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木村荘八は「挿絵」を、今で言う「イラストレーション」とは異なる限定的な職能として定義していた。「コマ絵の思い出」という文章の中で、木村は図版一般を指す単語として挿絵が当時理解されていることを認めつつも、「挿絵画家」について、「或る一定のテキストに従って絵を描く特殊区域の絵師を指すものであっても新聞の広告図用にビール壜の図を描いたり或いは足袋の形を描いたりする、あれは挿絵画家の仕事とは云われない」と述べている。つまりここで木村は、広告と挿絵をはっきりと区別しているのだ。義太夫における三味線を挿絵に喩える木村にとって、それは常にテキストの補助としての役割を果たすべきものなのである。こうした考えは昭和40年代にイラストルポのブームを巻き起こした小林泰彦にも影響を与えており、イラストレーターの職能的な倫理としてしばしば取り上げられてきた。
そしてその具体的な作例として紹介されるのが、木村による永井荷風『濹東綺譚』挿絵である。昭和12 (1937)年の4月から6月にかけて新聞で連載された同作は、関東大震災後に私娼街として栄えた玉の井(現在の東京都墨田区)を舞台に小説家の主人公、大江匡と、娼婦のお雪を中心に繰り広げられる物語だ。木村は挿絵を描くにあたって同様の建築構造を持つ亀井戸の娼家に取材し、妻であるきぬが積極的に協力し綿密な取材が実施されたことが知られている。木村は自身が生まれ育った東京という都市の風俗に多大な関心を寄せており、明治から大正を経て、昭和へと時代が移り変わっていく様を数多く著述してきたことからも、この『濹東綺譚』の仕事は、そうしたパーソナリティと色街を抒情的に証言した作品内容がマッチした仕事として位置付けられている。

しかしそうした前提の上で改めて問い直してみたいのは、『濹東綺譚』の情景の豊かさは考証によってのみ得られたものなのかということである。永井の描いたお雪の家の間取りとの比較を行った唐仁原教久によると、木村の描いた挿絵は、それと「かなり違う」ようである。伊野孝行は木村がしばしば雑誌『風俗画報』の図版を参考にしていたことに触れながら、『濹東綺譚』挿絵については「『絵を作ろう』という意図はなくてもそうなっている部分はあると思う」と述べ、考証よりもその絵作りを評価している。確かに《挿絵18》[図2]などを見ると、劇的な明暗と蚊帳の黒い枠の構築性が際立つ一枚となっており、木村の確かな手腕を感じさせる。その一方で少ない手数で仕上げられた挿絵もあり、墨やインク、コンテなどを駆使した多様なテクスチャーも『濹東綺譚』挿絵の魅力となっている。

そして『濹東綺譚』の挿絵群において触れておかなければならないのは、フランス製の紙であるパピエ・ジロの使用だろう。山下新太郎から提供を受けたこの紙について、木村は「パピエ・ジロ報告」というエッセイに詳しく書いており、『濹東綺譚』の挿絵のうち8枚がこれを支持体として使用していることを明かしている。この紙の不透明な白は、和紙と違い製版してもグレーにならず、画材も選ばない紙質であると木村は述べている。そしてさらに、彼が「絶好無二の此の紙の特質」としてあげているのが、紙をひっかく「線彫り」による白い線の表現である。パピエ・ジロの厚さは、そうした特殊な技法にも耐えることを木村は強調している。先にもあげた《挿絵18》の蚊帳は線彫りによって表現されており、今回展示された《挿絵7》や《挿絵33》といった他の作例でもそれは確認することができる。「パピエ・ジロ報告」の中ではこうした白線の使用を西洋の地色のある紙の上での素描と関連付けており、西洋に学びつつも近代化する東京を描いた木村の作家性が、この線彫りに文字通り刻み込まれていると見てもいいだろう。そしてこれは、挿絵という複製表現においても「ハイライト」として印象的に機能するのだ。
そもそも『濹東綺譚』は、幻想をめぐる物語でもある。主人公の大江匡は迷宮のような色街やお雪に、江戸や明治の面影を見出す。だからこそノスタルジーを含むフィクション性を担保するために、作者の永井は実在した「玉の井」ではなく、「濹東」というタイトルを冠したのだ。そして木村は、その語りに寄り添うための考証を行いながら、自らの画趣と技法的実験を組み合わせることでそれに応えたのである。
参考文献
- 伊野孝行、南伸坊『いい絵だな』(集英社インターナショナル、2022年)
- 木村荘八『木村荘八全集 第二巻挿絵(一)』(講談社、1982年)
────『新編 東京繁昌記』(岩波書店、1993年) - 唐仁原教久『「濹東綺譚」を歩く』(白水社、2017年)
- 永井荷風『濹東綺譚』(岩波書店、1948年)
- 美術手帖編『日本イラストレーション史』(美術出版社、2010年)
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