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現代の眼 オンライン版 展覧会レビュー めぐるアール・ヌーヴォー
戻る「アール・ヌーヴォー」と聞いて、パリに花開いた洒落た芸術を思い浮かべる人は多いだろう。この展覧会は、そのような人たちに新しいアール・ヌーヴォー像を提示している。
アール・ヌーヴォー出現前夜のパリにおける日本美術、とくに工芸品の人気についてはしばしば指摘されている。当時ジャポニスムとしてヨーロッパの人びとの耳目を集めたのは、ひとつには日本の工芸品にほどこされた意匠であった。エミール・ガレ《トンボ文杯》やルネ・ラリック《ブローチ 桑の木と甲虫》[図1]などの作品に見られる、ありふれた植物やそこに宿る虫など、ヨーロッパではそれまで装飾の主題にならなかった身近でさり気ないものに対する眼差しは、日本美術の影響を受けていると見てよいだろう。
身近なものをさり気なく描くことは、日本美術の特質のひとつである。平安時代にやまと絵が成立してくるとき、人びとは自分たちの身近なものを絵画の主題として、親しみやすい世界を生み出した。その感覚を日本美術の重要な特質とみなしたのが源豊宗の「秋草の美学」だ。源は『日本美術の流れ』(思索社、1976)で、ヨーロッパのヴィーナス、中国の龍に対して日本美術を象徴するモティーフを秋草と捉える。理想化されたかたちや想像上のかたちと違い、さり気なく身近にあるのが秋草だ。「ヴィーナス」的なものから身近なものへと振り向かせることに、たしかに日本美術は重要な役割を果たした。
しかし、展示されているヨーロッパの作品に、日本美術に見られるようなさり気ない眼差しは存在しない。彼らは、新しいモティーフに驚きそれを凝視し、まさに主題としている。そこに大きな相違がある。日本では、松田権六の《蒔絵竹林文箱》を取りあげればわかるように、側面に配される二羽の雀[図2]や身の下部に流れる水はさり気ない。それは、パターンや反復、対称という法則とも無縁の世界にある。
20世紀初頭にヨーロッパを訪れた日本人も、アール・ヌーヴォーが日本美術に触発されたことに薄々気づいていた。浅井忠が1900年のパリで『光琳百図』を「再発見」したように、ヨーロッパの新しい動向に既視感のようなものを感じたのだろう。そのうえで、浅井が「ぐりぐり式」、神坂雪佳が「ヌー坊主式」と揶揄しているのは、アール・ヌーヴォーの工芸品に一種のわざとらしさを見ていたためではないだろうか。
とはいえ、それでもなおアール・ヌーヴォーは、日本にとって新しい芸術であった。そして、その理由は、それがデザインという、まさに新しい概念と一体になって移入されたためである。
黒田清輝や浅井忠は、ヨーロッパで最新流行のポスターなどを買い求めて帰国している。杉浦非水の例で明らかなように、それらは、20世紀初頭の日本で図案からデザインへと飛躍をさせる大きな原動力となった。そのインパクトが大きいために、どうしてもアール・ヌーヴォーというとヨーロッパから入ってきた「新しい」ものと考えがちである。つまり、アール・ヌーヴォーが本質的に日本美術に通底する要素をもっていることを見えにくくしているのは、20世紀初頭-1900年パリ万博以降-アール・ヌーヴォーがデザインという概念と一体として捉えられていたという点にあるだろう。
加えて、アール・ヌーヴォーが、日本で目指すべき目標のひとつとされたことも事実だ。筆者が勤務する京都工芸繊維大学美術工芸資料館には、20世紀のはじめに前身校のひとつである京都高等工芸学校で武田五一が指導した実習で提出された生徒作品が保存されている。たとえばそのなかの《婦人用携帯装飾品図按》[図3]を見ると、「帯〆」「襟止」などには、本展に出品されているラリックのブローチに通じるような意匠がほどこされている。アール・ヌーヴォー全盛のヨーロッパを体験した武田の指導のもと、「それらしい」デザインの作成が目指されていたのだろう。ただし、このような教育は実を結ぶことはなかった。その理由もやはり、そこにわざとらしさを感じてしまったからではないだろうか。
以上の点から、この展覧会の見所はつぎの二つになるだろう。ひとつは、アール・ヌーヴォーを対岸のものとして眺めるのではなく、此岸の自分たちの問題として捉える契機を与えているという点である。そして、もうひとつは、日本美術を契機として展開した芸術としてのアール・ヌーヴォーと日本美術に通底する美意識との微妙な、しかし、決定的なずれを示している点である。
(『現代の眼』636号)
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