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私は絵具を掴み取り、キャンバスに塗りつける。幾重にも重なる絵画の断面、あるいは塗り重ねられた絵具の層に、自分が生きている。
私が一番人生で幸せだと感じた小学校3年生の時だ。身体が男の子より同等か勝るほど活発に運動したり、喧嘩していた。楽しかった。だが、2年後、唐突に見た目や身体の異変、かけっこでは、どうしても男の子に勝てない自分に歯痒さを覚えた。中学校入学後、初めて制服のスカートを履いた日から女性というものを重く背負わされた感覚があった。自分自身を封印するかのように。
美大に入ると活躍している作家は男性ばかりにうつり、尊敬する先生からは「女には展覧会をさせない」と、言われたこともあった。美大に入れば女性、男性などの性別から自由に生活できるかと思っていたので落胆は大きかった。しかし、「当然か」と、すんなり受け入れる自分もいた。
鬱屈した日々に、私はギャルメイクと大きすぎるカラーコンタクトで武装して毎日絵を描いていた。卒業後、学校を離れ、アトリエという自由な時間、唯一素でいられる時間を獲得した。その時間は絵との対話で幸福そのものだ。私は、この場所にいると、とてもリラックスして描いている。気がつくと突然大きな絵ができていたり、いい絵ができていたり、酷い絵ができることもある。
ある日、唐突に、私は「アンチ・アクション」展のレビューを頼まれた。
実際に展覧会を訪れた際、草間彌生や田中敦子のように、男女問わず大きな影響を与え、アートシーンを牽引するような作品を生み出している作家がいることを改めて認識した。同時に、今回初めて知った作家の作品にも数多く出会えた。
一方で、共感できない作品も見受けられた。その理由は、いわゆるアートの主流をなぞったような、作家自身の「自我」が感じられない点にある。しかし、表面的な表現を追求することでしか、歴史に名を残せなかったという側面もあるのかもしれない。
特に印象的だったのは、平面という枠に留まらず、日用品などをキャンバスに貼り付けることで制作された作品群だった。

山崎つる子の作品は、色彩を反射的に捉え、直感的かつ瞬発力に優れた配置によって構成されている。そこには、フォルマリスティックな関心と直感的な筆致が共存している。また、当時身近な素材であったブリキや塗料が、形を変えて美術史に独自の痕跡を残す。
宮脇愛子の真鍮の塔は、四角の世界が積み重なっていながら、しかし、決して数字で表すことのできない不完全な形で完成されている。固く、重い素材に対して宮脇独自の好奇心や手の仕草を感じることができる。

田部光子の作品は、日常の中のモチーフ。ピンポン玉でできた向日葵、キャンバスにアイロンを押し付けて焦げつけた火傷の花弁、制作と日常が滑らかに繋がっている。美術の歴史などの大きな物語よりも手触りのある日常から何かを掴み取ろうとする身振り。竹箒の柄を切るなんて、一見すると、単調で、かつ過酷な労働だ。しかし、その作業には二つの相反する時間が流れている。一つは、無心の中で作業が消失し、全てが「一瞬」に感じられる時間。それは過剰な集中力によるもので、ふと気づいたらできてしまった作品かもしれない。あるいは、一本一本に「怨念」を込め、時間を刻みつける執念の時間。透明化された個人が物質を用い、私だけの世界を手で掴むように描いていたのかもしれない。
この「怨念」は、決してネガティブな意味ではない。
それは、社会によって封印された「私」を解放する行為である。これらの「アクション」は、派手なパフォーマンスとしての「アクション・ペインティング」とは真逆の性質を持つ。それは、自己を誇示するための外向的な身振りではなく、内面の痛みを物質に転写するフロッタージュのような、内向的な「対抗(アンチ)」としての行為なのだ。
それらの作品には共感があった。
平面でいられない理由。
どうしても描きたかった欲求。
私という自我の解放。
この欲求は、親や配偶者、あるいは権力、歴史、社会制度、世論といった、私たちを塗り固めてきた既成の価値観や枠組みを打ち破ろうとする力を含んでいる。効率や合理性、あるいは「女性らしさ」といった外的な枠組みを拒絶し、泥臭く、執念深く、素材と格闘し続けることの肯定である。それは、かつて奪われた「自由」を、表現という形でもう一度奪還しようとする試みである。
何度も描き、消し、加筆を繰り返し、封印されたはずの「私」が、確かに生きている。
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