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東京国立近代美術館で開催の「下村観山展」(2026年3月17日~5月10日)では、神奈川県立歴史博物館の特別協力のもと、観山が生前に愛用した絵画用品が展示された。そのなかにある絵筆には、明治時代に新しい日本画筆を生み出した宮内得應軒(みやうちとくおうけん)の刻字が見える。その得應の筆づくりの伝統を今に受け継ぐ筆工房・清晨堂(せいしんどう)主人の阿部悠季氏に、筆職人の立場から見た観山の筆や絵画作品の特徴についてうかがった。
阿部悠季(あべゆうき)
有限会社画筆清晨堂代表取締役。1983年東京都生まれ。2009年に画筆工房・清晨堂に入社、2018年に代表取締役に就任。筆制作のかたわら、東京藝術大学、多摩美術大学、武蔵野美術大学、女子美術大学等でゲスト講師として画筆の歴史、制作工程の講義を行う。
聞き手:中村麗子(企画課主任研究員)
構成:杉崎友哉(企画課研究補佐員)
2026年3月19日
清晨堂にて
清晨堂と筆職人
―――まず、清晨堂について教えてください。
清晨堂の歴史を辿ると、「日本画筆の始祖」と呼ばれる明治時代の筆匠、宮内得應(1843–1914)に辿り着きます。得應は私の高祖父にあたる人で、橋本雅邦や川合玉堂らと交流して、「長流(ちょうりゅう)」「削用(さくよう)」「天然則妙(てんねんそくみょう)」といった現代にも通じる代表的な日本画筆を生み出しました。
得應には子供が6人いて、長男系、三男系、六男系が家業として残っています。長男系が神田にある画材店の得應軒本店。三男系が谷中の画材店の得應軒。そして六男系、私の曽祖父にあたる金吾郎が東京に筆工房を構え、私たちは父の代から清晨堂として筆づくりをしています。

―――職人として筆が作れるようになるまで、どれくらいかかりますか。
筆づくりには工程が20も30もあって、日本画筆の種類も非常に多いです。全部の筆の種類の作り方を完全にマスターするとなったら、10年以上かかると思います。でも完成までの全体の工程を4つか5つに分割して、そのなかの5工程か10工程がきちんとできるようになれば、工房では1、2年で戦力になり始めますね。もっとも、今でも私はまだ新しいものを作ったり、経験のある作業でもまだ至らないなと感じることもありますので、そういう意味ではずっと修業は続きますね。
観山の日本画筆
―――日本画用の筆にはどのようなものがあるのでしょうか。
筆は大きく「書筆」と「画筆」に分類され、画筆のなかに日本画筆もあります。もともとは書筆が書画兼用で使用されていましたが、江戸中~後期の画家・円山応挙の頃辺りから画筆が分化したとされています。明治時代に「日本画」というジャンルができると「日本画筆」もともに定義されたんです。はじめ中国から伝来して、島国という日本独自の風土で育ち、「日本画筆」として明治以降西洋文化の影響を受けて大きく変化したことは、「日本画」そのものの変遷と重なる部分も多いかもしれません。
なお、日本画筆と書筆の一番大きな違いはその種類の多さです。書筆は大きく大筆、中筆、小筆と分類されるのに対して、日本画筆は細かい線を引くための面相、蒔絵筆、長い骨描き(こつがき)註1のための線描筆、彩色筆やぼかし用の隈取筆に、没骨(もっこつ)技法註2等のために使用される長穂の付立(つけたて)筆、面を塗る刷毛や平筆、連筆(れんぴつ)と細分化されています。作品から逆算して考えてもらうと分かりやすいかもしれません。書道の作品を制作するのに筆を5本も10本も持ち替えるということはなく、逆に日本画はさまざまな場面で筆、刷毛を持ち替えて1枚の作品を描くことが一般的です。
―――下村観山が使っていた筆(「下村観山展」出品資料、神奈川県立歴史博物館蔵)を実際に見てみていかがですか。
筆を見て、真っ先に感じたのは、令和の現代の日本画家の方々が使われている筆と、下村観山の使用していた筆のラインナップが大きく変わらなかったことです。決して今までの日本画筆に成長がなかったという意味ではなく、あらゆる分野での大きな転換点となった明治時代に日本画家と職人とが苦労して作り出した革新的な日本画筆が、令和に続く伝統となっている点に感銘を受けました。先祖の制作した刷毛の柄の形や漆塗り、日本画家の要望に応えるために良質の原毛を用い、毛先を薄手に作っている仕様なども今とほとんど同じだったことに驚き、伝統が守られているのだと実感しました。
観山の使用していた筆(図2)は、削用(線描筆)/絵刷毛(えばけ、冬毛、夏毛、短穂、幅もさまざま)/長穂唐刷毛(ちょうほからばけ、本山馬(ほんさんば))/連筆3本立/書道用大筆/その他に付立筆、彩色筆、面相筆など。柄に虎を描き漆塗りした刷毛もあります。これらは高祖父の得應かその子の代の仕事である可能性が高い。多くの筆が「得應軒製」と記されていることから推察できます。

―――観山の筆の素材には、何か特徴はありますか。
刷毛の柄の形等の規格や漆塗りは、現在の清晨堂製のものとほぼ同じです。観山の使用していた刷毛の多様さから、彼の道具へのこだわりがうかがえます。山羊の尾毛と胴毛を使った冬毛絵刷毛、それに馬毛も混ぜた夏毛絵刷毛という具合に、原毛が異なるものがありますね。穂先の形状についていえば、少し短穂に仕立てたもの、幅も2~5寸(3〜15cm)くらいまでさまざまな種類があります。
長穂本山馬唐刷毛(ちょうほほんさんばからばけ)というものもありますね。非常に太くて硬い本山馬でできている唐刷毛で絵具の含みは良くないのですが、その性質を逆手にとって、かすれやぼかし等の表現に使用されることが多い刷毛です。現代の日本画家からも、岩絵具のぼかし等に使うとよく聞きます。ちなみに「山馬」とは馬ではなくベトナム産のサンバーという鹿の毛。枯葉剤の影響などもあり、現在は絶滅危惧種で入手不可能です。なので、観山の持っていた長い本山馬は今では非常に稀少なものです。
面相筆については、白い毛(軟らかめの羊毛系と硬めの狸系)で長穂気味の筆が多いように見えます。現在は、面相筆にはイタチ(中国、ロシア産)が最も好まれますが、観山の生きた頃は、物流の都合上、こうしたイタチの毛の調達は難しかったかもしれません。

(後篇に続く)
註
- 彩色の前段階で輪郭線を引くこと。
- 輪郭線を用いずに、色面で表現する技法のこと。
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