見る・聞く・読む

現代の眼 MOMATコレクション 東近美の門をくぐるのはだれか──イサム・ノグチ《門》について

成相肇 (美術課主任研究員)

戻る

2022年12月、当館のシンボルであるイサム・ノグチ《門》(1969年)が新しく塗り変わった。高さ10.5m、イサム・ノグチ(1904-88)の屋外彫刻としては世界屈指のサイズを誇る本作だが、幾何学形と明快な色彩という工業的な特徴のためか、あるいは美術館の入口から離れた位置のためか、残念ながら作品としてじっくり鑑賞されているとはいい難いようだ。この機会に、当館の歴史においても重要な本作にまつわる基礎的な──入門用の──情報をまとめて紹介したい。

《門》は、当館が開館した京橋から竹橋への移転開館(1969年6月11日)にあたって設置された。同時にこの作品は、こけら落とし「現代世界美術展:東と西の対話」(1969年6月12日〜8月17日)の出品作のひとつでもあった。この竹橋の美術館の設計者であり、ノグチと同い年で旧知の仲の谷口吉郎(1904-79)からの依頼だったとされる。谷口の言葉を引こう。

[…]情感は簡潔。近代美術館の存在をそれが示している。/この彫刻は設計図によって工場で生産されたものである。従って彫刻というより建築の一部といえよう。しかし新しい彫刻の出現である。彼の制作活動はこんな新しいデザイン彫刻にまで発展している。/このように彼の彫刻は工程に於ても建築と密着するものとなった1

《門》は谷口との共同作業による作品であり[図1 リンク先のIsamu Noguchi Archive画像参照]、白とグレーを基調とする建築のファサードに彩りを加えるとともに、横に長い建築に拮抗する縦方向のアクセントになっている2。幾何学形の彩色彫刻という点では、遊具を兼ねる《オクテトラ》(1965-69年)、ニューヨークの公共彫刻《レッドキューブ》(1968年)に連なるノグチの作例だが、《門》の工業的な性格は、じつは素材にも由来している。というのもこの作品は、資金不足のために1964年の東京オリンピック開催時に建設された高速道路用の梁を再利用している3。その意味で、《門》は当館の建築のみならず、その背後に走る高速道路とも「密着」しているのである。そして、あえて手仕事を排した発注芸術、ミニマルな形態、彩色彫刻という特徴は、1966年にニューヨークのユダヤ博物館で開催された企画展「プライマリー・ストラクチャーズ:アメリカとイギリスの若手彫刻家たち」を機に注目された動向に重なる。つまりこの作品は、当館の再出発の時代における最新鋭の美術動向を刻み込んでいるともいえる。

さて、《門》の最大の特徴は何といっても色が変わるという点だが(多作なノグチにおいておそらく唯一の例)、これには紆余曲折がある。まず色の変遷をまとめると次の表のようになる。

塗装年月備考
1969年5月設置。「現代世界美術展」6月12日〜8月17日。
1969年8月頃朱と黒『新建築』8月号、『美術手帖』8月号に写真掲載。
1975年2月 
1984年4月黄と黒来日した作家の指示を仰いで再塗装(『現代の眼』354号、1984年5月)
(1988年12月30日 イサム・ノグチ歿。)
1991年10月
(1992年3月14日〜5月10日 東京国立近代美術館にてイサム・ノグチ展開催。)
1998年-1999年綿引幸造の写真集『イサム・ノグチの世界』(ぎょうせい、1998年6月刊)には朱の状態で写る。1999年10月の工事写真では青。
(1999年10月から増改築工事のため溶断して一時的に撤去。2001年1月に溶接、再設置。)
2006年3月黄と黒 
2011年5月朱と黒2012年に開館60周年。
2022年12月開館70周年。

設置して「現代世界美術展」に朱の状態で出品されたのち、間もなく朱と黒の配色に変わったのは、ノグチが考えを改めたからとされる。この経緯の記録が残されていないが、朱一色は幻のパターンとなる(はずだった)。これはまだ塗り直し・・ともいえるのに対して、1975年の青への変更はまったくの塗り替え・・であるため重要ながら、塗装年月と作家の指示に基づくこと以外の詳細が不明。注目すべきはノグチ他界後の朱への塗り替えである。これに関しては美術館とイサム・ノグチ財団との書簡が残されている。1991年、翌春に控えたノグチ展に向けて《門》を朱に新装するという美術館からの連絡に対し、その根拠を問う財団からの返信が届く。以下がそれに対する当時の美術課長・市川政憲による返答である。

いかように再塗装するかにつきましては、あなたが希望されるドキュメンテーションはなく、わたしたちは、ノグチ氏生前の2度の塗りかえの折に、いずれも作家は、強く、色を替えることを指示した事実があります。この点を尊重し、弟のミチヨママ[註:野口ミチオ]さんにも当館の意向を伝えまして、賛同を得、色をかえることについては、ミチヨさんからもイサム氏の意向としてそのように望まれています。色をかえるについては、朱、青、黄/黒の三様を、塗装の劣化と相談しながら、再塗装の折ごとに、三様の色を順次くりかえしていくのが妥当と考えます4

これが、塗り替えの方針を初めて記録した文書と思しい。3つの彩色パターンを繰り返すことはノグチが初めから意図していたものではなく、ノグチが生きていれば別の配色があった可能性もある。さらにこの際、ノグチが朱から朱と黒に変更したことが引き継がれておらず、最初期の朱が選択されることとなった。残念ながらというべきか、80年代以前の記録は多く残されておらず、じつのところ色彩の根拠も伝聞のみである。すなわち、朱はポストの色、青は清掃車の色、黄と黒は警告色。いずれも都市にありふれた人工色に由来し、作家の意図を感じ取ることはできる。今回の青への塗り替えはこれに従って、東京都の清掃車の指定色(日本塗料工業会規格72-40T)を基にした。

塗り替え過程 2022年12月15日撮影

最後に、肝心の作品そのものについて述べておこう。

全体を概観すると、ミニマルな形態ながら、基部の接続が複雑でおもしろい[図2 リンク先のIsamu Noguchi Archive画像参照]。規格化された工業素材の単位が縦横に連続し、彫刻が形づくられていく動的な過程を見るようだ。一方で、むしろ下から見上げよという次の富山秀男による解説は興味深い。

[…]この彫刻をみるなら、美術館敷地の柵に沿って隣の公文書館よりの階段入口の方まで遠廻りし、手前の舗道からテラス上の角柱をふり返って見上げるのがいい。そのときに何が見えるか、というより何を感ずるかは一瞬わが眼を疑いたくなるほどの経験をするに違いない。/二本の長方形の角柱を切った切断面、また何より柱自体の交錯する垂直面が、頭の中で考えるような表われ方をしていないのである。そこに見るものは、量感の消去された驚くほど平板な構造体であり、逆にいえば人間の眼の錯覚を計算しつくした作家の叡知の非凡さなのだ。このことは日射しのきつい晴天の日より、曇日で角柱を彩る明暗の差があまりはっきりしていない日の方が、より効果的なことは確かである5

この解説と対になる写真が[図3]である。富山のガイドの通りに現在の《門》を見てみると、たしかに平たく感じられる。均等に光を浴びた彩色の角柱は量感を弱め、特に斜めの天面に奥行きを感じにくいことから、下から見上げているのにもかかわらず、斜め上から見下ろした直方体を見ているような不思議な錯覚を生じる。透視図というか、平面上に示された図形のように見えるのである。線的な印象の強い作品だ。彩色パターンによって形態の分節を様々に楽しめる作品だが、一色に塗られた今回が、最も視覚的な効果を味わえるタイミングといえる。

図3:『現代の眼』242号、1975年1月、表紙

そもそも本作の題名は、なぜ「門」なのか。先の引用部の前で富山が「正月の門松の感じさながら」と書いているのは諧謔だろうが、当初の朱色が連想させるのは神社の入口たる鳥居だろう。富山が述べている通り、増改築工事の前、公文書館側(西側)にはテラスに通じる階段があった。図4のマケット写真が示すように、この作品は西側を正面に設定しており、いま私たちの多くが見ている東側の基部にノグチのサインが記されている。天皇の行幸ルートが美術館の西側からであるため、「門」とは天皇を出迎える意図を含むのかもしれない。ただ、天に向かって口を開けたノグチの野外彫刻《スカイゲート》(1976-77年)を参照するなら、《門》は柱と柱の間へと視線を誘う──眼でくぐる──作品だと解釈するのが最もふさわしいように思う。運動場や舞台装置、庭園などに関心を寄せていたノグチの彫刻思想の表われとして、この作品は彫刻でありながら非彫刻の空間を示唆し、それを抱え込んでいる。

竹橋にお越しの際は、遠くから近くから、そして東から西から、この作品をあらためてご覧いただきたい。

図4:東京国立近代美術館建築概要、1969年、表紙

  1. 谷口吉郎「イサム・ノグチとの出会い」『イサム・ノグチ彫刻展』図録、朝日新聞社、1973年、頁 数表記なし。引用中の「/」は改行を示す。以下同。
  2. 当館の建築のファサードは道路に面した南側で、(あいにく街路灯などで見えにくいが)道路を渡った側から見ると谷口建築の和風な印象がよくわかり、《門》との関係も把握できる。なお、東西線竹橋駅側の東側面にある館名の文字は、こちらから見られることが多い都合上、1974年末頃に追加されたもの。
  3. 『イサム・ノグチ生誕100年(エクスナレッジムック)』エクスナレッジ、2004年、125頁 
  4. イサム・ノグチ財団レジストラーBonnie Rychlak宛、1991年10月23日付、和文原稿
  5. 富山秀男「表紙解説」『現代の眼』242号、1975年1月、8頁

『現代の眼』637号

公開日:

Page Top