやって、さまざまな視聴覚的体験を統合することで、詩人の世界に肉薄してみることは、本展の一つの楽しみ方である。

インタビュー

「全身詩人」とは何者か? 吉増剛造展を知るための入門ガイド

6月7日から始まる「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」は、挑発的な展覧会になるだろう。というのも、いわゆる絵画や彫刻ではなく「詩」の展覧会になるからだ。本展は「声」にフォーカスするという。それは、書くだけでなく、語る(パフォーマンス)、撮る(映像、写真)、そして旅することで詩について思考する吉増剛造だからこそ可能な再表象の手段と言えるかもしれない。

同展を企画した主任研究員の保坂健二朗へのインタビューを前後編に分けてお届けする。

インタビュー・テキスト:島貫泰介
取材日 2016年5月11日


美術館で詩人を紹介する理由

―― まず、なぜ東京国立近代美術館で吉増剛造の展覧会を開催することになったのかお聞きしたいです。美術館で詩人の展覧会というのは意外ですね。

保坂:たしかに驚くかもしれないですよね(笑)。ですが、国立の美術館には、ある時代において先進的な展覧会を行う使命があります。そのミッションに吉増さんは合致する人物だった、というのが理由として大きいです。吉増さんは、映像や写真など非常に多彩なメディアに関わって活動する詩人です。そして、やることなすことすべてが詩につながる生き方をしている。そういった多面性に対して「全身詩人」という言葉を思いついたわけです(本展タイトルは「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」)。

―― 「すべてが詩につながる生き方」とは、どのような活動から連想されたのでしょう?

保坂:詩に向かっていることを強く感じたのは、あるカセットテープ群を見つけたからです。

―― 見つけた、というのは?

保坂:展覧会のリサーチで吉増さんのお家に伺った時のことです。現在、吉増さんは東京近郊三か所に家を持ってらっしゃって、そこを転々としながら暮らしているんですね。旅好き、一つの場所に留まれない吉増さんの気質があらわれた暮らし方だと思うのですが、そのうちの一軒に伺った際に、床の間にたくさんのカセットテープが並んでいるのを発見したんですよ。「一体これは何ですか?」と聞くと「昔、『声ノート』と言って、自分の声を録音していたんだ」と。吉増さんが「声ノート」と呼ぶテープが300〜400本あって、その他に古今亭志ん朝の落語や、タモリの出演番組を録音した……つまり様々な「声」を収集したものも大量にあって、合計1100本くらいのテープがあった。これはちょっとすごいなと思いました。僕自身、カセットテープ世代ですから懐かしさもあって。

―― 保坂さんも、自分でミックステープをつくった世代ですよね?

保坂:TDKとかマクセルとか懐かしいですよね。若い人にはわからないか(笑)。吉増さんは1970年頃から録音を始めていて、メモ代わりに自分の声を吹き込んでいるんですよ。そして、その声を聴き直して、自分なりのコメントをさらに録音している。「今日の分を聴き直してみたけど、なかなかいいこと言ってるな」とか。

―― どんどんコメントを積み重ねていっている。

保坂:そうです。そしてその行為は、詩作だけでなく、自分の喋り方に変化を及ばさないわけがない。これ以外にも、吉増さんは恐山に行ってイタコの声を録音したり、相撲甚句(取り組み前に力士数名が謳う、一種の伝統歌)のテープを買い求めたりしていて、いろんな声の在り方っていうものを常に学んでいるんですね。

詩人の「声」を展示する

―― 先日刊行された『我が詩的自伝 素手で焰をつかみとれ!』(講談社現代新書)でも、「声」について多く語っているのが印象的でした。

保坂:大量の「声ノート」を見つけて、腑に落ちました。吉増さんに会った人はみんな引き込まれてファンになってしまうのですが、独特の間合いの取り方、声の抑揚、声質なんかにその秘密があったのだ、と。喋るだけ、動くだけで何かしらの表現になってしまう。そういうところからも「全身詩人」を連想したわけです。

―― 作品と本人の距離が近い、というか混淆するようなところが吉増さんの写真や映像にはありますね。それも、全てが詩になってしまう、自分になってしまう、という印象を強くさせます。

保坂:写真や映像作品でも吉増さんの手や声が突然挿入されますし、詩の中でも、割注によって本人の呟きのようなものが入ってきたりしますね。彼は、作品に自分が出てくることを排除しない。排除しないどころか、むしろ過剰に出してこようとしている。それはちょっと特殊な表現の在り方だと思うんです。吉増さんを知らない人にとってみると、身体性が感じられるようで感じられない不思議な感触が生じる。それは、あえて言うと幽霊や亡霊の存在感に近いかもしれない。展覧会が始まってお客さんが会場に来た時、吉増さんの録音した声が亡霊的に響く空間に、ひょっとすると本人がいるかもしれない。そういう特殊な状況をしつらえたいと思ったんです。

―― 美術館や博物館の主要な役割は、美術作品や考古遺物を保存し、後世に残すことですね。しかし保坂さんが今回の展示で目指したのは、作家の現前性や、それによって生じる体験の強調であるように思います。

保坂:そうですね。

―― あえてそこにこだわった理由はなぜでしょう?

保坂:吉増さんは写真や映像も制作してらっしゃいますし、震災以降に取り組んでいる「怪物君」シリーズも水彩画として見ることができますから、物の展示だけでも十分なクオリティーはあります。しかし、美術的な観点で面白いオブジェクトをつくっていて、だから詩人としてだけでなく造形作家としても評価できる、というのではつまらないと思うんですよ。それは、詩人を展示することにはならない。

―― むしろ詩人の性質を、美術的な目線で無理矢理に理解しようとすることでもありますね。

保坂:ですから「声ノート」の発見は天啓に近いものでした。非物質的な「声」を美術館が展示するという挑戦でもありますし。吉増さんにとって声の重要性は言うまでもありません。彼の著作を読むと、折口信夫が朗読する声がどうのとか、萩原朔太郎の声がどうのとか、他の詩人の声についてばかり書かれています。それに対して「詩の構造や内容の分析をなんでほとんどしないんだろう?」という疑問をずっと抱いていたのですが、「声ノート」の発見によってそれが氷解したわけです。

――「声ノート」は、今回どのように展示するのですか?

保坂:まず室内にカセットテープ自体を展示します。その天井からスピーカーがぶら下がっていて、そこから「声ノート」の中でも特に重要と思われる音源が再生されるというしつらえです。この音源は、カタログに付いてくる二枚組CDにも収録します。

―― 重要な音源というのは、例えばどのような?

保坂:吉増さんが詩について率直に語っている、ある種の詩論などですね。「(詩が)わかってきたぞ!」とか「(吉増よ)挫けるな!」とか……自分自身に言い聞かせるようなものもあれば、岩手県の九戸の近くにある海岸を散策している時の声もあります。あとは、お父様が亡くなった時の独白も含まれています。

―― 基本は独り言?

保坂 :完全にそうですね。車を運転しながら「今日は、こんにゃく買おう。こんにゃく、こんにゃく、おでんのこんにゃく、こんにゃく」とか(笑)。そんなのメモにとってどうするんだろうみたいな日常の内容もありますし、「カセットテープにはわからないだろうけど、赤い電灯がきらきらしててキレイなんだよねえ……」という風にレコーダーを相棒に見立てているような内容もあります。かと思えば、レコーダーでもなければ自分自身でもない何者かに話しかけているようなものもある。そうやって、かなり特殊な喋りをくり返し行うことで、本人がその行為をどんどん意識化していくのがわかるんですよ。iPhoneなどのスマホが普及して、YouTubeなどで誰もが自分の主張や表現を発信できるようになった現在においてすら、この、メディアと自己表現の密接な関係は、ちょっと異様なものだと思います。大変なものです。

「怪物君」とは何か?

―― 声以外の作品として、震災以降に取り組んだ近作「怪物君」も展示されるとのことですが、これはどのような内容でしょうか?

保坂:制作年で言うと2012年からつくられているもので、大まかに3パートに分かれています。第1パートは吉増さん自身の詩です。第2パートは吉本隆明の詩『日時計篇』を書き写したもの。そして第3パートはこの『日時計篇』をあるルールに基づいて片仮名や平仮名に変えて書いたものです。例えば「プロレタリヤ文学」を「ぷろれたりやブンガク」という風に。おそらく石川啄木の『ローマ字日記』(すべてローマ字表記で書かれた、明治42年の日記)の影響も入っていると思います。それぞれのパートがさらに細分化されているのですが、第1パートでは、吉増さんはもともと一枚ずつ紙に書いたものを継いで、巻物のように仕立てているんですね。第2、第3パートでは、その上に、水彩絵の具が着色されている部分もあって、詩であると同時にドローイングのようにも見えます。

―― なぜ吉本隆明の詩を使って、解体・再構築するような試みをしているのでしょうか?

保坂:先日別のインタビューで吉増さんが答えていらっしゃった言葉を借りると、要するに「地面をつくり直す」必要があるからです。東日本大震災が起こって、地面が根こそぎ持っていかれる可能性があることがわかってしまった。自然現象としてだけでなく、それは言語も同じ状況であって、一度言葉を崩壊させて、地面をつくり直す必要があるし、そのことに対して詩人は立ち向かわなければならない……。そして吉本隆明についてですが、今のほとんどの人たちは、吉本ばななのお父さんや思想家として認知しているかと思いますが、1950〜60年代は詩人としてもよく知られていました。当時の吉本は、詩人とは人間の標準的な存在である、という感覚を持っていて、詩人の立ち位置と取り巻く社会との軋轢を言語化することが詩人なのだ、と言っていました。戦後間もない1950年から書かれた『日時計篇』を書き写すことで、吉本隆明が言語によって何をやろうとしていたのかを確認しつつ、乗り越えるという営みが「怪物君」なんだと思います。

―― そこで言われる「怪物君」というのは、吉本隆明のことなのでしょうか。それともそれを乗り越えようとする吉増さん自身……?

保坂:いろいろな解釈が可能だと思います。大地震が起こる自然存在でもあるかもしれないし、言語を崩壊させようとする詩人の存在かもしれない。いずれにせよ、今、吉増さんが憑かれたように取り組んでいるのが「怪物君」です。


後編につづく 


「全身詩人」を体現する作品たち

――今回は、吉増さんに影響を与えたジョン・ケージのドローイングや、萩原朔太郎の写真なども出品されます。特に注目したいのが飴屋法水の参加や、空間現代、大友良英とのパフォーマンスです。

保坂: 吉増さんと飴屋さんは、以前佐々木敦さんが企画された2013年の「エクス・エクス・エクス・ポナイト!!!!!」で共演(写真提供というかたちで志賀理江子も参加していた)されていて非常に印象深かったのですが、もう一度何らかのコラボレーションをするならば異なるかたちが面白いだろう、ということになって、展示での参加になりました。と、同時にやはり「全身詩人」としての側面も展覧会の要素として提示したいですから、空間現代や大友良英とのコラボパフォーマンスを企画しました。

―― 大友さんと吉増さんは何度も共演されていますが、空間現代とは初のコラボレーションになりますね。

保坂:刺激的な組み合わせになると思います。期待していてください(笑)。以前、音楽家の蓮沼執太さんが企画したイベントで、吉増さんとトークをする機会があったのですが、その時に、「あ、吉増さんスイッチが入ったな」と感じる瞬間がありました。普通に喋っていても詩人としてのスイッチが入る。というか、吉増さんは虎視眈々とスイッチを入れる機会を狙っていて、切り替わった途端に僕らは心を持ってかれてしまうわけですね。それはやはり希有な体験で、多くの人に体感してほしい。そんな目論みもパフォーマンスの企画には込めています。

「詩人」とは何か?

――楽しみにしています。保坂さんにとっても詩人と密に仕事をするのはこれが初の機会になったのではないかと思いますが、保坂さんなりに「詩」について、そして「詩人」という存在について感じたこと、発見したことはありますか?

保坂: 詩人の定義って、簡単なようでいて、すごく難しい。一般的には、言葉を練り上げていって、人の記憶に残るような言葉をつくる人、みたいなイメージではないでしょうか。例えば、まど・みちおはシュールな作品もつくりつつ、童謡「ぞうさん」の「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね」のような、全員の記憶に残る歌詞もつくった優れた詩人です。ですが、吉増さんの場合は、(すごくチープな表現になってしまいますが)言葉の可能性を切り開こうとしている人だと思うんですね。ほとんど読むのが不可能な詩や、読めるんだけど意味がわからないような、認識の境界を探るような詩を通じて、言語を撹乱していく。通常、私たちは言語や言葉をなるべく一義的に解釈……つまり解釈の幅を狭めていくことでコミュニケーションを促していこうとしがちです。しかしそれは、ある文法、ある文化圏内での約束事に過ぎないかもしれない。本来、言葉というものは、そういった約束事を一度でも忘れたら、コミュニケーション不能に陥ってしまうような定まらない側面を持っている。

―― 考えてみれば、赤ん坊の泣き声やうなり声から始まった「声」や「音」が、次第に意味が通じるように整理されていくこと自体が奇妙なこととも言えます。

保坂:かつて人間が動物であった時には、そういう切った張ったのヤクザな行為が発話・発声であったかもしれず、言葉にはそのような恐ろしさが張り付いているかもしれない。そう考えると、日本語が母音の数を「a、i、u、e、o」の5つに収斂してしまっているのは、相当な単純化なんですよね。それは外国語を学んでみるとすぐわかることで複合母音とかいろんな種類があるわけですよ。まあ、それが外国語習得の挫折の大きな理由でもあるんですけど(笑)。一方、表記可能な言葉としては平仮名や片仮名があり、漢字もあって、アルファベットを使うことだっていまや日常的だし、相当バリエーションが豊かであるにも関わらず、音に関して言うと、やや単純化が過ぎている。そこで吉増さんが他国の言語や、古い言葉に耳を澄ますというのは、理由としてわかりますよね。

―― 英語だけでなく、南米の言語や、奄美大島の言葉にも吉増さんは強い関心を寄せていますね。

保坂:ええ。自分の国の国語を切り拓いていくことも詩人の役割だと思います。いずれにせよ、そういった意識から、吉増さんはひたすら耳を澄まし、テープに録音した自分の声を聴き、いろんな土地を旅してその場所に息づく声を聴き、「声」「音」の可能性を示そうとしているのだと僕は思います。この東京国立近代美術館は、近代という時代の芸術表現を紹介することをミッションとする美術館ですが、近代にはある共同体が国民国家を目指す上で行われる国民化、画一化の問題が常につきまとっています。そういった場所で、吉増さんのような詩を紹介することは、とても大事なはずなんです。

詩人たちの「近代」

――そこで最初の質問に戻ってくるわけですが。つまり、モダン、モダニティを扱う東京国立近代美術館で吉増剛造さんの展覧会を行う必然性は大いにある、ということですね。

保坂: ええ。モダニズムの詩にはいろんな体系がありますが、テリー・イーグルトンという英国の批評家は、『詩をどう読むか』という本の中で、T.S.エリオットの「The Waste Land(荒地)」は、あえて理解できないようにつくられていると言っています。つまり、読めるけれどもその本当の意味がわからない言葉に直面した時に、その奥底からにじみ出てくる何かに耳を澄ますことが大事なのだと。日本でも20世紀初頭から様々な詩の試みがなされましたが、第二次世界大戦に入ると、ラジオの普及と相まって、国家のプロパガンダに協力した、いわゆる戦争詩人たちが現れます。その筆頭が高村光太郎であって、戦後、彼は戦争協力をした反省から東北に籠ってしまいますが、聴覚的に発展した戦時中の詩への反省からか、戦後活躍する鮎川信夫や田村隆一たちは象徴主義的、意味論な詩へと傾倒していく。つまり「声」や「音」から離れていくわけです。以上の概観は、かなり主観的なものではありますが、そこで停滞した声と詩の関係を、吉増さんが再度検証している、し続けている、というのが今回の展覧会における僕の見立てなんです。

カタログ

保坂健二朗(本展企画者、MOMAT)、佐々木中、ホンマタカシ、朝吹真理子のエッセイを収録。また吉本隆明と吉増のインタビューを再録。豊富なカラー図版に加え、吉増自身の声が聞ける「聲ノート」CD2枚がついています。

デザイン:服部一成・佐藤豊
定価:2,200円

  エッセイ目次

  • 保坂健二朗  |  吉増剛造と声について、のメモ
  • 佐々木中  |  文字の歴乱―吉増剛造とその詩語
  • ホンマタカシ  |  なんか、、いい淀み、、みたいなもんだろな、、 
  • 反復 – 探索、増幅し、、そして、、、
  • 朝吹真理子  |  みることがわからなくなる
  • 吉本隆明インタビュー  |〈普遍的なポエジー〉へ向けて
  • 奈良朝以前の日本語の根源へ(再録)
  • 吉増剛造ロングインタビュー(再録)

イベント

対談

今福龍太(文化人類学者、批評家、東京外国語大学大学院教授)+吉増剛造
2016年6月11日(土)14:00-16:00

佐々木中(作家、哲学者、京都精華大学准教授)+吉増剛造
2016年8月6日(土)14:00-16:00

場所:講堂(地下1階)
*開場は開演30分前、要観覧券、要整理券(当日10:00より1階受付で配布します。先着140名)

ギャラリートーク

保坂健二朗(当館主任研究員・本展企画者)によるギャラリートークを、会期中の2か月、
通常の展覧会より回数多く開催予定。吉増が飛び入り参加する可能性もあり。

2016年6月10日(金)18:30-19:30
2016年7月1日(金)18:30-19:30
2016年7月9日(土)14:00-15:00
2016年7月30日(土)14:00-15:00

場所:1階企画展ギャラリー
*申込不要、要観覧券

映画上映会

「リトアニアへの旅の追憶」(監督:ジョナス・メカス 日本語字幕付 16mmフィルムによる上映)
2016年7月16日(土)14:00-16:00 吉増剛造によるアフタートークあり
2016年7月17日(日)14:00-15:30

「島ノ唄」(監督:伊藤憲 主演:吉増剛造)
2016年7月23日(土)14:00-16:00 伊藤憲、吉増剛造によるアフタートークあり

場所:講堂(地下1階)
*開場は開演30分前、要観覧券、要整理券(当日10:00より1階受付で配布します。先着140名)

音とのコラボレーション、パフォーマンス

展示会場内のシアタースペースにて、3日間限定。ミュージシャンと吉増のパフォーマンス。

2016年6月17日(金)18:00-18:45 空間現代+吉増剛造
2016年6月18日(土)14:00-14:45 空間現代+吉増剛造
2016年6月25日(土)14:00-15:00 大友良英+吉増剛造

場所:1階企画展ギャラリー(展示会場内シアタースペース)
*開場は開演30分前、要観覧券、要整理券(当日10:00より1階受付で配布します。先着100名 6/25先着170名[立ち見を含む])

※緊急告知※
アフタートーク開催が急遽決定しました!
2016年6月18日(土)イベント終了後約30分間を予定
 登壇者:吉増剛造
     野口順哉(空間現代)
     佐々木敦(批評家、音楽レーベルHEADZ主宰)
*当日にイベントご観覧された方のみご参加いただけます。
*質疑応答の時間は設けておりません。

ギャラリー内でのイベント開催となるため、
ご覧いただけない作品がございます。
あらかじめご了承ください。

6月25日(土)
吉増剛造《釧路湿原にて「河の女神の歌」を大野一雄とともに》
 ご覧いただけない時間|10:00 – 17:00 (終日)

飴屋法水《〈怪物君〉のし》
 ご覧いただけない時間|13:15 – 15:15

【new】 スペシャルな詩の朗読の会

現代のアメリカを代表する詩人のひとり、フォレスト・ガンダー氏の来日にあわせて、
スペシャルな詩の朗読の会の開催が決定しました!

2016年7月2日(土)14:00-15:30

登壇者:吉増剛造(詩人)
    フォレスト・ガンダー(詩人/ブラウン大学教授)
司会:ジョーダン・スミス(文学翻訳理論、世界文学論/城西国際大学准教授)
コメンテーター:堀内正規(アメリカ文学、アメリカ文化/早稲田大学文学学術院教授)

場所:講堂(地下1階)
*開場は開演30分前、要観覧券、要整理券(当日10:00より1階受付で配布します。先着140名)

なお当日は、詩の朗読がメインとなるため、いわゆる「通訳」は入らず、
司会やコメンテーターが、日本語と英語とをつないでいく予定です。

※フォレスト・ガンダー氏は、この秋アメリカのNew Directionsから発行予定の吉増の詩集
『Alice Iris Red Horse: Selected Poems of Yoshimasu Gozo: a Book in and on Translation』の編者でもあります。

イベントレポート

空間現代+吉増剛造 2016 年 Photo: Kioku Keizo

2016年6月17日 空間現代+吉増剛造 音とのコラボレーション

その会場は「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」の一角に仮設的に設えられた。飴屋法水による、美術館の展示資材などを用いたインスタレーションの一部を取払って観客用に70脚程度の椅子を並べ、その中央には、空間現代の楽器類、吉増のための小さな椅子、幾冊かの詩集、マイク、そして彼のパフォーマンスに欠かすことのできないハンマー、紐に結わえたサヌカイト(讃岐岩)などが置かれている。

予定の開演時間をやや過ぎて、最初に登場したのは空間現代。野口順哉(ギター、ボーカル)、古谷野慶輔(ベース)、山田英晶(ドラム)によるこのスリーピースバンドは、単音を反復的に積み重ねるストイックな奏法を特徴としている。メロディというよりグルーヴに近い集積的な音の連なりは、建築の基礎構造、あるいは発話された言葉としても捉えることができるだろう。彼らが表現する抽象性は、異分野とのコラボレーションにおいてより効果的に発揮される。京都を拠点とする劇団「地点」、そして飴屋とも過去に共演している。

しばらくは空間現代のソロが続き、やがてドラムがそれまでとは違った硬質の、鉱石を打ち叩くような金属音(若林奮から提供された銅板に文字を打刻した、一連の吉増の作品を想起させる)を発し始めると、ついに吉増が現れ『怪物君』の一節を詠みはじめる。だが、その発話は容易には聴き取れない。なぜなら吉増は口元にサヌカイトの紐をくわえたまま発話しているからだ。かろうじて認識できる「雪が降っていたのである、陸前高田の……」(詩集に可能な限り準じて記述するならば、それは「ユキが、ンテ、タ、ノ、ンテ、タ、ノ、ンテアル、、、、、、 リクゼンタカタノスナヤマノカケ、、、、、、」となるだろう)なども、空間現代が奏でる爆音、そしてテープから再生される過去の吉増の声がある種の妨げとなって、ブラインドカーテン越しに苦心して外の景色を眺めるようなもどかしさを喚起する。あるいは、よりいっそうの音/声に対する集中力が観客に要請される。

ここで思い出されたのは、展覧会オープン前日に行われたプレス内覧会での吉増のパフォーマンスだった。巻き紙に記した『怪物君』の一部を詠み上げる詩人は、時折、脈絡なく、詩を詠み上げる自身の行為についての注釈を挿し挟んでくる。これは、吉増の表現に知悉した者であれば、即座に得心する手管であろう。

吉増の作品は、それが紙片に記されたものであれ、テープに録音されたものであれ、銅板に穿たれた言葉であれ、多重露光の写真であれ、すべて自らの表現行為に対するメタ的な批評性を有している。それは、表現としての「詩作」と、批評としての「詩論」を同時に遂行する試みであり、言葉によって言葉を追認する営みでもある。今回の空間現代とのパフォーマンスにおいても、同様の目論みが強く意識されていたはずだ。中盤以降、詩が『オシリス、石ノ神』へと移行していくと、吉増の発話と空間現代のサウンドは、次第に宥和的な関係を立ち上げていくように思われた。音の断片を積み重ねていく空間現代に相同するように、吉増はもはや言葉の発話ではなく、マイクを叩いたり、歯を打ち鳴らしたり、「はふっ、はふっ」という唸り声で応答してみせる。気づくと、会場内の照明もそれに合わせて小さく明滅している。音と光によるごく短い間隔のパルスが、客席も含めた空間全体を覆っていくかのような感覚は、パフォーマンスがクライマックスに達しつつあることを伝えるだろう。

波状の大音響を経て、再びドラムから発せられる硬質な金属音。キンッ、キンッという鋭利なサウンドは、観客の意識を、瞑想状態から現実へと引き戻す効果を持つ。そしてパフォーマンスは 終わった。最後に吉増は「すいません、もたもたしちゃって、どうもありがとうございました」と言って、退場していった。

以上が、筆者が体感した約45分のパフォーマンスである。そもそも、言葉ではない表現の発露を言葉に翻訳すること自体が原理的に不可能であり、ここに配置されている文字の列は、すべて「私」というフィルターを介して翻訳された解釈、あるいは虚偽と言ってよい類いのものだと思う。同じ会場にいた百数十名それぞれに、それぞれの体験があったはずで、おそらくそれらは似ているようでまったく違うのだろう。

そんなことを思いながら、人のまばらになった会場をぐるりと見渡すと、壁に立てかけられた木材にこのような言葉が記されているのを見つけた。

空間時代×吉スマゴウゾウ

あきらかに間違っているが、正解からそう遠くもない一節の言葉。それは、長らく吉増が取り組んできた言葉の遊戯の感覚を伝えるものであり、またこのパフォーマンスにおいて提示された、異物感や断絶を予言したものでもあるかもしれない。つまり、私の体験の「虚偽」は、この展覧会の主である吉増と、吉増の言葉を空間化することを試みた飴屋によって、あらかじめ制御されていたのかもしれない。言葉は、音楽は、空間は、そのようにして、人の精神や身振りにじわりじわりと介入するのである。

2016年6月17日 空間現代+吉増剛造  音とのコラボレーション
セットリスト:怪物君  /  絵馬、 a thousand steps and more  /  オシリス、石ノ神 /  古代天文台 /  石狩シーツ  
テキスト:島貫泰介  

開催概要

会場

東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー

会期

2016年6月7日(火)~2016年8月7日(日)

開館時間

10:00-17:00 (金曜日は10:00-20:00)
*入館は閉館30分前まで

休館日

月曜(7/18は開館)、7/19(火)

観覧料

一般1,000(800)円
大学生500(400)円

  • ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。
  • 高校生以下および18歳未満、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。それぞれ入館の際、学生証等の年齢のわかるもの、障害者手帳等をご提示ください。
  • キャンパスメンバーズ加入校の学生は、学生証の提示で割引料金400円でご鑑賞いただけます。
  • 本展の観覧料で入館当日に限り、「MOMATコレクション」(4F-2F)、「奈良美智がえらぶ MOMAT コレクション:近代風景 ~人と景色、そのまにまに~」(2Fギャラリー4)もご覧いただけます。
  • 使用済み入場券で、入館当日に限り再入場が可能です。

リピーター割引

本展使用済み入場券をお持ちいただくと、2 回目以降は特別料金(一般 430 円、大学生130 円)でご覧いただけます。

主催

東京国立近代美術館

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