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現代の眼 展覧会レビュー 「あやしい絵展」をのぞく時

トミヤマユキコ×清田隆之

あやしい絵展|会場:企画展ギャラリー[1階]

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会場風景|撮影:木奥惠三

退廃的、グロテスク、妖艶、神秘的といった要素を持つ作品を「あやしい」という語で括って提示した「あやしい絵展」。主にSNS上では、「あやしい」の定義、描かれた対象の女性性を中心に、さまざまな意見が飛び交いました。今回、日本の少女漫画を研究するトミヤマユキコさんと、「恋バナ収集」を通してジェンダーや男性性について考察する清田隆之さんに本展をご覧いただき、あやしい絵展の「あやしさ」について語っていただきました。


トミヤマ:あやしい絵に女の人が多いのって、私としては腑に落ちるんですよ。今も昔も基本的にこの社会は男性中心的で、そうなると女の人はどうしたって周縁の存在になってしまいますよね。「ふつう」からはみ出してしまって、「あやしい」と思われてしまうような状況に陥りやすいとも言えるわけです。それって女の人が個人的に引き寄せているというよりは、社会構造によるところが大きいと思うんです。この「あやしい絵展」では、周縁にいる女たちが無視されることなく、ちゃんと描かれていたんだと知ることができますし、その意義はちゃんと考えなきゃいけないなと思いました。

清田:僕は昔から絵に触れる習慣が全然なくて、知識や鑑賞法を知らないと絵を正しく理解できないという思い込みがありました。でも、これは絵でも音楽でも演劇でもなんでもそうだけど、作品に触れるというのは正解を探る行為ではなくて、そこで感じたものが大事なんだと大人になってから思えるようになった。あやしい絵展もそういう風に鑑賞したのですが、ゾッとする感じとか、恐怖みたいな感覚とか、そこはかとないおかしみとか、「あやしい」というコンセプトから感じた多義的なものを一つ一つ考えていく時間が楽しかったです。でも一方で、「あやしい」と感じるのは自分の中にある“ふつう”とか“平常”みたいなものとずれているからであって、そうなると今度は、「あやしい」と感じている自分の感覚自体はどうなんだ、自分の感覚がスタンダードだと思っているその状態こそグロテスクなのかも……みたいな問い返しもありました。

トミヤマ:「あやしい絵展」というタイトルですけど、「あやしい(仮)」みたいなところがありますよね。徹頭徹尾あやしいですよって決めつけてるわけじゃなくて、あくまで「(仮)」でしかないというか。私は観賞しながらあやしい「からの」をかなり考えました。「あやしい」からの「可愛い」とか、「面白い」とか、「怖い」とか、「気持ち悪い」とか。あやしいの先が絶対にある。あやしいからの何に辿り着くかは、生まれ育ってきた環境とか、自分の美意識とか、人それぞれですから、結果として自分自身が逆照射される感覚を味わいました。これ、二人とか三人とかで観に行けば、全然違う感想が出てきてすごく面白いと思うんですが、清田さんはどうでした?

図1 上村松園《花がたみ》1915年、松伯美術館蔵

清田:僕はこの絵(上村松園《花がたみ》1915年、松伯美術館)[図1]がパッと見た時に気になって。色使いのかわいさに惹かれた部分もありますが、この絵のあやしさをどこに感じたんだろうと自分の中をのぞいた時、服が着崩れていたり、カゴを気怠そうに持っていたり、ちょっとだらしなさそうな感じに魅了されている部分が正直あった。でもそれって、きっちりしているのが女の人のデフォルトだと思っているからこの絵の女性を「少し崩れている」と感じたわけですよね。そんな自分の感覚を紐解いていくと、これっていわゆる「ミソジニー(女性蔑視)」では……と、ちょっとゾッとしたんです。というのも、女性を神聖視するのもミソジニーの一種で、女性を「聖なるもの」と「俗なるもの」とに分ける感覚は“男性あるある”ですよね。自分としてはそういうものから距離を取りたいと思っているのに、こうして根深く染み付いている事実をふいに突きつけられる。トミヤマさんが逆照射と言っていたけど、一枚の絵を前にした時にいろんなことを考える体験があちこちの作品の前で起きていて、面白くもあり、怖くもあるという感じが個人的にはありました。

トミヤマ:清田さんは怖さも感じていたんですね。私は一種の開放感みたいなものを覚えたんですよ。周縁の存在って中心から放逐されているみたいなニュアンスもある一方で、中心から解放されて自由になっていると捉えることもできると思うんですね。そう思ってみることで、なんか元気が出てくるというか。私はこの古着市(梶原緋佐子《古着市》1920年、京都市美術館)[図2]の女の人が忘れられなかった。普段は忙しく立ち働いているであろう女の人がちょっとボーっとしちゃってる瞬間が描かれていて、この油断と隙も含めて女だし、人間じゃん、いいじゃん、みたいな気持ちになれたんです。私は少女漫画の研究者ですけど、漫画の世界は男性向け漫画が数の上でも売上でも圧倒的で、少女漫画も人気とは言え、それには遠く及ばないんですね。だけど周縁にいるからこそ好き勝手できる部分もあるので、周縁に位置しているのは必ずしも悪いことではないんですよ。そこは今回の展示と相通ずるところがあるなと思いました。

清田:これはライターの西森路代さんも言及していたことだけど、阿佐ヶ谷姉妹って今までのお笑いの世界にはあまりいなかったタイプだと思うのね。独身の中年女性で、日常の何気ない瞬間を表現している。近所でお裾分けをもらったとか、豆苗が育ってうれしいとか、そういうネタが本当に面白いんだけど、それってつまり、ハイテンポでボケとツッコミがあって男性中心で……というお笑いの世界における周縁の存在だからこそ、開放感や脱力感が味わえるのかもなって思った。と同時に、マジョリティを逆照射する批評的な存在でもあるわけだよね。

図2 梶原緋佐子《古着市》1920年、京都市美術館蔵 |撮影:木奥惠三

トミヤマ:あと、描き手のことで言うと「美人を描いたら表面的と言われた」という上村松園のエピソードがとても興味深かったです。美しい人には中身がないと言われて、じゃあ頑張って中身を描きます、となった時にどうするか、描く側の苦悩をすごく感じました。少女漫画はストーリーがありますから、美男美女にもちゃんとバックグラウンドがあるし、立体的な存在なんだよと説明ができます。でも絵画はたった一枚でいろんなことを伝えないといけないから、これは大変ですよ。美しいイコール中身がないと言われても、画家は困っただろうなと思います。その辺りの葛藤も感じられる展示でしたね。

清田:上村松園は女性だし、セクシュアリティもそれぞれ様々だから、これはちょっと強引な話ではあるのだけど……個人的に「男の描く女性像がファンタジーに満ちてる問題」が気になってます。脳内で作り上げた極めて都合の良い女性をモチーフに絵を描いたり歌を作ったり……というのは古今東西あると思うんですよね。例えば以前、大学のジェンダー講座に招いてもらった時に「J-POPの歌詞からジェンダーを考える」という講義をやったんですね。その時は大学生に人気があった「別の人の彼女になったよ」(wacci)という歌をとり上げたのね。歌詞の主人公は女性で、元彼に宛てた手紙のようなストーリーになっている。いわく、私は別の人の彼女になったからあなたにはもう会えないけど、新しい彼氏はちゃんとした人で、素敵な人なんだけど、正直ちょっと息苦しい。あなたには幼稚なところがあったし、喧嘩もたくさんしたけど、自由に遊んでいたあの頃が懐かしくて、私はズルいからそのうち電話しちゃうかもしれない。だからあなたも早く別の人の彼氏になってね……という歌詞で。

トミヤマ:別れたいのか、ヨリ戻したいのか、本心はどっちなんだ(笑)。

清田:歌もメロディもエモいし、ミュージックビデオもすごく良くて、ついうっとり魅了されてしまうのよ。でも、この歌詞を書いたのが男性(橋口洋平)であることを思うと、急に見え方が変わってくる。こんな風に元彼のことを思う女性は本当にいるんだろうか、男が脳内で作り上げた極めて都合の良い妄想なんじゃないか……と疑ってしまうわけです。でも、そういう歌は昔からいっぱいありますよね。我々の世代で言うとMr.Childrenの歌詞なんて本当に男に都合が良いんだけど、「歌詞のジェンダー観がやばいよー!」と思いつつ、聴くとめっちゃ引き込まれてしまう(笑)。妄想だしファンタジーだし、偏見やご都合主義に満ちてはいるんだけど、それを作り出した際の謎のエネルギーってあって、結果的に女性も含めて魅了してしまう……みたいなことがよくある。そういうものに対してジェンダー的な観点からツッコミを入れる時の無力感というか、野暮ったさというか、そういうものを感じる瞬間も少なくない。

トミヤマ:そうですね。正面切って正しいことを言う虚しさって生きてるとたまに感じますよね。悔しいけど妄想力に勝てない……。

清田:たとえそこにジェンダー観の偏りやねじれがあったとしても、表現されたものの強度がすごいな、と感じるものが今回の展示にもたくさんあった。

図3 青木繁《大穴牟知命》1905年、石橋財団アーティゾン美術館蔵

トミヤマ:清田さんはどの作品に一番強度を感じました?

清田:これ。(青木繁《大穴牟知命》1905年、石橋財団アーティゾン美術館)[図3]。女性が乳(のように貝殻の粉を溶いた水)を塗ると男性が生き返る物語を描いているっていう。

トミヤマ:元ネタが『古事記』とはいえ、すごいですよねこれ(笑)。

清田:もちろん背景には深遠なストーリーがあるのだと思うけど、全裸の男性(大国主神)が乳房を露わにした女性に救われるって……その構図がファンタジーすぎるだろって(笑)。でも、そんなツッコミを入れつつも、絵の強さがすごくて、作品を目の前にするとその迫力にひれ伏してしまう感覚がやっぱりあるんだよね。

トミヤマ:わかります。圧倒されてしまうんですよ。今、私達は理性を働かせて話しているけど、またこの絵を前にしたら問答無用で魅力的な絵だな、と感じちゃうんです。女性観ひとつ取ってもいろいろな作品があるのは良かったですね。女の人を崇め奉るタイプのものもあれば、まぁミソジニーと言われてもしょうがないよねというものもあるし、ありのままのリアルを切り取っているものもある。アプローチの仕方がさまざまで、一概に言えないというか、男性が女性をただ対象化して好き勝手描いているばかりじゃないのが面白かったです。

清田:この刺青(橘小夢《刺青》1923/34年、個人蔵)[図4]という作品。谷崎潤一郎の小説が題材になっていて、「美しい少女」を「薬で眠らせ」、「玉のような美しい肌に女郎蜘蛛を彫り込んだ」と解説にあったけど、これはもう完全に暴力だし犯罪だし、それで「彼女の魔性もまた花開いた」ってどんだけ妄想がすぎる話なんだよ……と思うけど、実際に絵を前にすると圧倒されてしまったりもする。とんでもないなと思う気持ちと、それはそれで絵としての迫力がすごいなという気持ちが同時にやってきて、よくわからない気持ちになりますよね。少女に刺青を彫りたい気持ちは全くわからないけど、もっと陳腐に野暮に考えれば「処女性を尊ぶ」とか「俺色に染めたいみたい」みたいなことかもしれず、それは極めて男性あるあるな感覚で、自分も他人事と切り離せないかもだぞ……みたいな恐怖があった。同じ作者で言うと、この河童の作品(橘小夢《水魔》1932年、個人蔵)[図5]も気になった。小柄の男が自分より身体の大きな女性にしがみついている構図に映り、なんかとてもわかる気がするなって(笑)。

トミヤマ:私もこの絵は面白いと思いました。「あやしい」からの面白い、ですね。ちっちゃい河童がしがみついていて、なんだか滑稽なんですよ。引きで見ると幻想的だけど、近づいてよく見てみると笑っちゃう。

清田:主語の大きな話になって恐縮ですが、男性って自分の身体をどこか醜いものとか汚いものと考えている節があると思うんですよ。自分を美しいと思えないからケアとかしないし、普段は自分を大きく強く見せようとしているけど、実際は自信がなくてちっちゃくて痩せっぽっちで……みたいなマインドが河童というモチーフに象徴されているように感じた。一方でこっち(左の人物)は身体が大きくて……。

トミヤマ:豊かな肉体を持っているという意味では、完全に強者ですね。

清田:そこにしがみついていて、生気を吸っているのか、癒されたいのかわからないけど、その感じとかもちょっとわかるなと思って。

トミヤマ:私は河童に全く感情移入していなかったので、清田さんの河童視点はとても新鮮です。私が女であることとも関係あるかもしれないですけど、なんとなくこっち(左の人物)の気分でいたので。「なにこれ、なんかへばりついてるんですけど!」みたいな(笑)。きっと見る人のジェンダーとか、性的嗜好とか、どういうところにフェチを感じるかとか、そういうものが感想に混じっているんでしょうね。あやしい絵が教えてくれる何かが確実にあります。:

清田:自分のいろんな部分が刺激される感じがありますよね。

トミヤマ:人によって受け取るものが多種多様だから、感想戦は盛り上がるんじゃないかなと思いますね。同じ絵を見たとしても、他の人と同じようには感じられないと思う。そこがいいところです。

清田:確かに! こうして話してる時間もめっちゃ楽しい(笑)。勝手にいろんなものに引きつけて、自分の関心とか好きなものとか体験とか、なんでも結びついてしまう。

トミヤマ:知りたくなかった感情に気づいてしまう人もいるかもしれないですね。なんでこれが好きなんだろう?ひょっとして私……?みたいな目覚めがあるかも(笑)。この感情はなんだろう、と考えて、自分の問題として引き受けるのはすごくいいと思います。あやしい、あやしくない、というジャッジをするだけではもったいないです。

清田:ニコ生1で、男性の学芸員さんが「美しさ」と「あやしさ」の違いの話をしていて、美しいっていうのは既存の何かに触れた時の感情で、あやしいっていうのは未知のものと触れた時の感情だという意見になるほどなと思った。自分が持っている感性、ストック、構築されたものは人それぞれ違うから、どう感じるかは人それぞれなわけで。

トミヤマ:「わからない」が少しでも入ると「あやしい」になるのかもしれないですね。綺麗だけどよくわからない、だから、あやしいと感じる、とか。私は江戸川乱歩で修士論文を書いたので、「わからない」部分がだいぶ減って、純粋に面白いとか楽しいと感じますけど、乱歩と言えばやっぱり「あやしい」だろうと思う人もいるでしょうし。

清田:自分は卒論で野坂昭如の小説をテーマにしたんですね。当時は野坂の「エロ・グロ・ナンセンス」を面白いと感じていたんだけど、ジェンダーを学ぶようになってからは、「女の人の描き方が酷いな……」と思うようになり、しばらく遠ざかっていた。でもさっき出た話のように、そこに宿るパワーや迫力みたいなものはやっぱりすごいし、ジェンダー観の偏りをもって切り捨てることはできない何かがある。問題は問題として捉え直しながら、自分が惹きつけられてしまったものは何か、人々を魅了するものがあるとしたらそれはなんだろうって。

トミヤマ:ええ。かなり自分と向き合うことになりますよね。

清田:着崩した女の人をエロいと感じてる自分嫌だな……と葛藤しつつ考えていきたいと思います(笑)。

  1. ニコニコ美術館「休館中の東京国立近代美術館「あやしい絵展」を巡ろう」2021年4月26日放送。 ※2021年8月15日にて公開終了しました。
清田隆之さん(左)、トミヤマユキコさん(右)

トミヤマユキコ
東北芸術工科大学芸術学部文芸学科専任講師。
著書に『少女マンガのブサイク女子考』(左右社、2020年)など。

清田隆之
恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。
著書に『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス、2020年)など。二名の共著として『大学1年生の歩き方』(左右社、2017年)がある。


『現代の眼』635号

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