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西欧美術の歴史を振り返れば、絵画という表現形式の可能性はすでに汲み尽くされたと感じられるのも無理はないだろう。1970年代以降ヴィデオやパフォーマンスをはじめ多様な表現媒体が登場し、旧来の作り手や美術のあり方自体が問い直された。確かに80年代、90年代において、こうした状況に対する一種の反動として「絵画の復権」と呼ばれる動きが内外で見られた一方で、90年代以降、もはや「もの」としての作品を介すのではなく、行為を通して観客との関係性を生み出し、社会的に関わるアートのあり方が、ますます不安定さを増す世界の状況の中で注目されてゆく。
こうした中、ピーター・ドイグの日本で最初の充実した展覧会が東京国立近代美術館で開かれた。ここで見るドイグの作品は、これまで絵画の歴史において積み重ねられてきた多様な可能性を捉え直しながら、今なぜ絵画でなければならないのか、という問いかけを正面から受け止めようとしているように思われる。
セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン 、ボナール、マティス、ムンク、ベーコン、ニューマン等々、過去の絵画の多様な要素の参照は、本展の非常に充実したカタログでも適切に言及されている。会場を見渡せば、例えば《夜のスタジオ(スタジオフィルムとラケット・クラブ)》(2015年)の塗り重ねられた床の赤の下層から覗く色彩の線はマティスの《赤いアトリエ》(1911年)[image] を想起させ、《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》(2015年)の半ばかき消されたような人物は同じマティスの《カスバの門》(1912–13年)を思わせる。しかしそれらは大文字の「様式」の語りからしばしばこぼれ落ちてきた絵画の要素であり、主題や様式の観点から語られる絵画史において十分に意識化されてこなかった可能性を、改めて具体化する試みであるとも言える。
別の意味でもドイグは絵画の歴史を喚起する。トリニダードを描くドイグをゴーギャンに重ね合わせることは、植民地主義の歴史とそれに伴う眼差しの問題を問うことと不可分である。《赤いボート(想像の少年たち)》(2004年)で、エキゾティックな南国の風景に浮かぶ船の中の少年たちは、一様に褐色の肌をして、背中を丸め、こちらを見る眼差しも定かではない。その弱々しく所在無げな姿は、ゴーギャンがタヒチの若い男性たちを、男性的な活力を感じさせない、いわば女性化した姿で描いたことを想起させる。しかしまた一方で《ペリカン(スタッグ)》(2003年)において、トリニダードで見たペリカンを殺す男を、ロンドンで見つけた、トリニダードにかつて移民として来ていた南インドの漁師の絵葉書を元に描いたとするなら、暴力的な行為の主体は植民地の労働者であり、タイトルのビール「スタッグ」のマッチョなイメージと結びつくと同時に、画面中央の青白い絵具/光に照らされたその相貌は「白く」見える。ドイグにしばしば見られる、一つのポーズをいくつかの作品で反復すること自体ゴーギャンのやり方を想起させるが、象徴的な言語とみなされるゴーギャンのポーズに対して、ドイグの人物の身振りはしばしばその作品の中で特定の意味を失っていわば情念定型として継承される。そこには確かに植民地をめぐる歴史の意識があると同時に、複数の地域の人々や肌の色、時代のイメージは錯綜しながら変容し、多様な意味に開かれてドイグの絵画に内包される。
トリニダードにおけるマチエールの変化は、それまでの彼の作品よりも絵画の物質としての厚みを感じさせないが、そのマチエールは薄塗りであるかどうかに関わらず複雑で重層的であり、やはり彼の絵画の核をなしている。
ドイグの絵画は写真や既存のイメージを含めどちらかと言えば平凡な現実のイメージを元に、制作のプロセスの中で複雑なマチエール=物質性を紡ぎ出しながらそこに変容をもたらし、現実と夢や記憶、具象と抽象の境界を揺るがして、見る者それぞれに様々な物語や意味を喚起する。それは極めて個人的な行為でありながら、社会や時代、歴史とつながる具体的なイメージに突き動かされることで今を生きる現実に開かれている。その画面は、レッシングを借りて言えば、語りの時間を意味深い永遠の一瞬に凝縮する「ラオコオン」が体現する絵画のあり方を実現すると言えるかもしれない。しかしそれは一つの物語的な表現を担う絵画の回帰ではなく、あるいはまた、映像や文学の逸話性から自律するグリーンバーグの言うモダニズムのラオコオンでもない。それはいわば、イメージから喚起されるいくつもの多義的な語りや意味や記憶を、制作のプロセスが展開される時間性を通じて非言語的な物質=マチエールへと織り合わせて見る者の多様な眼差しへと開く、いっそう新たなるラオコオンとしての絵画である。
そして、そのようなあり方を通して、ドイグは今もなお、絵画の魅力と可能性を切り開き続けることができると示している。
『現代の眼』635号
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