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東近美の門をくぐるのはだれか──イサム・ノグチ《門》について

イサム・ノグチ《門》1969年撮影:大谷一郎 2021年4月12日撮 イサム・ノグチ《門》1969年撮影:大谷一郎 2023年1月30日撮影 2022年12月、当館のシンボルであるイサム・ノグチ《門》(1969年)が新しく塗り変わった。高さ10.5m、イサム・ノグチ(1904-88)の屋外彫刻としては世界屈指のサイズを誇る本作だが、幾何学形と明快な色彩という工業的な特徴のためか、あるいは美術館の入口から離れた位置のためか、残念ながら作品としてじっくり鑑賞されているとはいい難いようだ。この機会に、当館の歴史においても重要な本作にまつわる基礎的な──入門用の──情報をまとめて紹介したい。 《門》は、当館が開館した京橋から竹橋への移転開館(1969年6月11日)にあたって設置された。同時にこの作品は、こけら落とし「現代世界美術展:東と西の対話」(1969年6月12日〜8月17日)の出品作のひとつでもあった。この竹橋の美術館の設計者であり、ノグチと同い年で旧知の仲の谷口吉郎(1904-79)からの依頼だったとされる。谷口の言葉を引こう。 […]情感は簡潔。近代美術館の存在をそれが示している。/この彫刻は設計図によって工場で生産されたものである。従って彫刻というより建築の一部といえよう。しかし新しい彫刻の出現である。彼の制作活動はこんな新しいデザイン彫刻にまで発展している。/このように彼の彫刻は工程に於ても建築と密着するものとなった1。 《門》は谷口との共同作業による作品であり[図1 リンク先のIsamu Noguchi Archive画像参照]、白とグレーを基調とする建築のファサードに彩りを加えるとともに、横に長い建築に拮抗する縦方向のアクセントになっている2。幾何学形の彩色彫刻という点では、遊具を兼ねる《オクテトラ》(1965-69年)、ニューヨークの公共彫刻《レッドキューブ》(1968年)に連なるノグチの作例だが、《門》の工業的な性格は、じつは素材にも由来している。というのもこの作品は、資金不足のために1964年の東京オリンピック開催時に建設された高速道路用の梁を再利用している3。その意味で、《門》は当館の建築のみならず、その背後に走る高速道路とも「密着」しているのである。そして、あえて手仕事を排した発注芸術、ミニマルな形態、彩色彫刻という特徴は、1966年にニューヨークのユダヤ博物館で開催された企画展「プライマリー・ストラクチャーズ:アメリカとイギリスの若手彫刻家たち」を機に注目された動向に重なる。つまりこの作品は、当館の再出発の時代における最新鋭の美術動向を刻み込んでいるともいえる。 さて、《門》の最大の特徴は何といっても色が変わるという点だが(多作なノグチにおいておそらく唯一の例)、これには紆余曲折がある。まず色の変遷をまとめると次の表のようになる。 塗装年月色備考1969年5月朱設置。「現代世界美術展」6月12日〜8月17日。1969年8月頃朱と黒『新建築』8月号、『美術手帖』8月号に写真掲載。1975年2月青 1984年4月黄と黒来日した作家の指示を仰いで再塗装(『現代の眼』354号、1984年5月)(1988年12月30日 イサム・ノグチ歿。)1991年10月朱(1992年3月14日〜5月10日 東京国立近代美術館にてイサム・ノグチ展開催。)1998年-1999年青綿引幸造の写真集『イサム・ノグチの世界』(ぎょうせい、1998年6月刊)には朱の状態で写る。1999年10月の工事写真では青。(1999年10月から増改築工事のため溶断して一時的に撤去。2001年1月に溶接、再設置。)2006年3月黄と黒 2011年5月朱と黒2012年に開館60周年。2022年12月青開館70周年。 設置して「現代世界美術展」に朱の状態で出品されたのち、間もなく朱と黒の配色に変わったのは、ノグチが考えを改めたからとされる。この経緯の記録が残されていないが、朱一色は幻のパターンとなる(はずだった)。これはまだ塗り直し・・ともいえるのに対して、1975年の青への変更はまったくの塗り替え・・であるため重要ながら、塗装年月と作家の指示に基づくこと以外の詳細が不明。注目すべきはノグチ他界後の朱への塗り替えである。これに関しては美術館とイサム・ノグチ財団との書簡が残されている。1991年、翌春に控えたノグチ展に向けて《門》を朱に新装するという美術館からの連絡に対し、その根拠を問う財団からの返信が届く。以下がそれに対する当時の美術課長・市川政憲による返答である。 いかように再塗装するかにつきましては、あなたが希望されるドキュメンテーションはなく、わたしたちは、ノグチ氏生前の2度の塗りかえの折に、いずれも作家は、強く、色を替えることを指示した事実があります。この点を尊重し、弟のミチヨママ[註:野口ミチオ]さんにも当館の意向を伝えまして、賛同を得、色をかえることについては、ミチヨさんからもイサム氏の意向としてそのように望まれています。色をかえるについては、朱、青、黄/黒の三様を、塗装の劣化と相談しながら、再塗装の折ごとに、三様の色を順次くりかえしていくのが妥当と考えます4。 これが、塗り替えの方針を初めて記録した文書と思しい。3つの彩色パターンを繰り返すことはノグチが初めから意図していたものではなく、ノグチが生きていれば別の配色があった可能性もある。さらにこの際、ノグチが朱から朱と黒に変更したことが引き継がれておらず、最初期の朱が選択されることとなった。残念ながらというべきか、80年代以前の記録は多く残されておらず、じつのところ色彩の根拠も伝聞のみである。すなわち、朱はポストの色、青は清掃車の色、黄と黒は警告色。いずれも都市にありふれた人工色に由来し、作家の意図を感じ取ることはできる。今回の青への塗り替えはこれに従って、東京都の清掃車の指定色(日本塗料工業会規格72-40T)を基にした。 塗り替え過程 2022年12月15日撮影 最後に、肝心の作品そのものについて述べておこう。 全体を概観すると、ミニマルな形態ながら、基部の接続が複雑でおもしろい[図2 リンク先のIsamu Noguchi Archive画像参照]。規格化された工業素材の単位が縦横に連続し、彫刻が形づくられていく動的な過程を見るようだ。一方で、むしろ下から見上げよという次の富山秀男による解説は興味深い。 […]この彫刻をみるなら、美術館敷地の柵に沿って隣の公文書館よりの階段入口の方まで遠廻りし、手前の舗道からテラス上の角柱をふり返って見上げるのがいい。そのときに何が見えるか、というより何を感ずるかは一瞬わが眼を疑いたくなるほどの経験をするに違いない。/二本の長方形の角柱を切った切断面、また何より柱自体の交錯する垂直面が、頭の中で考えるような表われ方をしていないのである。そこに見るものは、量感の消去された驚くほど平板な構造体であり、逆にいえば人間の眼の錯覚を計算しつくした作家の叡知の非凡さなのだ。このことは日射しのきつい晴天の日より、曇日で角柱を彩る明暗の差があまりはっきりしていない日の方が、より効果的なことは確かである5。 この解説と対になる写真が[図3]である。富山のガイドの通りに現在の《門》を見てみると、たしかに平たく感じられる。均等に光を浴びた彩色の角柱は量感を弱め、特に斜めの天面に奥行きを感じにくいことから、下から見上げているのにもかかわらず、斜め上から見下ろした直方体を見ているような不思議な錯覚を生じる。透視図というか、平面上に示された図形のように見えるのである。線的な印象の強い作品だ。彩色パターンによって形態の分節を様々に楽しめる作品だが、一色に塗られた今回が、最も視覚的な効果を味わえるタイミングといえる。 図3:『現代の眼』242号、1975年1月、表紙 そもそも本作の題名は、なぜ「門」なのか。先の引用部の前で富山が「正月の門松の感じさながら」と書いているのは諧謔だろうが、当初の朱色が連想させるのは神社の入口たる鳥居だろう。富山が述べている通り、増改築工事の前、公文書館側(西側)にはテラスに通じる階段があった。図4のマケット写真が示すように、この作品は西側を正面に設定しており、いま私たちの多くが見ている東側の基部にノグチのサインが記されている。天皇の行幸ルートが美術館の西側からであるため、「門」とは天皇を出迎える意図を含むのかもしれない。ただ、天に向かって口を開けたノグチの野外彫刻《スカイゲート》(1976-77年)を参照するなら、《門》は柱と柱の間へと視線を誘う──眼でくぐる──作品だと解釈するのが最もふさわしいように思う。運動場や舞台装置、庭園などに関心を寄せていたノグチの彫刻思想の表われとして、この作品は彫刻でありながら非彫刻の空間を示唆し、それを抱え込んでいる。 竹橋にお越しの際は、遠くから近くから、そして東から西から、この作品をあらためてご覧いただきたい。 図4:東京国立近代美術館建築概要、1969年、表紙 註 谷口吉郎「イサム・ノグチとの出会い」『イサム・ノグチ彫刻展』図録、朝日新聞社、1973年、頁 数表記なし。引用中の「/」は改行を示す。以下同。 当館の建築のファサードは道路に面した南側で、(あいにく街路灯などで見えにくいが)道路を渡った側から見ると谷口建築の和風な印象がよくわかり、《門》との関係も把握できる。なお、東西線竹橋駅側の東側面にある館名の文字は、こちらから見られることが多い都合上、1974年末頃に追加されたもの。 『イサム・ノグチ生誕100年(エクスナレッジムック)』エクスナレッジ、2004年、125頁  イサム・ノグチ財団レジストラーBonnie Rychlak宛、1991年10月23日付、和文原稿 富山秀男「表紙解説」『現代の眼』242号、1975年1月、8頁 『現代の眼』637号

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無料ガイドアプリ「Bloomberg Connects(ブルームバーグ・コネクツ)」のご案内 

2025年3月から、無料の美術館ガイドアプリ「Bloomberg Connects(ブルームバーグ・コネクツ)」に東京国立近代美術館が参加しています。 当館の開催中の展覧会、おすすめの場所、所蔵作品の解説のほか、キュレータートークなどの動画コンテンツもご覧いただけます。ご来館時だけでなく、ご自宅でもお楽しみいただけるアプリです。順次コンテンツを増やしていきますので、是非ダウンロードしてお楽しみください。また、40以上の言語に自動翻訳されるため、国内の方のみならず世界中の方にもご利用いただけます。 ダウンロードはこちらから ※館内で音声ガイドや動画をご利用になる場合は、イヤホンをご持参ください。 Bloomberg Connects(ブルームバーグ・コネクツ)とは 「Bloomberg Connects(ブルームバーグ・コネクツ)」は、世界の文化施設を紹介する無料のデジタルガイドです。ご自身のデバイスから、いつでもどこでも簡単に芸術や文化情報にアクセスすることができます。本アプリには、世界有数の美術館、博物館、舞台芸術施設、野外彫刻公園や植物園など、850を超える施設が登録されています。それぞれの施設がコンテンツを展開し、開催中の展覧会情報などを発信しています。中には、専門家による解説やハイライト動画、ピンチズーム機能、展覧会マップ表示など、便利な機能が搭載されています。アプリはGoogle PlayまたはApp Storeから無料でダウンロードできます。https://www.bloombergconnects.org

工程と手段─ ヒルマ・アフ・クリントの営み 

宗教、科学、芸術の境界を越え、思索と直感のはざまで絵画のあらたな地平を切り拓いたヒルマ・アフ・クリント。神秘主義に傾倒した彼女の作品群は、媒介/媒材(メディウム)としての画家および絵画の役割を問い直し、創造性の正体をめぐる再考を促すものとして、2010年代以降、注目の的となってきた。ジェンダーやフェミニズムの文脈をはじめとする読み解きもあいまって、近年の「近代抽象絵画の先駆者、アフ・クリント」再評価の機運は勢いを増し、各国で大きな渦を巻き起こしている。本展は、このような状況下に満を持して開催されるアジア初の大規模企画である(図1)。 図1 会場風景|撮影:三吉史高  出展作品を点検する修復家として、筆者はアフ・クリントの技法を間近で観察する機会に恵まれた。もっとも大型の作品にして本展の目玉となる〈10の最大物〉(1907年)を目にしたのは展示が始まって3日目のことである。シリーズの最後を締めくくる《10の最大物、グループIV、No.10、老年期》が輸送箱から姿を現したとき、まず目に映ったのは、水面のように波打つ紙、あたたかみのある白色、おおぶりな筆跡であった(図2)。塗り残された部分から濃い茶色の紙が垣間見え、周囲には作品を裏から補強するためにあてられたピンク色の裏打ち布がのぞく。裏打ち布と作品の描かれた紙はぴたりと接着しきっておらず、不規則な皺が縦横無尽に走っている。花や万華鏡を思わせるカラフルなモチーフの奥には、薄く構図の下描き線が浮かぶ(図3)。  図2 《10の最大物、グループIV、No.10、老年期》開梱時|撮影:田口かおり  図3 《10の最大物、グループIV、No.10、老年期》部分|撮影:田口かおり  紙、布、筆。描き、塗り、貼る。そこには間違いなく、絵画が絵画として立ち上がるまでの工程と手段がある。  「(…)下絵のデッサンもなく、自分の手で力強く直接絵を描きました」「一筆も乱すことなく、素早く確実に描いていたのです」1 ──高次の霊的存在からの指示のもとで行われた仕事について、アフ・クリントはいくつかの証言を残している。とはいえ、彼女の「描き」をめぐる検証は、しばしばスピリチュアリズムの文脈にひき寄せられがちで、一画家としての彼女が素材といかに対峙し、体と筆を実際にどのように動かして巨大な支持体を絵画へと仕立てていったのか、その痕跡はともすると見過ごされがちかもしれない。  実のところ、出展作品を点検するなかで見えてきたのは、画家本人のいうところの「力強く」「素早く確実」な描画の豊かなバリエーションであり、地(=紙や布)の上にかたちと色彩(=絵画)を、道具(=絵筆)をもって描き出す画家が試みた、いくつかの技法的冒険の名残であった。  本展の構成を簡単にさらっておきたい。全体は5章構成になっており、アカデミックな鍛錬を積み重ねていた頃の作品群を経て(第1章)、神秘思想などに影響を受けて螺旋や貝、霊的存在の頭文字などのモチーフが画面上に登場する19世紀末からの展開が示され(第2章)、〈10の最大物〉を含む「神殿のための絵画」群へと続く(第3章)。自然科学や人智学との交差のなかで水彩絵具を用いた表現があらたに花開く1920年代を総括した上で(第4章)、「神殿のための絵画」をおさめる建築物を構想し、また、自身の作品群を編集記録した「青の本」を編む晩年(第5章)に至る。  作品を時系列にたどる動線は、ヒルマ・アフ・クリントに長らく結びつけられてきた霊媒的イメージやそれを取り巻く言説を一度ほどき直し、彼女が生きた時代の思想的・科学的・芸術的な諸領域との往還を視野に入れながら、その制作の軌跡を丁寧に追う試みそのもののように映る。そして、1880年から1941 年へと続くタイムラインが、結果としてアフ・クリントの技法変遷を浮き彫りにしていることは興味深い事実といえよう。  バルビゾン派の風景画や印象派の色彩選択を思わせる表現が瑞々しい《夏の風景》(1888年)や、油絵特有の筆致が重く隆起する《肖像、フレドリック・ヴィクトル・アフ・クリント》(制作年不詳)と、〈白鳥、SUWシリーズ〉(1914-1915年)の描画のうちとりわけ後期の作品における薄く透過性のある描画層を見比べれば、その違いは一目瞭然である。制作技法表記こそ「油彩・キャンバス」であっても、おそらく1906年あたりからの彼女の技法は、過去の伝統的なそれには留まらない。支持体である画布や紙の質感や色を存分に活用したり、下地を施さずに絵具を塗布したりと、あらたな冒険が繰り広げられているのである。  古典絵画技法の習得にも熱心に励んでいたとされるアフ・クリントは、卵黄で顔料を溶くエッグ・テンペラ技法を多くの作品に応用しているほか、独自の裁量で顔料を調合し描く工夫も取り入れていたという2。実のところ、紙にテンペラ技法で描いたとされる前述の〈10の最大物〉には、油性溶媒の使用を思わせるぽってりと分厚い絵具の凹凸がそこかしこに見られる。霊的存在からの明確な指示に従って早急に〈10の最大物〉を仕上げなくてはならなかった彼女にとって、速乾性のあるテンペラ技法は理にかなった選択であっただろう。ただし、彼女はオウムガイや花のモチーフの一部を強調するために、より粘度の高い絵具を併用しているようなのである。目をひくのは、筆致の隆起だけではない。そこかしこに走る下描きの線、ときに床に作品を置いて描き、ときに壁に留めて描いた姿勢の変更を物語る多様な絵具飛沫や垂れ跡、自身が手作業で行ったとされる裏打ちの跡、これらがすべて「大きな絵を描く」という一大事に立ち向かう彼女の物理的格闘を証言している3(図4)。  図4 《10の最大物、グループIV、No. 2、幼年期》部分|撮影:田口かおり 「絵画制作のたび、人間、動物、植物、鉱物、そしてあらゆる創造物に対する私の見識は鮮明になっていきました。限られた自意識から解放され、より高い次元に到達したと感じました。そのような時、私は絵画制作を通じてより自由な境地に達することを教示してくれる存在と協力し、啓示を受けました」4。  こうした彼女の言葉を裏付けるように、初期の作品から晩年に至るまで、男女の、白鳥の、貝殻の、花弁の、結晶体のモチーフは変容しながら繰り返されていく。上記の述懐は、ただし、これらのモチーフを描くために用いられた技法や素材そのものについての語りとしても成立するように思われる。すでに述べてきたように、アフ・クリントの創作には、高次の霊的存在からの「指示」が関与していた。だが、「指示」に忠実であることと、自ら素材に工夫を凝らし、絵具を調合し、技法を試行錯誤するという能動的な態度とは、おそらく矛盾するものではない。 啓示を具体的な物質(=絵画)のかたちに置き換えるためには、組成への深い理解と画家としての技術が要請される。「人間、動物、植物、鉱物、そしてあらゆる創造物」から、どのような色とかたちが立ち現れるのか。いうまでもなく、イメージの具現化を可能にするために求められるのは知識と技術の蓄積と、工程と手段の精査である。鉱物や貝殻を砕き、植物から染料を抽出し、昆虫から色材を得る──そうして獲得された顔料は、卵や油、樹脂や水といった媒介によって絵具と化し、やがて絵画のかたちをなす。ヒルマ・アフ・クリントの絵画技法の多様性が仄めかすこと、それは、アフ・クリントにとっての制作は単なる受動的行為ではなく、素材と技法の能動的な探索を通じてこそ遂行されるものであり、ある種の主体性の介在を否応なく要請される営みだったのではないか、という可能性である。  自然の断片があらたな体系へと精製されたしるしの数々は、ひそやかに、しかし見方によっては饒舌に、作品生成の経緯を鑑賞者に物語る。  自然界から抽出された物質を調合し、塗り伸ばし、乾かして、補強し、記録する。その仕事は、物質の変容を通じて不可視のものを可視化する霊的な実践であり、物質とイメージを結ぶ錬金術的な技であり、色とかたちの中に宇宙の秩序を沈殿させるアフ・クリントの儀式とも、読み解くことができるかもしれない。  註 1 エリク・アフ・クリント、安達七佳訳「ヒルマ・アフ・クリントとその作品」(1967年12月)『ヒルマ・アフ・クリント展』カタログ、東京国立近代美術館、2025年、254頁。  2 本展コンサバターであり、ヒルマ・アフ・クリント作品の調査修復を担当してきた修復家サラ・パルムボリの証言による。ただし、アフ・クリントが残した膨大なスウェーデン語の日記や資料については、現在もまだ十分に翻訳や分析がなされておらず、絵画の組成を明らかにし将来的な保存に役立てるための情報収集や科学的分析も未完遂の状態である。 3 〈10の最大物〉の各作品につき要した時間は4日、合計40日で仕上げられている。制作の速さや技法についての言及は以下を参照。Julia Voss, Hilma af Klint: A Biography (Chicago: University of Chicago Press, 2022), chap. 6, “The Ten Largest,” p. 142; Sarah Isenberg, “The Future Is Now: Hilma af Klint and the Esoteric Imagination,” Bowdoin Journal of Art (2020), p. 30.  4 ヒルマ・アフ・クリント、安達七佳訳「人智学協会における絵画作品の紹介に際しての前置き」(1937年4月16日)『ヒルマ・アフ・クリント展』カタログ、東京国立近代美術館、2025年、251頁。  『現代の眼』640号

戯れ

所蔵作品展 MOMATコレクション(2025.2.11–6.15)

2025年2月11日~6月15日の所蔵作品展の見どころ 清宮質文《深夜の蝋燭》1974年 MOMATコレクションにようこそ!  当館コレクション展の特徴をご紹介します。 まずはその規模。1952年の開館以来の活動を通じて収集してきた13,000点超の所蔵作品から、会期ごとに約200点を展示する国内最大級のコレクション展です。そして、それぞれ小さなテーマが立てられた全13室のつながりによって、19世紀末から今日に至る日本の近現代美術の流れをたどることができる国内随一の展示です。 今期の見どころ紹介です。4階5室の「シュルレアリスム100年」では、20世紀芸術における最大の動向を、国内外の作品でたどります。3階10室では、前期は春の花を描いた作品を集めた「春まつり」、後期は細密描写によって見えるものの先に迫った日本画家の作品を展示します。2階ギャラリー4の「フェミニズムと映像表現」では、ジェンダーによって生じる不均衡を描き出す女性のアーティストの映像作品をご紹介します。 今期も盛りだくさんのMOMATコレクション、どうぞお楽しみください。  今会期に展示される重要文化財指定作品 今会期に展示される重要文化財指定作品は以下の通りです。 1室 原田直次郎《騎龍観音》1890年、寄託作品、護国寺蔵 10室 川合玉堂《行く春》1916年(展示期間:2025年2月11日~4月13日) 10室 村上華岳《日高河清姫図》1919年(展示期間:2025年4月15日~6月15日) 原田直次郎《騎龍観音》1890年、寄託作品、護国寺蔵 川合玉堂《行く春》1916年(左隻) 村上華岳《日高河清姫図》1919年 展覧会について 4階 1~5室 1880s–1940s 明治の中ごろから昭和のはじめまで 「眺めのよい部屋」 美術館の最上階に位置する休憩スペースには、椅子デザインの名品にかぞえられるベルトイア・チェアを設置しています。明るい窓辺で、ぜひゆったりとおくつろぎください。大きな窓からは、皇居の緑や丸の内のビル群のパノラマ・ビューをお楽しみいただけます。 「情報コーナー」 導入部にある情報コーナーには、MOMATの歴史を振り返る年表と関連資料を展示しています。関連資料も随時展示替えしていますのでお見逃しなく。作品貸出中の他館の展覧会のお知らせや、所蔵作品検索システムも提供しています。 1室 ハイライト ナターリア・ゴンチャローヴァ《スペイン女》1916–20年 3000㎡に200点以上が並ぶ、所蔵作品展「MOMATコレクション」。「ハイライト」では近現代美術を代表する作品を揃え、当館のコレクションの魅力をぎゅっと凝縮してご紹介しています。日本画のコーナーでは、前期(2月11日~4月13日)は、小林古径や土田麦僊、鈴木主子らによる、春の訪れを感じさせる作品が並びます。後期(4月15日~6月15日)は、新緑の季節にぴったりの川端龍子の作品がみなさまをお迎えします。ところで今回並ぶ日本画は、着物の模様やパターン化された植物など、装飾的なものが多いのですが、油彩画も、具象的なモチーフが装飾的に描かれた作品や、装飾的なエレメントが抽象へと展開した作品を集めてみました。隣に並んだ作品どうしのつながりや違いにも注目しながら、ハイライトをご堪能ください。 2室 風景の発見 織田一磨《憂鬱の谷》1909年 当館は昨年度、織田一磨の水彩画6点をご寄贈いただきました。そのお披露目にあわせ、2室では主に明治後期の風景画を紹介します。従来の日本では、風景画といえば山水画や名所絵など、観念的・様式的なイメージに従った表現が主流でした。しかし明治期に入ると、西洋画法や紀行文の普及とともに実景をありのままに捉える近代的な自然観が定着し、画家は自らの足で名もなき風景を「発見」していくようになります。そうしたなかで、大下藤次郎による水彩画の入門書『水彩画之栞』(1901年)がベストセラーになるなど、この時代には水彩画が大衆も巻き込んだ一大ブームを迎えました。また日本画においても、実景に取材した現実味のある風景が描かれはじめました。都市を描いた版画で知られる織田も、先達の影響を受けて初期には水彩画を手掛けています。東京各所の自然風景を中心に取り上げつつも、《高田の馬場附近》などの作品からはその後の版画にも繋がる都市風景への関心が垣間見えます。 3室 抒情と頽廃 有馬さとえ(三斗枝)《赤い扇》1925年 大正のはじめに京都から東京に移った画家の秦テルヲは、日記の中で、親しい友であった戸張孤雁について次のように綴っています。「自分が初めて東上して作品を発表した時に観に来た時にフト談笑し合って ソレ以来、ローマンチックな彼男(戸張)とデカダンな自分(秦)とが不思議にも親しみ合った」。ここに記されたロマン(抒情)とデカダン(頽廃)は、彼らが生きた大正という時代そのものを覆っていたムードでした。そんな彼らがともに愛したのが浅草という町です。当時の浅草には、浅草十二階と呼ばれた展望塔「凌雲閣」の下に、芝居小屋や曲芸小屋、劇場、映画館が立ち並び、東京随一の繁華街として賑わっていました。画家たちは、この町の周縁に生きる人々に共感を寄せ、その姿を描き出しています。やがて、関東大震災により凌雲閣は倒壊し、新たな娯楽街となった銀座や新宿へと人は流れてゆきました。ここでは、東京の盛り場の移ろいを示すとともに、大正期の抒情と頽廃を伝える作品を展示します。 4室 モダニズムのかたち―1920~30年代の立体作品 陽咸二《或る休職将軍の顔》1929年 第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発まで、日本では大正後期から昭和初期にあたる1920~30年代は、旧来からあった美の枠組みにとらわれない様々な表現が追求された時代です。彫刻分野では、感情や生命感を表出するような表現やロダンの影響から離れ、大胆なデフォルメ(対象を変形して表現すること)や形体の単純化を伴う作品が現れました。また、この時代は、大阪、東京などに適用された都市計画法が1920年に施行され、1923年の関東大震災後の復興も手伝って、急速に都市化が進み、生活面にも西洋化が浸透し、文化の大衆化も進みます。都市のモダンな文化と連動して、建築、工芸、デザインなどとも接点を持つ、多様な造形も生まれました。「彫刻の社会化」をスローガンに掲げて、実用を視野に入れた応用彫刻への取り組みに力を注いだ「構造社」で活動した、陽咸二や荻島安二の作品に、その一端を見ることができます。 5室 シュルレアリスム100年 北脇昇《独活》1937年 2024年はフランスの詩人アンドレ・ブルトン(1896–1966)が『シュルレアリスム宣言』を発表してからちょうど100年を迎える節目の年にあたります。日本では「超現実主義」と翻訳されることもあるシュルレアリスムは、理性を排し、非合理的なものや無意識の領域の可能性を探求した20世紀最大の芸術運動です。第一次世界大戦の最中に生まれたダダを経て、パリを拠点として国際的に広まったシュルレアリスムは、長年にわたって様々な芸術に影響を与えました。日本では、批評家・詩人の瀧口修造(1903–1979)や洋画家の福沢一郎(1898–1992)らを通して、初期の頃からシュルレアリスムの動向が伝えられました。また、第二次世界大戦下、ナチス・ドイツによる迫害を受けたシュルレアリストの一部メンバーはアメリカに亡命し、同地で活動を続け、戦後アメリカの美術に影響を与えたと言われています。ここでは、シュルレアリスムの代表的な作家として知られるマックス・エルンスト(1891–1976)や、イヴ・タンギー(1900–1955)の作品を起点に、日本やアメリカへと広まったシュルレアリスムの展開を作品や資料を通してご紹介します。 3階 6~8室 1940s–1960s 昭和のはじめから中ごろまで9室  写真・映像10室 日本画建物を思う部屋(ソル・ルウィット《ウォールドローイング#769》) 6室 「相手」がいる 宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》1942年(無期限貸与) 戦争。そこには常に相手がいます。戦時下において、人は敵対する国の人々をどのように捉えているのでしょうか。第二次世界大戦中、日本の画家たちは戦意高揚に貢献する絵画を制作し、展覧会に出品しました。当館が保管する戦争記録画において、敵の姿は不在であることが多く、主として戦地で戦う日本軍兵士の勇姿が描かれています。このようなイメージは、傷つき、苦しむ敵の身体を不可視化する効果を持っています。一方で、戦争記録画の中では珍しい表現ですが、アメリカやイギリス、オランダなど、連合国の軍人を描いた作例もあります。画家たちは、戦中の日本が敵対していた「欧米列強」の敗北の場面を描くことで、日本軍の優勢を示そうとしました。この部屋に展示されている作品の構図や人物描写、塗り分けには、主題に合わせて両者を描き分けようとする画家の作為が見え隠れしています。日本軍の残虐行為や迫害、捕虜に対する非人道的な扱いは、のちに極東軍事国際裁判(東京裁判)やBC級戦犯裁判などで、戦争犯罪として裁かれました。今日的な視点から見ると不適切な表現も含まれますが、戦時下の日本人画家による連合国軍の描き方を示す作品として展示しています。 7室 清宮質文 清宮質文《九月の海辺》1970年 戦後日本を代表する木版画家・清宮質文(せいみや・なおぶみ)は、1950年代より木版画の制作に取り組みました。戦後の復興を経て、高度経済成長期の日本では新しい技法などを用いた実験的な版表現が主流になっていきますが、清宮はそのような美術動向と距離を置き、透明感あふれる繊細な木版を追求しました。清宮にとって、版画は複製を前提とした芸術ではありませんでした。色調や摺りの加減を1点ずつ緻密に調整して制作された作品からは、精魂をこめて版を重ねる清宮の息遣いすら伝わってくるようです。その詩情豊かで内省的なイメージは、多くの人々を魅了し続けています。この部屋では、昨年度新たに収蔵した清宮の1970年代の代表作のほかに、同世代の版画家として深い親交を結んだ駒井哲郎、清宮を高く評価した岡鹿之助、長年交流のあった脇田和、野見山暁治の作品を紹介します。清宮が大きな影響を受けたパウル・クレー、ベン・ニコルソン、恩地孝四郎の名品と合わせてお楽しみください。 8室 反復がもたらすもの 李禹煥《点より》1977年 7室からこちらに移動する前に、「建物を思う部屋」のソル・ルウィット《ウォール・ドローイング#769》(1994年)はご覧いただけたでしょうか? ミニマル・ミュージックを思わせるような、図形の反復とずれによって生み出されるリズムが特徴的な作品です。本作から繋げる形で、8室では反復の構造を持つ1960~70年代の作品を紹介します。この時期、イメージを表現するという従来の絵画の枠組みを問い直すように、同一パターンの反復で画面全体を構成する作品が登場しました。システマティックな反復が無機質な印象をもたらす一方で、そこに生じるわずかなずれや差異に目を凝らしてみると、反復的な行為を重ねる作家の身体性が浮かび上がってきます。版画では、もとは商業的な技術であったシルクスクリーンを利用して同一のイメージを反復させる表現が生まれました。私たちが対象を認識するプロセスそのものを掘り下げるこれらの作品は、情報化社会においてイメージが氾濫する状況とも密接に呼応しています。 9室(前期:2025年2月11日~4月13日)須田一政「風姿花伝」 須田一政《「風姿花伝」より 神奈川・三浦三崎 》1975年(展示期間:2025年2月11日~4月13日) 「風姿花伝」は、『カメラ毎日』誌に1975年12月号から77年12月号まで、8回にわたって不定期連載された連作です。78年には写真集にまとめられました。連載中の76年に日本写真協会賞新人賞を受賞するなど、須田一政の評価を確立した作品として知られます。作品全体を通じて眼を引く伝統的な祭礼の光景は、関東周辺から北陸、東北まで、日本各地で撮影されています。つまりこれらは旅の写真でもあるのです。旅も祭礼も、非日常的な時間であり空間です。だとすれば「風姿花伝」の作品世界とは、非日常的な時空と言えるのでしょうか。ところが、写真家自身は初期から一貫して、「日常」を撮っていると言うのです。「わたしにとって緊張感のある光景は、なんの変哲もない日々の中に転がっている」(写真集『人間の記憶』)のであり、むしろ旅先であっても、近所であっても、同じように反応してしまう何かを探し続け、シャッターを切っているのだと。表題の「風姿花伝」は、15世紀の初頭、世阿弥が記した能の理論書から採られています。 9室(後期:2025年4月15日~6月15日)渡辺兼人「既視の街」 渡辺兼人《「既視の街」より[9]》1980年(展示期間:2025年4月15日~6月15日) 「既視の街」は1980年、金井美恵子の小説と渡辺兼人の写真によって構成された同題の書籍において発表されました。翌年、渡辺は本作による個展を開催し、木村伊兵衛写真賞を受賞します。主に東京とその近郊で撮影された本作において、渡辺は、それまでの作品での演出を含む表現から離れ、静かで淡々とした即物的な描写に徹しています。にもかかわらず、そこに現れた都市光景はどこか謎めいて見えます。木村伊兵衛賞の審査員の一人、小説家の安部公房は「どの光景も奇妙に過充電されていて、近づけた眼球に放電の火花が刺さってくる感じだ。日常を見る生理はさりげなく日常的に維持したまま、反日常が滲み出す亀裂や穴を確実にとらえている」と評しています。そもそもタイトルも謎めいています。「既視」とは作者自身が「既に視た」ということなのか、それともどこにレンズを向けようとも、そこは誰かが「既に視た」光景だということなのか。この連作において、渡辺は19世紀末から20世紀初頭のパリの街を撮り続けたウジェーヌ・アジェの仕事を意識していたと語っています。 10室(前期:2025年2月11日~4月13日)アルプのアトリエ/春まつり ジャン(ハンス)・アルプ《新芽あるいは果実》1961–64年頃(原型:1961年)撮影:Rüdiger Lubricht, Worpswede ©Stiftung Jean Arp und Sophie Taeuber-Arp e.V. 川合玉堂《行く春》1916年(左隻)、重要文化財(展示期間:2025年2月11日~4月13日) 手前のコーナーでは、ジャン(ハンス)・アルプ(1886–1966)の彫刻制作過程でつくられた石膏複製をご紹介します。フランスのストラスブールに生まれ、20世紀初頭からパリやスイスで活動したアルプは、抽象と具象を往還する有機的なフォルムの彫刻で知られます。ここでは、アルプにとって新たな造形を発見するための重要な素材であった石膏を通して、彫刻のフォルムがどのように移り変わっていったのかをご紹介します。奥の部屋では、恒例の「美術館の春まつり」に時期を合わせ、花を描いた作品を集めました。剣持勇のラタン・スツールや清家清の移動式畳に腰かけて、ゆっくりと春をお楽しみいただく趣向です。定番となっている川合玉堂の《行く春》(重要文化財)に描かれた、水辺の桜が散りいそぐ風情は、ここから歩いて行ける千鳥ヶ淵とも通じ合うところです。また、美術館前の道沿いに咲くさまざまな桜は、跡見玉枝が《桜花図巻》に描いた40種を超える桜のなかに見つかるかもしれません。 10室(後期:2025年4月15日~6月15日)アルプのアトリエ/見えるもの、その先に ジャン(ハンス)・アルプ《鳥の骨格》1968–74年頃(原型:1947/1965年)撮影:Rüdiger Lubricht, Worpswede ©Stiftung Jean Arp und Sophie Taeuber-Arp e.V. 速水御舟《渓泉二図》1921年(左幅)(展示期間:2025年4月15日~6月15日) 手前のコーナーでは、ジャン(ハンス)・アルプ(1886–1966)の彫刻制作過程でつくられた石膏複製を紹介します。フランスのストラスブールに生まれ、20世紀初頭からパリやスイスで活動したアルプは、抽象と具象を往還する有機的なフォルムの彫刻で知られます。ここでは、アルプにとって新たな造形を発見するための重要な素材であった石膏を通して、彫刻のフォルムがどのように移り変わっていったのかを紹介します。奥のガラスケースのコーナーでは、コレクションのなかから、速水御舟、村上華岳、徳岡神泉の三人の日本画家の作品を中心に紹介しています。三人の共通点は、大正時代の一時期に細密に描く写実表現に取り組んだことです。かれらは、現実そのもののなかに人智を超えた存在の核心をとらえようとし、細密描写を離れたのちは、別の手立てでそれを象徴しようとしました。かれらの思惑は、現実のなかに神秘をとらえようとする1910年代の思潮とも一致するようにも思えます。 2階 11~12室 1970s–2020s 昭和の終わりから今日まで 11室 (アン)バランス 遠藤利克《欲動―近代・身体》1997年 当館では2022年度に、遠藤利克《欲動―近代・身体》の修復を行いました。その報告を兼ねて、水を使用するというこの作品の特徴にちなんだ所蔵品を紹介します。美術館内で水や食べ物がご法度なのは、万一カビや虫が発生すれば作品の保存に支障をきたすためです。持続的な安定のために、美術館は不安定な要素を取り除くのです。その一方で、たゆたう自然や、水のように変化する流体は、いつの時代も美術家たちのインスピレーション源となってきました。そして、静止しながらも不安定な動きを作品内に導くというチャレンジに取り組むアーティストは少なくありません。この部屋に集めたのは、そうした企図の顕著な作品です。台座からずり落ちるような動きを鉄に演じさせるアンソニー・カロ、絵具のにじみを活かすイケムラレイコや丸山直文、そして水そのものを素材とする遠藤利克。不安定なものの追求は、原則として安定したものしか扱えない美術館の制度を、ときに試すことにもなります。 12室 美術家たちのダークツーリズム 太郎千恵蔵《少年》1998年 1990年代以降の作品を集めてみました。特に90年代の美術作品を眺めてみると、戦争を中心として社会的な暗部を描き出した作品が多々あることに気づきます。この時期、社会を揺るがす重大な事象が立て続けに起こりました。ベルリンの壁崩壊(89年)、湾岸戦争の勃発とソ連崩壊(91年)、そしてインターネットの本格的普及。日本国内では昭和から平成への改元(89年)、バブルの崩壊や、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件(95年)などが思い浮かびます。ダークなテーマに対する美術家たちの共通した関心は、世間を覆う一種の終末観を敏感に察知した現れであったといえるでしょう。ただしそれは必ずしも悲観的な視点ではなく、当時流行した「ポストモダン」の語が示す通り、直線的な進歩を念頭にした近代的歴史観を克服するチャンスであるという期待もはらんでいました。玩具やアニメーションを大胆に反映した表現で、国際舞台に躍り出る日本人作家たちが続々と登場し始めたのもこの頃です。 開催概要 東京国立近代美術館所蔵品ギャラリー(4~2階) 2025年2月11日(火・祝)~6月15日(日) 月曜日(ただし2月24日、3月31日、5月5日は開館)、2月25日、5月7日 10:00–17:00(金・土曜は10:00–20:00) 入館は閉館30分前まで 一般 500円 (400円) 大学生 250円 (200円) ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込み。 5時から割引(金・土曜) :一般 300円 大学生 150円 高校生以下および18歳未満、65歳以上、「MOMATパスポート」をお持ちの方、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。入館の際に、学生証、運転免許証等の年齢の分かるもの、障害者手帳等をご提示ください。 キャンパスメンバーズ加入校の学生・教職員は学生証または教職員証の提示でご観覧いただけます。 「友の会MOMATサポーターズ」、「賛助会MOMATメンバーズ」会員の方は、会員証のご提示でご観覧いただけます。 「MOMAT支援サークル」のパートナー企業の皆様は、社員証のご提示でご観覧いただけます。(同伴者1名まで。シルバー会員は本人のみ) 本展の観覧料で入館当日に限り、フェミニズムと映像表現(ギャラリー4)もご覧いただけます。 5月18日(国際博物館の日) 東京国立近代美術館

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令和6年度 インターンシップ生のことば

A 学芸・コレクション Eさん このインターンに応募した動機として、元々自分の所属大学に設置されている作品資料の管理施設でのアルバイトの経験があり、そのような資料整理・作品保存といった学芸員の業務に関心があったこと、そして東京国立近代美術館の豊富な所蔵作品がどのように管理・運営されているのか実践的に学びたいと考えたことです。 業務では、最初に作品シートの記入や書類整理、倉庫内の清掃など、日常のルーティンワークを経験しました。こうした日々の業務を経験することで、細かな日々の作業が美術館の運営を支える重要な役割を果たしていることを実感しました。 また、コレクション展の展示替えにも関わらせていただきました。単に作品を入れ替えるだけでなく、作品の水平さを細かく確認したり、展示室のライティングを微細に調整するなど、展示には細やかな作業が求められることを実践的に学べました。展示はただ並べるだけではなく、作品を最適な状態で見せるための工夫が細部まで行われていることを実感しました。作品を直接触る機会はそこまでありませんでしたが、それでも一部の作品の梱包を実際に行わせていただきました。 この経験を通じて、美術館での仕事に対する理解が深まり、自分のキャリアビジョンもより明確になりました。この1年間、学芸員の業務という大変貴重な経験をさせていただき、本当にありがとうございました。 A 学芸・コレクション Nさん 前年度にインターンをしていた美術館は所蔵作品を持たない館であり、所蔵作品の保存や活用といった美術館業務を学びたいと考えたことからコレクション部門のインターンへ応募しました。活動を通して、美術館におけるコレクションの扱い方やそれに伴う作業の内実、美術館の活動継続のために求められる視点などを学ぶことができたと振り返ります。 所蔵作品展の準備や展示替えの際はもちろん、作品の貸出・返却時や収蔵庫の整理の際にも美術館が作品という「もの」を扱う場所であることを改めて感じさせられました。作品の大きさや重さ、素材や状態によって常に様々な対応が要求されており、今まで具体的にイメージできていなかった、作品を扱うことの特徴を知りました。 また、学芸員の方々からご自身の経験を踏まえた様々なお話を伺うことができたことも貴重な時間で、自分はどのような学芸員になりたいかということを考えさせられる経験でした。さらに、美術館で働く際には研究や論文だけではなく、作品の扱い方や自分の眼と身体感覚に基づいた心地よい展示の実現といった、現場での経験でしか身に付けることのできない力も求められると実感しました。このインターンシップへの参加が私の学芸員を志す意志を一層強いものにしたことは間違いありません。お忙しい中でこのような機会を提供してくださった研究員の方々に改めて感謝申し上げます。 B 学芸・コレクション Yさん 2024年度、学芸・コレクション、写真室のインターンとして活動させていただきました。インターン活動に志望した動機として、写真に絞ったインターンは全国的に見てもなかなか得ることが出来ない機会であることに加え、そのような中で、13,000点以上の様々なジャンルの作品を収蔵する国立美術館という場所で、写真というメディアがどのように保存、管理され、活用されているかについて学びたいと考えた経緯がありました。 写真室での活動では、プリントスタディの準備や当日の補助(見学)、貸出作品および返却作品の点検、展覧会出展作品の額装と展示を終えた作品の片付け、作品を管理する作品カードの記入等々、様々な業務に関わらせていただきました。プリントを直接扱う作業は緊張しましたが、間近で見るプリントの美しさや、担当研究員の方から、作品の来歴や特徴などを作業の合間に教えていただいたことは強く印象に残っています。また、写真室の活動だけでなく、美術課全体の会議やコレクション展の展示替えの作業にも参加させていただき、研究員の皆さまが、日々どのようなことを目指し活動され、また研究をされているのか、間近で見ることが出来たことは何事にも変え難い経験でした。インターンの活動という非常に短い時間の中ではありましたが、多くの情報と経験をいただいたと感じております。このような貴重な機会をいただきましたこと、東京国立近代美術館の皆さまに改めて感謝申し上げます。一年間、ありがとうございました。 B 学芸・企画展 Kさん 美術鑑賞、美術展示作りおよび研究成果の展示による公開方法について実践的に学びたいと思い、本インターンシップに参加しました。 今年度に開幕した3つの展覧会を中心に、様々な経験をさせて頂きました。企画・広報に関する会議や展示作業の現場見学に加え、資料スキャニング、年譜まとめ、図面作成等の作業を通して、バックヤードでの仕事に実際に関わることができました。企画展示部門以外にも、美術館教育部門のイベント補助および学芸・コレクション部門の収蔵品作業見学を通して、美術館の全般的な活動について多面的に学ぶことができました。 企画展示部門の課題では、自身の展示を立案し、企画書・作品リスト・図面を作成しました。難しい課題でありながら、自身の興味あるテーマを深掘りする機会となり、中間および最終発表で学芸員の方々から貴重な指摘やコメントを頂きました。そのフィードバックのおかげで、選択したテーマを新しい観点から見ることができ、展示企画に関して深く勉強できました。 この一年間、東近美の学芸員および職員の皆様には丁寧かつ優しくご指導頂きました。皆様との交流を通じ、教室では得られない多くのことを学びました。美術館・博物館に関する知識および観点を大きく成長させることができ、学芸員を目指す私にとって非常に貴重な経験でした。心よりお礼申し上げます。 C 美術館教育 Iさん 1年間を通して、前半は主にボランティアであるガイドスタッフによる一般向けの所蔵品ガイド(対話鑑賞)や小中高の生徒が対話鑑賞を体験する学校受け入れプログラム、こども向けのイベント「こどもまっと」の見学・補助といった東近美の教育普及活動を学びました。対話鑑賞の見学では、参加者の自由な意見を聞きながら鑑賞することで作品がそれまでと全く違う姿で見えてくる体験に恵まれました。「こどもまっと」で関わったこどもと美術館の建物を探検する「MOMATまるごと探検隊」では、こどもの行動力・観察力において想像以上の感性豊かさに驚かされました。 対話鑑賞の準備に必要な資料を整理する作業にも携わり、ガイドスタッフがこれまで扱った作家や作品に関する資料を蓄積した作家ファイルは今後のガイドに役立つ重要なツールであることを学びました。 定期的に行われるガイドスタッフの例会やフォローアップ研修にも参加し、教育普及室との円滑な連携やガイドのスキルアップが図られていることを知りました。 後半では、前半に学んだことを活かし、一般向けの対話鑑賞の実践に取り組みました。サポートを受けながら、作品観察、作家ファイルを利用した作品知識の習得、流れを想定したプランに沿った実践練習を積み重ねて準備しました。実践を通じて、自由な対話を目的とした鑑賞の裏では綿密な準備が必要であること、鑑賞者の深い対話を促すための問いの投げ方の難しさを実感しました。 教育普及活動って何?からスタートしたインターン活動でしたが、様々なプログラムを体験させていただき、社会と美術館をつなぐひとつの架け橋となっていることを学びました。教育普及室をはじめとする職員の皆様、貴重な経験ありがとうございました。

第一ネオポップ時代——「美術家たちのダークツーリズム」によせて

ネオポップとは何か? ハル・フォスターは『第一ポップ時代』1においてリチャード・ハミルトンを例にあげながら、ポップは直感的に写真やテレビと絵画をひとつに折り重ねることによって現代の主題を前景化しつつ芸術の伝統を喚起させると言っている。抽象と表象のカテゴリーを合体させ、両方を壊乱させることによってイメージと主体にかかっていた力を逆照射する。ポップはポップなイメージで絵画に圧力をかけながらタブローという伝統を振り返る。それはボードレールの言う「一時的なものから永遠になるものを抽出」2することだ。 ドゥルーズは『シネマ』においてベルクソン的イメージを「出来事」という物にも認識にも回収されない場への提示として捉え、瞬時に消えてしまう「出来事」を、映画はその非継続性の連続性において「見えるもの」へと救いだし、「出来事」を可視化することで保存するという。当時私はドゥルーズの『シネマ』への返答としての(ゴダールの『映画史』のような)絵画を構想した3。 図1 太郎千恵藏《戦争(ピンクは血の色)》1996年、東京国立近代美術館蔵 30年たった現在からみると、ネオポップを「出来事」の「記録」として捉えなおしてみることができるだろう。ベルリンの壁の崩壊、湾岸戦争、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などを経た90年代初頭、戦後復興によってやっと経済大国になったのも束の間バブル崩壊、といった冷戦の終わったあとの断片化された戦争の連鎖。ターナーの絵画の上にロボットとレンジャーをモンタージュした《戦争(ピンクは血の色)》[図1]は、マンガや特撮をターナーにモンタージュすることで虚構的現実を再構成し90年代という時代を前景化させた。 戦前の前衛運動マヴォには後に田河水泡になる高見澤路直や柳瀬正夢が、アクションには白土三平の父である岡本唐貴がいた。前衛美術家が戦前戦中を経て漫画と戦争画とプロレタリア美術に分かれ、それが戦後マンガの繁栄をもたらした。前衛美術と戦後マンガは連続性のなかにある。第一ポップ世代のリキテンスタインはインタビューで「ぼくの作品がキュビスムとリンクするのはマンガがキュビスムとリンクしているのと同じです」4と言っている。 1989年表参道の東高現代美術館でのジグマー・ポルケの大作が展示された展覧会5のオープニングのあと、歩いてすぐの私の実家を友人といっしょに小山登美夫が訪れた。私がムーミン型のグミを絵画に付けた作品を見せたところ、その場でその作品を買ってくれた。そのとき、小山がこの作品と偶然にも同じ発想で作品を作っている作家がいるから今度会わせると言って、後日会ったのが兵隊のフィギュアを樹脂に貼っていた(《ポリリズム》)同じ年の村上隆だった。それから3人で意気投合して芸術のこと映画のことマンガのことを毎日のように話し、新しい芸術の流れを作ろうと言った。以前は私と村上隆はアシスタントを共有する関係でもあり、彼のランドセルの作品のカラフルな色は、小山と3人で食事をしているときの「ジャスパー・ジョーンズの色彩にすべき」という私の発言が元になった。 図2 会場風景(左手前が村上隆《ポリリズム》1991年)|撮影:柳場大 91年にソーホーのギャラリーでデニス・オッペンハイムらと「見えない身体」展をおこない、92年からヨーロッパの5美術館でマイク・ケリー、ゴンザレス=トレス、ロバート・ゴーバーらと「ポストヒューマン」展に参加し、モーターというメディウムを使うポール・マッカーシーとマシュー・バーニーといっしょにモーターチームとして美術館をツアーした。93年にニューヨークのサンドラ・ゲーリングギャラリーでドレスの彫刻のインスタレーションによる個展を開催する。93年ケルンでの私の展覧会を訪ねて来た奈良美智を小山に紹介した。私は参加しなかったが94年のグッゲンハイム・ソーホーでの戦後日本美術の展覧会のあとで中原浩大と2人で飲んだのもいい思い出だ。 96年春に佐賀町の食糧ビルで小山登美夫ギャラリーのこけら落としとなる私の個展で、ターナーの《国会議事堂の火事》の上にウルトラヒーローをモンタージュした《経済の法則》を展示した。個展を見に来た中西夏之と意見を交わしたとき、中西は自分たちは「絵画は重力を感じさせてはいけないと言われてきた」と、私のペインタリーな垂らしについて語り、それに対し私は「キーファーも垂らしています」と答えた。その後ニューヨークのアトリエに杉戸洋が来たときにも垂らしへの違和感を指摘していた。私の絵画において、マンガや特撮の現代のポップなイメージと美術史的絵画を一体化するのにペインタリーであることは必要不可欠な要素だ。それによってストイキツァの『絵画の自意識』で書かれている美術史の流れの上に日本のネオポップの第一世代として「記録」を残せたのだ。 東京での個展のあと《戦争(ピンクは血の色)》をニューヨークで制作しサンドラ・ゲーリングギャラリーでの秋の個展に展示した。96年はみんなで「ヒニクなファンタジー」(宮城県美術館)などの展覧会を日本の美術館で複数おこない、食糧ビルのギャラリーで秋に村上隆は個展をし、奈良美智が翌年に個展を開催した。これが日本の「第一ネオポップ時代」であった。 註 1 ハル・フォスター、中野勉訳『第一ポップ時代』河出書房新社、2014年 2 シャルル・ボードレール、阿部良雄訳「現代生活の画家」『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、1999年、168頁 3 この論考は福尾匠『非美学—ジル・ドゥルーズの言葉と物』(河出書房新社、2024年)に多くを負っている。ぜひ原著に触れてほしい。25年前の拙文「イマージュの論理学」(『ユリイカ』2001年10月号)でもドゥルーズとベルクソンのイメージ論を語っている。 4 ハル・フォスター『第一ポップ時代』125頁 5 アムステルダム・ステデリック美術館コレクション展 『現代の眼』640号

かたちをみつめる 

1923年の関東大震災とその後の「帝都復興」を契機として急速に拡大した文化の大衆化は、当然ながら同時代の美術界にも多大な影響を及ぼした。当時の美術家たちの多くは建築や工芸の分野にも参入し、新しい時代に即したかたちを模索した。所蔵作品展MOMATコレクションの4室での展示「モダニズムのかたち—1920~30年代の立体作品」はこの時代に活躍した4作家14作品によって構成されている。会場に掲げられた解説では「感情や生命感を表出するような表現やロダンの影響から離れ、大胆なデフォルメ(対象を変形して表現すること)や形体の単純化を伴う作品」をもってこの時代の彫刻(立体)作品の傾向を示すとしている。  図1 会場風景(左奥から仲田定之助《首》《女の首》、陽咸二《或る休職将軍の顔》)|撮影:大谷一郎  各地の美術館では企画展、コレクション展を問わず、当該の美術作品と関連資料(書籍や新聞・雑誌メディアに掲載されたイメージやテキストなど)を並置する展示が目立ってきているが、まさにその最たる例が近年の東京国立近代美術館の所蔵作品展であろう。だが、今回はこの路線とは明らかに異なる。ゆとりをもったスペースで作品のみを陳列し、テーマを直截的に表現した簡素な空間づくりがなされている[図1]。 会場に入るとすぐ仲田定之助《首》《女の首》(ともに1924年)と陽咸二《或る休職将軍の顔》(1929年)[図2]が並ぶ。各パーツをデフォルメしたうえで、記号や数字の形象も織り交ぜながら再構成された仲田の頭像は、現在では我が国における抽象彫刻の先駆と位置づけられている。一方、陽作品は、老翁の彫り深い目や口元がとりわけ印象的である。長年にわたり刻まれた皺と相まって、あたかも人生の機微や悲喜交々を感じずにはいられない。しかしながら、全体の造形そのものは極端なデフォルメはなされず、キュビスム的な形態の再構成の形跡も認められない。陽の頭像についてはこれまで仲田作品の系譜に属するとみなされてきたが、個人的には、今回の比較展示をきっかけに本作に対する新たな位置づけの必要性を強く感じた。  図2 陽咸二《或る休職将軍の顔》1929年、東京国立近代美術館蔵 仲田以外は1926年に結成された彫刻を主とした公募美術団体「構造社」につどった作家たちである。かれらの多くは彫刻だけでなく、実用的な工芸品や趣味性の高い絵画も手がけた。この方面についてはとくに陽が目立っていたが、今回展示されている妖艶な女性像を象った灰皿やメダルを手がけた荻島安二のユニークな存在感も際立つ。しかしながら、活動期間が短く、彫刻制作に加えマネキン原型や店舗設計に至るまで幅広いジャンルで活躍しているため、その詳細はいまだ不明である。荻島作品の最多の所蔵館である当館には今後のさらなる調査研究を期待したい。  最後に陽咸二《扉(透かし彫り)》(1930年)についてふれたい。構造社は「建築と彫刻の調和」を観覧者に提示する目的で、「綜合試作」と題して大規模な仮設構造物を設営し、展示の目玉にした。本作は第4回展の綜合試作「記念碑 運動時代」[図3]のうちの1点であり、会場中央に設置されたモニュメント塔の下部に嵌め込むかたちで陳列された。   図3 構造社第4回展綜合試作「記念碑 運動時代」1930年  さて、スポーツをモチーフにした躍動感のある本作の魅力を十分引き出すには、透かし彫りが映えるように「直立」での展示が理想的であろう。しかし本作は経年した石膏作品であるため、今回は傾斜台での展示にとどまった。現在、彫刻といえば一般的にブロンズなどの鋳物がまず頭に浮かぶが、この時代は石膏型しか伝わらないことも多い。費用の問題から当時の展覧会では、石膏型を着色しブロンズに模したかたちで出品し、これをきっかけに注文につなげ鋳造に至るというケースが少なからずあった。この歴史的背景の重要性もさることながら、石膏型は鋳物に比べて作家の塑造の手さばきをより忠実に留めている点において間違いなく後世に伝えるべき貴重な一次資料であるといえる。  かつて筆者が所属館で担当した企画展「陽咸二展 混ざりあうカタチ」(2023年)では綜合試作のスケール感をそのまま伝えるべく、2メートルを超える高さの柱像などの大型の石膏作品も展示したが、じっさいの取り扱いにはかなり苦心した。収蔵庫での保管とはいえ、近い将来には相応の不可逆的な劣化も懸念される。本作に限らずこの時代の石膏作品の保存・活用については、近年発達がすすむ3Dスキャンを活用したデジタルアーカイブ整備などを視野に入れた対策が急務であると考える。 『現代の眼』640号

荻原守衛《坑夫》のオブジェクトVRコンテンツ公開

このたび当館では、日本文教出版株式会社と日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社との共同で、「オブジェクトVRコンテンツ」を制作いたしました。 荻原守衛《坑夫》(1907年)を水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアーです。 ぐるぐる回したりぐっと近寄ったりしながら、美術館の外でも作品をじっくりお楽しみください。  *高精細データのため表示されるまで時間がかかる場合がございます。

高村光太郎《手》のオブジェクトVRコンテンツ公開

このたび当館では、日本文教出版株式会社と日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社との共同で、「オブジェクトVRコンテンツ」を制作いたしました。高村光太郎《手》(1918年頃)を水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアーです。ぐるぐる回したりぐっと近寄ったりしながら、美術館の外でも作品をじっくりお楽しみください。 *高精細データのため表示されるまで時間がかかる場合がございます。

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