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現代の眼 展覧会レビュー 新しい素材

冨井大裕 (美術家/武蔵野美術大学准教授)

コレクションによる小企画「鉄とたたかう 鉄とあそぶ デイヴィッド・スミス《サークルⅣ》を中心に」|会場:ギャラリー4[2階]

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会場風景 撮影:大谷一郎  右端の作品が、土谷武《開放 I》1997年。

学生だった時分1、鉄は「現代的な表現」の花形素材だった。その頃の私は人体塑像に可能性を感じていて、鉄という素材には殆ど触れず仕舞いなのだが、当時、現代美術と呼称されていた表現に敏感な先輩方は鉄で作品を制作していたし、その頃の『美術手帖』で目立っていた日本の彫刻家といえば土谷武、若林奮、村岡三郎。皆さん鉄を扱っている。いまでは鉄による彫刻作品は珍しくもなく、屋外彫刻などではメジャーになり過ぎたきらいもあるが、私にとっての鉄は「新しい素材」として、いまも目の前にある。本展は、そんな私に改めて鉄と彫刻のこれからの関係を想像させてくれる機会となった。展示空間を徘徊し、佇んだ3時間。

展示作品は、台座の上にあったり、自立していたりと様々だ。自立している作品の、その接地する部分は立っている姿形とも言えるし、立たせる為の装置とも言える微妙な様相を呈している。人体彫刻では地山と呼ばれる、作品とも台座ともつかない機能がある2。それと同じと言えばそうなのだが、果たしてそう言い切れるのか。ドレスやズボンの裾だと言ってみたらどうか。立ち上がっているはずなのに垂れていて、影の様にズルズルと地面に接触する存在。これを、鉄という素材の条件——取り外しが容易であり、わずかな点によっても固定ができる——が彫刻家を導いた様相と言い換えてみよう。下から上に立ち上がる一方向からの自立とは違った彫刻の立ち方がそこにある。

主張の強い、完結させようと思えばできそうな形同士が、突然くっついて関係してしまう。これは、鉄の彫刻作品全般に抱く印象である。自然につながる形ではない。不意に訪れた事故から不可避的に導かれてしまう行きずりのサスペンス。更に近づいて見てみよう。形の結びに現れる溶接痕とグラインダーの磨き傷、そしてねじ。ここに、工夫が美的態度になる瞬間がある。無関係なものを結びつける為の物理的制約を、作品の視覚的な必然として確信犯的に馴染ませていくしたたかな技量3。ツギハギ、ボタン、ステッチといった衣服の作法と機知がここでも重なっていく。

会場風景 撮影:大谷一郎

多くは面による構成であり、薄いものの組み合わせでできている……様に見える。鉄板が薄そうで軽そうなことに起因するのだろう。だが、印象に騙されてはいけない。実際には明らかな厚みと重みがある。作品はこの鉄の印象と現実のズレを、作品の条件として引き受けることから組み立てられている。面的であり、開放的であるが、それ以上に板的である4

単一の素材で制作された作品において、作者にこれだけの出会いと別れを繰り返させる素材を私は知らない。それは鉄が一口に鉄と言われながら、多様な姿と名前を持っているからに他ならない。そして、その姿に私たちはそれぞれの物語、記憶を重ねている5。彫刻家の仕事とは、その物語を裏切り、素材をこれまで関係のなかった別の物語に巻き込んでいくことだろう。彫刻は、その結果として私たちの眼前にある姿の呼称に過ぎない。

鉄という巷でお馴染みの物質——既製品と言っても差し支えはあるまい——の持つ魅力とは、馴染みがありそうで見慣れない、軽そうで重く、硬いが柔らかい、姿形を変えて私たちの生活に近づいている、そのわかりづらさではないだろうか。鉄は、まだまだわかりづらい既製品として私たちの目の前にある。鉄彫刻というイメージを作る側と見る側で決め込まない限り、鉄は芸術の素材としての新しいルールを私たちに差し出す、かもしれない6


  1. 1993–99年
  2. そのことも含めて作品であろう。
  3. 土谷武《開放Ⅰ》上下の四角をつなぐ部分とその前方の板の厚みの違いに注目。
  4. デイヴィッド・スミス《サークルⅣ》と若林奮《北方金属》に敷かれている板(サインが刻印されている)の厚み。
  5. H形鋼=ビルの建設現場(テレビのサスペンスドラマ。鉄材が落下する一幕)。I形鋼=何となく、線路のレールを思い出す(小さな恋のメロディ、スタンド・バイ・ミー……古いなぁ)。鋼板=工事現場の床面(雨の時など特に)。丸鋼管(パイプ)=TV、映画のケンカシーンで凶器といえばこれ。etc……。
  6. 本稿では個別の作品に対する記述を意図的に避けた。それは、本展の内容は鉄による彫刻のこれまでの可能性と限界を同時に示しており、その意義を考えた際、各作品に固有の内容を記すことが憚られたからである。本稿で記した彫刻の内容は、出品作がそれぞれに保持しているものと筆者は捉えている。
    また、本稿では色彩についての指摘も意図的に避けた。話せば長くなるのが理由である。一点だけ指摘すると、鉄には塗装や磨き以外に錆や黒皮という皮膜、焼けた際の色など、色彩に多くの選択肢がある。鉄の色彩のイメージは、我々の生活に馴染み、網膜に定着している。彫刻家はこのことも視野に入れて色彩との関わりを模索している、はずだ。

『現代の眼』636号

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