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古賀春江は明らかに迷っている。目の前にある電柱を電線をそのまま画面に描き込むべきか意識的に消すべきか。
2021年に「電線絵画展」(練馬区立美術館)を企画・開催した際に、この2点の《風景》を知っていたら、迷わず出品リストに入れていただろう。こんなに臨場感たっぷりに電柱の存在について真摯に逡巡する様子は他に例を見ないからだ。

普段は目に入りすらしないのに、一旦意識をしだすと景観を汚す邪魔者として私たちは電柱を忌み嫌う。スナップ写真には写り込まないよう苦心したり、観光地ではせっせと地中に埋めたりと。デジタルの時代になり、邪魔者は思い通りに消し去ることができる。ただ、画家たちにとっては当初1から“電柱選択の自由”は自らの手の中にあった。意識的に描き込むか、消し去るか。無意識にそうするか否か。岸田劉生は意識的に電柱を描き込む、いや、描きたい衝動を抑えられない作家なのであろう。
この《道路と土手と塀》の赤土の斜面に黒々と貼りつく2本の影が間違いなく電柱であることは、岸田が同じ場所を繰り返し作品に登場させているので明らかだ。電柱越しに白い石塀、門をとらえた《門と草と道》(京都国立近代美術館)や、電柱を中心に据えてもっと広い範囲を写した《代々木附近》(豊田市美術館)。いずれの作品にもこの黒い影の電柱が主人公のように描かれている。
大正2(1913)年、新婚の岸田は東京府豊多摩郡代々木山谷(現在の参宮橋あたり)に移り住む。路面電車がすぐそこまで走り、明治神宮の創建計画が始まる代々木は、東京が規模を拡大し、開発計画が進む新興住宅地であった。銀座で生まれた岸田はこれまで日本橋や隅田川、《川べり、塔の見える》(東京国立近代美術館)のような誰もが知る東京風景を描いてきた。街の様相は変われどそれは江戸由来の名所絵にほかならない。鉄道、道路、電信、電気の延伸に伴い東京が増殖し、風景画は土地との有機的な繋がりが断たれていく。道路・土手・塀、あるいは門・草・道と物質の羅列をタイトルにすることを創案し、“名もなき風景”が誕生するのである。東京風景でも執拗に描いた電柱は、岸田にとって都心へと実線で繋がるためのシンボルであった。
その後転居した鵠沼(神奈川県藤沢市)でも岸田は屹立する電柱を画面の中心に据えた自宅前の風景作品を幾つも描いている。そのうちの1点、《晩夏午后》(ポーラ美術館)には見慣れた電柱の姿がない。作品の裏書きには、完成間近に関東大震災に見舞われ、制作途中ながら前日の日付とサインを入れて完成作としたとある。構図の中心を担っていると考えがちな電柱は実は最後に描いていたのだ。電柱は岸田にとっての画竜点睛だったのである。

展示室で《道路と土手と塀》と隣り合う椿貞雄の《冬枯の道》(東京国立近代美術館)には同じ場所を同じ構図、表現で描いた岸田の《冬枯れの道路》(新潟県立近代美術館・万代島美術館)があり、いかに椿が岸田に追随していたかがよくわかる。前述の岸田の《代々木附近》と同工の作品が椿にもあるが(《赤土の山》米沢市上杉博物館)、そこには岸田が堂々と中心に据えた例の電柱の姿はない。また、椿の中学校の同級生で同じく岸田に心酔し、草土社の同人となる横堀角次郎は《道路と土手と塀》と全く同じ作品《切通し》(個人蔵)を遺しているが、そこにも電柱の影は見当たらない。二人の信奉者が揃って意識的に電柱を省いたとは考えられない。彼らの出自によるものか、岸田にこびりつく電柱の意図までも二人は解せず、無意識に排除したと考えるべきであろう。
今回、期せずして2室(大正の個性派たち)に坂本繁二郎の《三月頃の牧場》(東京国立近代美術館)が出陳されている。フランス留学以前に評価の高かった牛をテーマにした作品で、雑司ヶ谷(東京都豊島区)の牧場を描いたという。3頭の牛ばかりに私たちは目を奪われがちだが、背景には高らかに電柱が林立し、電線までもしっかりと描かれている。空の広がりや奥行き感を描出するのに効果抜群で、作家はそうした画面構成を意識しているのだろう。というのも、坂本は習学期にも遠近感を描出する目的で電柱を活用している2。《道路と土手と塀》と同年の作品なのだが、岸田の電柱への想いとは異なっている。
ところで、同じ代々木山谷に明治41(1908)年、病気療養のため移り住んだのは菱田春草である。岸田の住まいとは直線距離で300mほどであった。翌年、快方に向かった春草が自宅近くの雑木林を描いたのが、《落葉》(永青文庫、重要文化財)である。小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、1918年)によると、明治35(1902)年から大正4(1915)年の13年間に代々木周辺では森林が35ha減り、代わって住宅地が51ha増えたという。代々木公園(54ha)がまるまる宅地造成されたことになる。片や乏しくなった東京の自然を求め、片や新興の東京の荒野を見つめる。現実には、《落葉》の向こうには電柱が立っていたはずである。二人の画家の間にある立場や視点の相違、様式美の探求とリアリズムの追求の違いはもちろんなのだが、いずれも急激な社会変化と東京の急速な変容が作品にかかわっていることは間違いない。
註
1 明治2(1869)年に電信用の電信柱が設置され、配電用の電柱は明治20(1887)年から。
2 『電線絵画』(求龍堂、2021年)20頁参照。
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