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現代の眼 展覧会レビュー 「近代日本美術史」の道標

佐藤道信 (東京芸術大学教授)

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 近代日本美術の作品がつくられたのは近代だが、「近代日本美術史」という言説が作られたのはじつは戦後現代である。美術館建設、展覧会、美術全集ブームや、新聞社との共催などによって、1980年頃までには巨匠、名作、史的文脈がほぼできあがった。その道標、布石となったのが重文指定作品である。その指定の経緯と基準を検証しようという今回の意欲的な企画は、とても興味深いものだった。大谷省吾、花井久穂両氏の図録論文も秀逸で、指定の経緯の時代背景や指定に携わった人々の人間模様も垣間見える。

図1 会場風景|左から鈴木長吉《鷲置物》1892年、東京国立博物館蔵、同《十二の鷹》1893年、国立工芸館蔵。右は左2点と同じくシカゴ・コロンブス世界博覧会に出品された彫刻、高村光雲《老猿》1893年、東京国立博物館蔵|撮影:木奥惠三

 「近代日本美術史」の形成で難題だったのは、国家主義を軸につくられた近代の美術を、戦後の民主主義の文脈でどう読み解くかだった。結果的にそこでは、史実の大規模な取捨選択が行われた。とりあげられたのは、戦後の現代化と国際化の論理にも合う、西洋化を進めてきた近代美術の流れ、つまり新派の日本画・西洋画、文展や美術学校など文部省系の美術である。そしてとりあげられなかったのが、宮内省や農商務省が支援した旧派の日本画・西洋画、ジャポニスムの需要にむけて輸出された輸出美術(農商務省)、そして植民地美術、戦争美術だった。その傾向は、重文指定にもはっきりと見える。こうした「近代日本美術史」での形成と削除が明らかになったのは、1990年代からの「美術」のパラダイム検証によってである。1990年代以降の指定品に、明治前半の「美術」への移行期の作品(博覧会時代の工芸)[図1]や、洋画旧派の作品[図2]などが選ばれてくるのは、その点象徴的だ。形成と削除、それによる偏向が明らかになったことで、逆にそれにとらわれない作品本位の選定が行われるようになった様子が見てとれる。植民地美術と戦争美術の研究も1990年代から進んだが、重文指定には反映されていない。これは今後もおそらく同じだろう。 

図2 会場風景|右は原田直次郎《騎龍観音》1890年、東京国立近代美術館寄託(護國寺蔵)|撮影:木奥惠三

 1950年代から70年代までの指定の推移を見ると[図3]、まず明治の日本画、次に明治の洋画・彫刻と大正期の日本画へ、そして日本画ではまず東京、次いで京都画壇の作品へという大きな流れが見える(体系化への意図)。初期の指定に携わった三名(大谷論文による)のうち、河北倫明、土方定一はそれぞれ、近代美術館の嚆矢だった国立近代美術館の中心(河北)、神奈川県立近代美術館(鎌近)の館長(土方)である。また隈元謙次郎の東京国立文化財研究所(現東京文化財研究所)は、1928年の明治大正名作展の余剰金で始まった明治大正美術史編纂事業の拠点、美術研究所(帝国美術院付属)が、戦後の文化財保護法で文化財研究所美術部となった機関である(文献史料の収集調査)。国立近美は近代日本美術の体系、鎌近はその質を問う傾向の企画が多かった中で、大正期の美術研究をいち早く進めたのは、美術批評家も多かった鎌近の研究者たちだった。大正期の作品の指定には、土方をはじめ彼らの視点が強く感じられ、同時に個や個性を志向した大正期の美術が、戦後の民主化の論理と共鳴した様子もうかがわれる。

図3 会場風景|重要文化財 指定年順年表|撮影:木奥惠三

 また文化財保護の目的は、近代初頭の廃仏毀釈などによる破壊と海外流出の防止・保護から始まった。そのため近代には、古美術が保護、当代美術は振興の対象で、その近代美術が戦後、保護・指定の対象となってからも、保存と研究が長く主目的となってきた。この流れでいえば、国宝指定が今後の課題となるだろう(近代建築では迎賓館赤坂離宮が2009年に国宝指定)。一方現在では、世界遺産や日本遺産、近代化遺産など、保存と活用の両輪をめざす動きが活発化している。エリアでの登録が多い文化遺産の場合、観光資源としての期待も大きく、単体の作品指定の美術品とは少しく性格が異なる。しかし重なる部分もあり、世界遺産への登録には、文化財保護法での指定(重文、史跡・名勝等)が前提となっている。文化財から文化遺産へという期待値が高まる中で、文化財指定に求められる意義もやや変わりつつある感がある。今後どのような両者の連携や協力、役割分担が生まれるのかも注目したい。


『現代の眼』638号

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