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現代の眼 展覧会レビュー みるものすべてのほんとうの姿はべつなのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです

林寿美 (インディペンデント・キュレーター)

ゲルハルト・リヒター展|会場:企画展ギャラリー[1階]

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ゲルハルト・リヒターはその作品の多様性ゆえ、キュレーターが展示に頭を悩ませる作家のひとりである。画業を振り返る回顧展の場合、初期から晩年まで編年により作品を並べるのが一般的だが、リヒターについてはそうしたところで、具象的なイメージと抽象絵画、写真やガラス作品が混在して現れ、そのスタイルに一貫性を見つけることは容易ではない。とらえどころのない作家像に戸惑う人もいるだろう。

しかしそれは、目に見える姿だけに着目しているからにすぎない。リヒターの作品には通底するテーマがあり、彼の関心は終始一貫している。それは、偶然そこに映し出されたイメージ(図像)を表すことであり、そのためのツールのひとつが「写真」だった。初期の〈フォト・ペインティング〉では新聞や雑誌の写真をモティーフとし、後には、自作の絵画を被写体にして写真作品を作り(《ルディ叔父さん》《ビルケナウ(写真ヴァージョン)》)、油彩を施す地の画面としてスナップ写真を用いている(〈オイル・オン・フォト〉)。そして写真にくわえてもうひとつ、1960年代から使い続けているものがある。ガラスや鏡だ。それらは、写真のように固定化した図像ではなく、常に変わりゆく現象としてのイメージを目の前に直接差し出してくれる。作家が何ら手をくわえずとも、だ。

図1 会場風景 左から《グレイの鏡》、《ビルケナウ》
撮影:木奥惠三 © Gerhard Richter 2022 (07062022)

リヒター自身によって構成された本展の会場は8つのセクションに分かれ、制作時期やスタイルは違えど、各空間で互いに響き合うような組み合わせで作品が展示されているが、実は、ガラスや鏡の作品がきわめて重要な位置に置かれている。まず会場に入って真正面に見えるのが《8枚のガラス》。反射率の高いアンテリオ・ガラスを用いた同作は、正対すると周囲の世界をぼんやりと映し込むだけで沈黙のなかに存在しているようだ。そこでふと左の方に目をやると、隣の部屋の奥に巨大な《グレイの鏡》があり、その鏡面上に連作《ビルケナウ》が垣間見える[図1]。実作に先だって鏡の上の反映を見せるという仕掛けは、リヒターが映し出されたイメージを重視している証左であると同時に、わたしたちが時に実像より虚像に強く惹きつけられるという事実をも明らかにするだろう。《ビルケナウ》の部屋を出てすぐ右手、入口の両脇の壁には《鏡、血のような赤》とドイツ国旗の三色をガラスに施した《黒、赤、金》がかかっている。つまり、《8枚のガラス》とこれら2点は三角形を描くように配置されて、会場に足を踏み入れた鑑賞者を取り囲み、気づかぬうちにその姿を鏡面に映し出すのである。

図2 会場風景 左《1945年2月14日》
撮影:木奥惠三 © Gerhard Richter 2022 (07062022)

さらに進んで次の部屋では、《鏡》の上に《4900の色彩》と2点の〈グレイ・ペインティング〉が相次いで現れて両者の関係を問う。そしてそこを出ようとすると、先ほどとはがらりと表情を変え、傾いた《8枚のガラス》に周囲の景色の断片が繰り返し映し出されて目を眩ませるだろう。続く、〈フォト・ペインティング〉の小部屋には、爆撃されたケルンの町の航空写真をアンテリオ・ガラス越しに見る《1945年2月14日》が紛れ込み、紙の上に記録された過去とガラス面に映る現在を繋ぐ[図2]。また、《モーターボート(第1ヴァージョン)》と《グレイの縞模様》の間でぼんやりと世界を映す《アンテリオ・ガラス》は、リヒターの作品が写真と絵画、具象と抽象のあわいに存在することを示唆し[図3]、グレイのガラスを額縁に入れて絵画のように見せかけた《鏡、グレイ》は、そばにある《ルディ叔父さん》と《8人の女性見習看護師(写真ヴァージョン)》とともに、絵画、写真、鏡像を含むすべてのイメージが幻影であることを伝えてくれる。

図3 会場風景 左から《モーターボート(第1ヴァージョン)》、《アンテリオ・ガラス》、《グレイの縞模様》
撮影:木奥惠三 © Gerhard Richter 2022 (07062022)

最後に登場する《9月》は、2001年9月11日、ニューヨークのワールド・トレード・センターに飛行機が激突した写真をリヒターが絵に描き、それをデジタルプリントにした作品であるが、2枚のガラスに挟まれることで、絵具で掻き消されて奥行きを失ったイメージはさらに薄っぺらな存在となり、瞬時に消え去ってしまうような儚さすらそなえている。そうしてみれば、本展は徹頭徹尾、ガラスと鏡に導かれるように仕組まれていることがわかる。いや、この会場だけでなく、リヒターの制作そのものを導いてきたのがガラスと鏡なのである。

我々がみている現実をあてにはできません。人がみるのは、目というレンズ装置が偶然伝え、そして日常の経験によって訂正された映像だけなのですから。それでは不十分であり、みるものすベてのほんとうの姿はべつなのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです1

 目に見える世界の不確かさを確かめるように、ガラスと鏡はそこにある。

  1. ぺーター・ザーガーによるインタヴュー(1972年)より。『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』清水穣訳、淡交社、2005年、28頁。

『現代の眼』637号

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