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令和2年度に当館は、村上早の大型版画4点(購入2点、寄贈2点)を収蔵いたしました。そのうち《カフカ》(2014年)と《かくす》(2016年)の2点が、2022年3月18日から5月8日まで、所蔵作品展「MOMATコレクション」に展示されています。
版画は、美術館での展示が増えたことなども影響し、1980年代以降、大画面の作品も制作されるようになりましたが、一方で依然として求心的で繊細、緻密な作品も多いジャンルです。村上早は作品収蔵時にまだ20代という若手版画家ですが、その大きな作品は、他の現代美術と一緒に展示しても耐えうる力強さを備え、版表現の新たな展開を期待させるものとして、注目を集めてきました。
群馬県高崎市の動物病院を営む家庭に生まれた村上は、先天性の心臓病のため、4歳の時に手術を受けたことがあります。幼少期に受けた心臓手術や生死が隣り合わせの実家の動物病院における日常の記憶が大きく関わりながら、自身の心の傷と重ね合わせるかのように、村上は版に「傷」をつける銅版画制作へと向かい、意識的にその特性と向かい合いながら表現の可能性を追究してきました。恐怖や不安、苦痛、生と死などとの結びつきを感じさせるその表現は、私的な体験を出発点としながらも個人的な記憶を超えて、心やいのちといった根源的な問題にも深く関わっています。
《かくす》は銅版に散布した松脂の粉末の上から、直接腐蝕液を筆につけて描くスピットバイトという技法や色版も加え、線描や面の表現に拡がりを見せ始めた2016年の作品。一見すると、さわやかな青色が目を引く、空と天使が描かれた作品にも見えますが、よく見ると青いかたまり(ブルーシート)からは、克明に描かれた鳥の脚が突き出ていて、何も描かれていない人物の顔は、画面の縁で断ち切られています。ブルーシートに包まれた隠されたものと、羽をかかえてその場から立ち去ろうとする人物。単純化されたフォルムと太くて強い筆線による印象的な画面に描かれているのは、意味ありげで心穏やかならぬ、つかみどころのない場面です。
恐怖や不安にさらされた不穏さと繊細で傷つきやすい心のゆらぎが共存しながら、どこか夢か寓話の一場面のような幻想性も感じさせる村上早の作品は、見る者の想像力をさまざまに掻き立てます。
『現代の眼』637号
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