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現代の眼 オンライン版 新しいコレクション 北大路魯山人《織部蟹絵丸平向付》

青木智子 (工芸課特定研究員)

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北大路魯山人(1883–1959) 
《織部蟹絵丸平向付》 
1957(昭和32)年 
陶土、鉄絵 
高さ3.3、幅15.5、奥行15.7 cm(各1点) 
2024(令和6)年度購入 
撮影:品野塁 

北大路魯山人の陶磁器作品は、初期の「椿鉢」と晩年の「蟹絵平向付」が有名な連作として知られています。日本画家の加山又造氏が所有していた本作は「蟹絵平向付」のなかでも、緑釉と鉄絵による「織部蟹絵平向付」です。懐石料理の海鮮や酢の物などを添える十客の皿には、ハサミを上にあげて歩く蟹の姿が鉄絵で描かれています。各皿に描かれた蟹は、ハサミや脚の動きがそれぞれ異なり、生き生きとしています。鉄絵の濃淡が、蟹の甲羅の質感を感じさせるとともに、独特な風合いを生みだしています。この鉄絵と織部釉の色合いは、皿に盛り付けられる食材の美しさをひきたてたことでしょう。 

書・陶芸・漆芸・篆刻・料理などの分野で多彩な活躍をみせた北大路魯山人は1883(明治16)年に、京都市北区上加茂北大路町に、父清操、母登女の次男として生まれました。本名は房次郎といいます。6歳の頃に、中京区竹屋町油小路で木版屋を営む福田武造、フサ夫妻の養子になり、家業を手伝いながら書道研究を続け、1907(明治40)年には版下書きとして独立します。 

のちに美食家としても名を馳せる転機は、1910年代に訪れます。1915(大正4)年には金沢の細野燕台方の食客となり、美食への関心を深めてゆきます。その際、初代須田菁華のてほどきをうけ、染付や赤絵の作品制作を試みています。生家の北大路姓に戻ったのち、1921(大正10)年には東京の大雅堂美術店に「美食俱楽部」を設けます。古陶磁に料理を盛り付けて提供し、大きな反響を呼びました。関東大震災後、1925(大正14)年に顧問兼総料理長に就任した「星岡茶寮」では、自ら鎌倉に築いた星岡窯のうつわが料理に彩りを添えました。星岡窯では、北大路魯山人の指揮によって、あまたのうつわが生み出されました。時に自身も轆轤の前に座り、作陶を続けています。1936(昭和11)年に「星岡茶寮」を離れてからは作陶で生計をたて、かねてからの古窯研究にも励みました。第二次世界大戦後の1948(昭和23)年には、北鎌倉において、志野、織部、黄瀬戸、染付の制作を再開し、晩年に至るまで、古窯研究から見出した独自の表現を展開しました。そのなかでも、釉薬の色彩や絵付けが作品に深みを感じさせる織部は高く評価されました。 

北大路魯山人による食のうつわをひとつひとつ見ても、料理が盛り付けられる姿を想像できるようです。そのうつわは多くの人々に愛され、同じシリーズが制作されましたが、盛り付ける食材やうつわが使用される食事会や料亭によって、料理にさらなるひらめきを与えたことでしょう。 

(『現代の眼』640号)

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