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現代の眼 展覧会レビュー シンロのロンシ

毛利悠子 (アーティスト)

大竹伸朗展|会場:企画展ギャラリー[1階]

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図1 会場風景|撮影:木奥惠三 中央手前は《時憶/フィードバック》2015年

 作品の表面を見ているつもりが、いつのまにか地層を追いかけて奥のほうにある過去の素材を凝視していた、そしてまた表面に戻ってくる……そんな繰り返しをしていたら、今この時から自分の記憶までが巻き込まれて、頭がラリってきた。

 展示室の先からうっすらとノイズ音が聴こえてくる。音に導かれるように進むと、中央にたたずむ《モンシェリー:スクラップ小屋としての自画像》が現れた。演歌や歌謡曲の音、タイ(?)の音楽の音、アナウンサーの声の音、ギターをかき鳴らす音、それらが静かにループしながら会場でミックスされ、モヤっと湿度を帯びた音像をつくっている。小屋の窓を覗くと、巨大なスクラップブックの背表紙にギターが貼り付けられていて、モーターで動くピックがたまにかき鳴らす音には渋いディストーションが効かせてある。小さな画面に映るのはどこか秘境のドキュメンタリー番組か、外にあるスピーカーからチャルメラのような音質の音が聴こえる。トレーラーハウスには、ゆらゆら誘惑するランプとぐねぐねとぐろを巻いた自転車のチューブ。ドイツで拾ったものだろうか。2012年、私はドイツ・カッセルで《モンシェリー》を観た。芸術祭「ドクメンタ」最終日。トレーラーハウスはある日、髪の長い大きな男がどこかで拾い、ひとり手で引きずりながら公園にもってきた、と大竹さんは言った。男はドクメンタの名物インストーラーらしい。また、最終日だから《モンシェリー》にはいつもより余計に煙を上げておいた、とも。ボートは小屋だけでなく、高い木々のあちこちにひっくり返って突き刺さっていた——

 作品を目で追いつつ、意識はいつのまにか10年前に飛び、耳には展示室の音像のループがマントラのように響く。《モンシェリー》は合計6時間のループ再生らしい。

 大竹作品の魅力を伝えるのは難しい。10年ほど前、先輩アーティストとの酒の席で、なぜ私が大竹伸朗を好きなのか説明したくても、出てくる言葉が「作品の量がハンパない」「音がかっこいい」「コラージュの層が厚い」と、てんで安っぽい感想になってしまい「それじゃわからない」とケンカになった。

 本展にしても同じだ。このエッセイを書くために言葉を見つけようと目で何かを摑もうとすると、突然煙に巻かれたように消え、別の像が現れる。オブジェや痕跡が幾層にもなって目移りが終わらず、円環はいつまでも閉じられない。

 そう、大竹作品では円環はいつまでも閉じられることがない。

 例えば、今回は横一面に展示された《ゴミ男》。床に無造作に置かれたオープンリールとパネルの間を、短いテープが回って音を流しつづける。あるいは《時憶/フィードバック》[図1]。紙きれや糸が絡み合った雲のような部分から針金でできた人型がぶら下げられ、回転するターンテーブルの上で永遠に踊らされている。おみやげコーナーで再発されたばかりの「JUKE/19」のLPでは、始まりも終わりもない音群がギターやボイスと重なっていく。私にとって大竹伸朗との出会いは高校生の時分、絵画ではなく、山塚アイとのバンド「パズルパンクス」のCDだった。夢中になり、99年に「時代の体温」展(世田谷美術館)でライブを観たのが私のほぼ初めての現代アートだったので、美術館はライブハウスのようなものだと勘違いした。タイトルが回文となっているセカンドアルバム『BUDUB【最後のBは鏡文字】』のジャケットには、赤と黄色のサイケなスパイラルが描かれている[図2]。

図2 大竹伸朗《BUDUB【最後のBは鏡文字】 Ⅰ》1996年

 円環はループだが、ループは閉じられた円環だけを意味するわけではない。永遠に終わらないスパイラル運動は、閉じられることのないループだ。あるいは、作品の表面がいつのまにか地層に裏返ったり、フィードバックしたり、一つの像を追っていくと別の像が現れるフラクタル図形のような縮小や拡大も、閉じられないループだと言える。ループとは無限のことだ。つまり、一所ひとところにとどまらず運動しつづける何かのことだ。

 本展の最初期作《「黒い」「紫電改」》以降、大竹の活動を時系列に並べると、さまざまなメディウムを介して何重ものスパイラルを描いてきたように見えてくる。この運動はいつまでも閉じられることなく、大竹の活動とともに——レコード盤とは真逆の回転で——広がっていく。長い人生の円周軌道の中では、それぞれ別々だった作品がたまに近づき、似た相貌を帯びることもあるだろう。今回、7つのテーマに腑分けされたことで、このスパイラル運動は幾分見えづらかったかもしれない。

 だが、大竹の活動の全体を俯瞰(することなど到底できないのは承知のうえで)したとすると、また別の像が浮かんでくる。大竹の膨大な作品群はそれぞれを一つの小さな歯車のようにして、自身の無窮な小宇宙を動かしている——われわれ鑑賞者の目にはほとんど止まっているように見えるほどにゆっくりと。それは、私がとある渓流で気づいた、どう見ても一所にとどまり・・・・・・・静止している苔むした岩が、何百年もかけて今も目に見えないほどゆっくりと転がりつづけている状態であるのと似ているかもしれない。大竹の場合、その場を《宇和島駅》と冠した瞬間から、美術館は、その作品群を歯車として永久運動を始めるのだった。


『現代の眼』637号

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