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日本画の偉才

横 山  操 展

ほとばしる黒、寂寥の赤

1999(平成11)年5月29日(土)〜 7月11日(日)
東京国立近代美術館

12月4日(土)〜 2000(平成12)年1月23日(日)
新潟県立近代美術館

東京展 開催要項

(1999年1月25日現在)

【会期】 1999(平成11)年5月29日(土)− 7月11日(日)
月曜日休館
【会場】 東京国立近代美術館
〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3-1
(地下鉄東西線竹橋駅下車、1b出口より徒歩3分)
お問い合わせ先:03-3272-8600(NTTハローダイヤル)
東京国立近代美術館ホームページhttp://www.momat.go.jp/
【開館時間】 午前10時−午後5時(入館は午後4時30分まで)
夜間開館:毎週金曜日午後8時まで(入館は午後7時30分まで)
【主催】 東京国立近代美術館、新潟県立近代美術館、毎日新聞社
【協賛】 (未定)
【観覧料】
当日 前売 団体
一般 1,250円 1,100円 900円
高校生・大学生 900円 750円 500円
小学生・中学生 400円 300円 200円
*消費税込み 団体料金は20名以上

<本展は、東京会場終了後、下記へ巡回いたします>

【会場】 新潟県立近代美術館
〒940-2021長岡市宮関町字居掛278-14
【会期】 1999(平成11)年12月4日(土)−2000(平成12)年1月23日(日)
月曜日 および年末年始(12月27日−1月3日)休館
【開館時間】 午前9時−午後5時 (入館は午後4時30分まで)

横 山 操 展

今あらためて問う、戦後日本画の異才、横山操

   第二次大戦後、日本画の世界は伝統的、因襲的な性格ゆえに批判を受け、 その存在すら否定されるほどに大きな危機を迎えました。そうしたなかで、 横山操は根底から揺さぶられた「日本画」の存在を強く確信し、それを豊かな 才能と果敢な行動力で積極的につきつめてゆくことによって、戦後の日本画 においてひときわ個性的な存在となりました。

短くも劇的な生涯

  横山操は大正9(1920)年に新潟県に生まれました。上京して昭和15(1940)年 の第12回青龍展に初入選、その後召集を受けて戦後はシベリアで抑留生活を おくりました。帰国して青龍展に復帰、《炎炎桜島》、《塔》など黒い色を 基調に豪放な筆致と大胆な構図による、現代感覚あふれる新鮮でダイナミック な作品を次々と発表しました。そして、昭和37(1962)年、青龍社脱退後は 富士を描いた連作で評判をとる一方、《瀟湘(しょうしょう)八景》、 《越路(こしじ)十景》など力強い表現のうちに繊細さを感じさせる水墨画、 叙情性豊かな武蔵野の風景などに新しい境地を開きながら、昭和48(1973)年 に53歳で亡くなりました。

ほとばしる激情、深い寂寥感

  横山操の作品にはほとばしる激情と、深い寂寥感(せきりょうかん)が混在 しています。初期の現実の社会に題材をとり、激しい筆使いをみせる作品の うちにさえ見え隠れする沈黙の世界、晩年の静寂さに満ちた作品に埋もれた 生の渇きにも似た情熱の火は、両者の間で揺れ動く画家の複雑な内面を写し てあまりあります。それは抑留生活で極限状態に置かれた人間が抱くであろう 生そのものへの深い思いとどこかで繋がっているようにもみえますが、戦後 の混乱のなかで必死に自己の存在を確かめようと闘い続けた強い意志の力は、 時代を超えて今日なお私たちの心を打つものがあります。

初期から晩年まで代表作約80点による大回顧展

 この展覧会は横山操の初期から晩年にいたる代表作約80点をあつめ、 その芸術の軌跡をたどりながら、そこに刻まれた一人の画家の魂の叫びが 戦後の日本画の展開に意味しているものを改めて探ってみようとするものです。


横山操 略年譜

1920(大正9)年 0歳 1月25日、新潟県西蒲原郡吉田町に生まれる。
操は本名。
1922(大正11)年 2歳 3月、生家の近くで薬局を経営する横山修平の養子となる。
1931(昭和6)年 11歳 教師に勧められ、油絵を始める。
1934(昭和9)年 14歳 3月、吉田尋常高等小学校を卒業。
画家を志して上京。神田錦町の塗料店に一時住み込むが、その後、銀座 木挽町で図案社を営む光風会会員の画家石川雅山(藤助)の内弟子となり、 版下やポスター描きを手伝う。
1938(昭和13)年 18歳 第25回光風会展に《街裏》(油彩)が初入選。
1939(昭和14)年 19歳 石川雅山のすすめで日本画に転向し、川端画学校日本画部に入学。
1940(昭和15)年 20歳 第12回青龍展に《渡舟場》が初入選。
11月、養父横山修平が死去。
12月、召集を受け陸軍に入隊、終戦まで中国大陸を転戦。
1945(昭和20)年 25歳 8月、終戦と同時にシベリアのカラガンダ23区第9捕虜収容所に抑留され、 石炭採掘に従事。
1950(昭和25)年 30歳 2月、復員後吉田町に帰郷。
4月、上京。文京区駒込動坂の石川雅山宅に再び寄宿。
昼は不二ネオン会社デザインの仕事に従事。銀座の森永広告塔のデザイン 等は話題を呼ぶことになる。
9月、青龍社に復帰し、《カラガンダの印象》を第22回青龍展に出品。 また同名の油彩画も描く。
1951(昭和26)年 31歳 杉田基子をモデルにした《カザフスタンの女》を春の青龍展に出品。
5月、杉田基子と結婚。
第23回青龍展に《沼沿いの町》を出品し、社子に推挙される。
1952(昭和27)年 32歳 3月、長女彩子生まれる。
1953(昭和28)年 33歳 春の青龍展で《白壁の家》は春展賞を受賞。
25周年記念青龍展で《ショーウィンド》が奨励賞を受ける。
この年から大森の川端龍子のアトリエで開かれていた青龍社の研究会に欠かさず出席。
1954(昭和29)年 34歳 第26回青龍展で《変電塔》が奨励賞を受け、社友に推挙される。
1955(昭和30)年 35歳 1月、品川区大井庚塚のアパートに引っ越す。
1956(昭和31)年 36歳 1月、求龍堂石原龍一の支援で第1回個展を銀座・松坂屋で開き、 《網》《溶鉱炉》等5点を出品。
2月、世田谷区松原町の戸建借家に転居。
5月、桜島の大爆発に遭遇する。
第28回青龍展で《炎炎桜島》が青龍賞を受賞。この賞は、社人以外の 作品に与えられる青龍社の最高賞で、青龍社37年の歴史で受賞者は 落合朗風と操の二人だけである。
1957(昭和32)年 37歳 7月、現代美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に《川》を出品。
6日未明、上野谷中の五重塔が焼け落ちたと聞き現場に駆けつける。これを題材に描いた《塔》は、 第29回青龍展で奨励賞を受賞。
1958(昭和33)年 38歳 1月、第2回個展を銀座・松坂屋で開く。《夕張炭鉱》《昭和新山》 《闇迫る》など7点出品。
第3回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に《犬吠》を出品。
6月、佐久問ダムヘ取材旅行。
8月、大阪・大丸で個展。9月、第30回青龍展に《ダム》を出品。社人となる。
1959(昭和34)年 39歳 3月、第1回轟会展(横山、加山又造、石本正の三人展・村越画廊)に 《夕映桜島》などを出品。
5月、第5回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に出品した《峡》が優秀賞。
1960(昭和35)年 40歳 2月、日本画の新世代展(東京国立近代美術館主催)に《溶鉱炉》《塔》等を出品。
4月、横山操新作個展(兼素洞)に小品8点を出品。
第4回現代日本美術展に《波濤》を出品。
新潟市大和百貨店、新潟市小林百貨店で個展。
第32回青龍展(《建設》)。
1961(昭和36)年 41歳 4月29日から約40日間のアメリカ旅行(ニューヨーク、カリフォルニア、アリゾナ)。
5月、第6回日本国際美術展に《黒い工場》出品。
第33回青龍展(《グランド・キャニオン》)。
福王寺法林との新作二人展(兼素洞)にアメリカ五題を出品。
1962(昭和37)年 42歳 春の青龍展に《金門橋》を出品。
第5回現代日本美術展に《ウォール街》を出品。
6月、北海道十勝岳噴火を取材。
8月、第34回青龍展に出品予定の《十勝岳》が縮小を要請され、 これを契機に青龍社を脱退。
以後、画廊、百貨店等での個展、グループ展を主な作品発表の舞台にする。
三鷹転居以来2度目の作品の処分を行う。
1963(昭和38)年 43歳 東京画廊で越後風景展を開催、《海》《雪原》等水墨による10点を出品。
神戸・大丸で個展。
第7回日本国際美術展(《雪峡》)。
屏風絵展(銀座・松屋)を開催、《瀟湘八景》等13点出品。
この年、青梅に別荘を建てる。
この年、日比谷公会堂緞帳、リッカービル壁画制作にたずさわる。
1964(昭和39)年 44歳 第5回現代日本美術展(《高速四号線》)。
9月、アメリカとヨーロッパに旅行。途中イタリアのシエナで心臓発作 を起こすが、病状回復後帰国。
ニューフジヤホテル、ヒルトンホテル、船原ホテルの壁画を完成。
1965(昭和10)年 45歳 9月、多摩美術大学日本画科で加山又造とともに実技指導を始める。
1966(昭和41)年 46歳 4月、多摩美術大学日本画科教授に就任。
同月10日、川端龍子死去。
5月、青龍社解散。
第7回現代日本美術展(《万里の長城》)。
6-7月、訪中使節団の一員として中国を旅行。
この頃、一連の富士の絵で評判となる。
雑誌「中央公論」表紙絵を担当し始める。
1967(昭和42)年 47歳 第8回轟会展は病気のため不出品。
個展(名古屋・松坂屋)。
1968(昭和43)年 48歳 越路十景展(彩壷堂画廊)。
第8回現代日本美術展(《TOKYO》)。
1969(昭和44)年 49歳 第9回日本現代美術展(《暁富士》)。
1970(昭和45)年 50歳 6月、青梅の別荘にアトリエを新築。
1971(昭和46)年 5l歳 4月、戦後美術のクロニクル展(神奈川県立近代美術館)に《雪原》を出品。
同29日、脳卒中で倒れ右半身不随となる。
8月、伊豆のリハビリテーションセンターに入院。
11月、本人の希望で退院し、左手による制作の訓練を始める。
1972(昭和47)年 52歳 2月、戦後日本美術の展開―具象表現の変貌展(東京国立近代美術館)に 《塔》を出品。
この頃、集英社版『漱石文学全集』や雑誌『新潮』、公演目録等の挿絵、 表紙絵を盛んに制作。
1973(昭和48)年 53歳 3月26日、制作中に再び脳卒中で倒れ、慈恵医科大学付属病院に入院。
4月l日死去。法名、景享院篁風玄彩操志居士。


【主要出品作品】

《炎炎桜島》 1956(昭和31)年 布彩色 241.5×454.0cm 新潟県立近代美術館蔵
《網》 1956(昭和31)年 木綿彩色 225.3×900.0cm 福井県立美術館蔵
《塔》 1957(昭和32)年 布彩色 317.8×134.0cm 東京国立近代美術館蔵
《港》 1958(昭和33)年 紙本彩色 182.0×182.2cm 新潟県立近代美術館蔵
《朔原》 1959(昭和34)年 紙本彩色 91.0×152.0cm 新潟県立近代美術館蔵
《ウォール街》 1962(昭和37)年 布彩色 271.0×136.0cm 東京国立近代美術館蔵
《ふるさと》 1965(昭和40)年 紙本彩色 45.0×64.0cm
《雪峡》 1963(昭和38)年 紙本彩色 239.5×480.0cm 新潟県立近代美術館蔵
《朱富士》 1966(昭和41)年 紙本彩色 88.5×130.5cm
《茜》 1973(昭和48)年 紙本彩色 33.0×45.2cm
《絶筆(未完)》 1973(昭和48)年 紙本彩色 39.2×59.8cm