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現代の眼 展覧会レビュー 大辻清司という難問

木原天彦 (渋谷区立松濤美術館学芸員)

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今回の特集展示によってハッとさせられたことがある。写真家・大辻清司(1923–2001)は、関東大震災のわずか1か月ほど前に生まれているという事実だ。場所は現在の東京都江東区大島。震災に伴う火災によって多くの避難者が亡くなり、当時最悪の被災地となった陸軍被服廠の跡地(現・横網町公園)は、大辻の生家からわずか3キロほどしか離れていない。大辻の人生は、関東大震災の災厄のただなかで始まったと言えるだろう。  

一方、美術史では、関東大震災をきっかけに急速に拡大したのが前衛芸術だと言われている。芸術上の概念として「前衛」が確立するのは1930年代に入ってからだが、震災によって旧来の社会制度が崩れ去ったあとで、多くの芸術家が荒廃した空間に新たな形を与えるべく奮闘し、そこに「前衛」意識の萌芽が現れる。ここでいう「前衛」とは、今までの常識を疑い、否定し、未だ見ぬ世界の地平を切り開いてゆく精神的態度を指す。

美術館の展示室。左手奥に、モビール作品。右手奥に大きな油彩絵画。
図1 会場風景(7室)|撮影:大谷一郎

大辻はこの前衛の精神を、生涯にわたって貫いた稀有な写真家だった。彼のキャリアは、主に二つの傾向を持った写真から出発している。構成主義や抽象の影響を受けた写真の造形性を追求する傾向(《航空機》)、そしてシュルレアリスム的なオブジェに類する傾向(《陳列窓》)の二つである。この両者は一見して全く違うスタイルを持っているが、カメラによって、物体の思いもよらない隠された側面を浮かび上がらせようとする点で共通している。付言すれば、これは写真だからこそ可能なことでもある。現実を克明に写しとりながらも、距離、光と影のバランス、瞬間的な時間の静止などあらゆる条件が、肉眼とは異なった新たな視覚をもたらす。だからこそ写真には、見慣れた現実を批判的に捉え返す力が備わっている。大辻の前衛とは、この写真の力を最大限に使い尽くす方策でもあった。

美術館の展示室。中央に彫刻3点。奥の壁には、大きな抽象画油彩と写真作品が複数点展示。
図2 会場風景(8室)|撮影:大谷一郎

見ることによる批判。そのような彼の写真の立脚点を確認すれば、1973年に撮影された大辻には珍しい短編映画《上原2丁目》を、単に、作家自身の日常や暮らしに対する愛着だと誤解してしまうことはないだろう。自宅の前に据えられたカメラは、商店街の通りを少し奥まった路地の側から捉えており、それが書き割り的な舞台空間を作り出している。極めてありふれた、なんでもない日々が、カメラの据え方一つによって異なる相貌を見せる。だから《上原2丁目》はむしろ、作家自身の生きる日常を自己分析するための試みと考えた方が自然だ。

図3 会場風景(9室)|右は大辻清司《上原2丁目》、1973年、武蔵野美術大学美術館・図書館蔵

彼は声高に芸術革命のイデオロギーを唱えることはなかったし、他の芸術家と激しい論争を繰り広げたこともほとんどない。それに、展示会場を一覧すればわかるとおり、作品のスタイルもモチーフも多様であり、記録なのか、作品なのか判然としない写真も数多い。また、大辻は個展の開催や写真集の出版といった活動をほとんど行わず、作品の大部分はグループ展か雑誌の誌面で発表されることが常だった。いってみれば、自分のクリエイションを一個の区切られた世界観として提示するのではなく、他者の作品や言説の隣にそっと添えるかのような見せ方を選択してきたのである。基本的に自己表現の歴史を編もうとする近代美術史は、この点において大辻清司を持て余す。彼自身が一見明白な自己を持たないように感じられるからである。

しかし、前衛が絶えざる懐疑主義に根ざしていることを考えれば、それは原理的に、自己の創造と破壊を繰り返さなければならないものである。疑いの目の矛先は、他者と同時に、自分自身にも向けられるからだ。大辻清司は、時に自己の殻をやぶる外来種としての他者を作品に招き入れながら、絶えず自己の破壊と再生を繰り返した。この事実が大辻清司という難問を招いているが、同時に、彼が極めて正当な前衛精神の継承者であることを物語るのだ。

最後に大辻の言葉を引こう。

前衛の精神は、まず様式化しないことにあった、と大づかみにいうことができる。あるいは様式として固定化した作品から脱出する行為だった、ともいえる。そうだとすれば前衛写真スタイルの作品、前衛風の写真、などというものは、ミイラ取りがミイラになったというほかはない。1

大辻清司という、激しく懐疑主義的な作家が、すぐそばでカメラを携えて歩き回っている。これほど、同時代の「前衛」芸術家にとって身の引き締まることはないだろう。展覧会場に写真と共にならんだ絵画や彫刻を眺めるにつけ、つくづく、大辻というのは空恐ろしい芸術家だと確信して、会場をあとにした。

  • 註 1 大辻清司「前衛写真の意味」『写真ノート』美術出版社、1989年、143頁

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