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現代の眼 展覧会レビュー 中平卓馬の言語実験〜やりなおしの卓馬体験〜

鷹野隆大 (写真家)

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不思議な展覧会だった。これが初見の素直な感想である。

わたしは迂闊にも、会場にはオリジナルプリントなるものが並んでいるものとばかり思い込んでいた。そしてプロヴォークに代表される初期の劇的写真、サーキュレーションの吠えるような展示の再現、華やかな原色で彩られた後期の写真等々が、にぎやかに会場で主張し合うという展開を予測していた。

ところが、実際に会場に入ると、実に静か。“無音が聞こえる”とさえ言いたくなるような静けさだった。展示冒頭では写真集『来たるべき言葉のために』(1970年)の複写画像が、スライドショー形式で壁一面に大きく映し出されていた。いつもなら激しく迫ってくるはずのこれらのイメージが、粛々と役割をこなしているように見えた。

会場風景|撮影:木奥惠三

次の展示室に入ると、中平卓馬が最初に自作を発表した雑誌が展示ケースに収まっていた。最初期の作品が資料展示であることは珍しくない、と思いつつも、次第に違和感は膨らんでいった。そしてChapter 2の展示室に入ったとき、わたしは完全に自分が間違っていたことを悟った。

この展覧会は中平卓馬の初出の資料(主要な発表の場が雑誌だった関係で、雑誌が多く展示されている)を丁寧に集めた構成になっていたのだ。観客は中平を研究する人の研究室を訪れたと考えた方が良いのだろう。そして研究であるからには、その活動に安易な序列をつけないのは当然のこと。中平が発表した当時の写真や文章を丹念にたどりながらその足跡を問い直し、鑑賞者ひとりひとりが研究者となって、伝説にまみれた中平像を再構築するような仕掛けになっていたのだ。

美術館にも娯楽的要素を求める圧が強まる昨今、このように徹底して渋く攻めた展示は予想外だった。ここには中平卓馬という存在への問いかけのみならず、展覧会の可能性への問いかけもあるように感じた。ある意味、高度に知的な謎かけをしてくる展覧会である。

会場風景|撮影:木奥惠三

こうしてわたしも中平についての問い直しを求められることになったわけだが、今回改めて着目したのは、彼の最初期である。

雑誌編集者だった中平が東松照明の勧めで写真を撮るようになり…という話はなんとなく知っていたものの、彼が働いていた雑誌『現代の眼』が左翼系の思想誌であるとは考えたことがなかった。

数学者が世界に数式を見るように、あるいは音楽家が音やリズムで会話するように、思想系の人たちは独自の言語体系を通して世界と関わっている(これはたとえば詩人の言語体系とも異なる)。つまり中平は単に言葉が巧みな人ではなく、その言語体系のなかでものを考え、ものを見、解釈し表現する、その世界の住人なのである。写真が生み出すイメージについても、彼が基盤とするこの体系からの距離で認識していたと思われる。

たとえば初期の活動においては、自分の言語体系に欠けている部分を補うものとして写真を求め、その象徴的イメージがもつ強力な伝達力に写真の可能性を見出していた。ここで表現されていたのは「疑え!」「壊せ!」「否定しろ!」というメッセージだったが、それを彼の言語体系で表現しようとすると、まわりくどくならざるを得ないものだった。

ところが安保闘争に敗れた70年代に入ると、これまでとは違ったメッセージが必要となる。そこで彼が写真に求めたのは、自分の言語体系に欠けているものではなく、この体系を視覚的に体現してくれるものだった。

展示では「風景論」への関心が紹介されていた。資本主義社会の進展がもたらす風景の均質化にどう向き合うのかという「風景論」が提示した問題に対し、写真でどう答えるのか、その可能性を懸命に模索している様子はうかがえるものの、象徴的写真のもつイメージの強さにこだわる傾向が目立ち、うまくいっていたとは思えない。本人も「写真を撮ることに(中略)疲れてしまった」(Chapter 3「とりあえずは肉眼レフで」)と吐露している。

こうした停滞のなかで構想されたのが「なぜ、植物図鑑か」(1973年)だった。ここで彼が写真に求めたのは、自分の言語体系に欠けているものでもなければ、同期するものでもなく、それを超越するものだった。それは彼を蝕む言葉の洪水からの解放であると同時に、長年共にあったものを捨て去ることでもあったろう。この宣言文を書いたのち、すぐに自己の理論を実践できなかったのも、捨て去る難しさだったのではなかろうか。

会場風景|撮影:木奥惠三

“体系”とは物語であり、物語は時間を内包する。つまり“体系”を捨てることは、“時間”から離脱することである。晩年の写真に“現在”しかないように見えるのは、中平がついに求める地平にたどり着いた証であると解釈できるかもしれない。だが、彼自身はこの点について何も語っていない。

ちなみにわたしにはあの写真群が“文字”のようにも見える。しかしそれはただそれだけのことで、相変わらず解釈を拒絶して謎のままである。

『現代の眼』639号

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