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現代の眼 展覧会レビュー 「フェミニズムと映像表現」展に寄せて——終わりの見えない過程のなかで

村上由鶴 (秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻助教)

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「あなたのフェミニズムのゴールはなんなのか?」と問われることが少なくない。この問いはフェミニズムには概ね共感しているがゆえに「ゴールはあるのか?」と途方に暮れてしまった人の口をついて出てきてしまった本音のようなものであろう。その際、私は「フェミニズムとは性差別がないか点検しながら前進し続ける過程だから、こうなったらおしまいというゴールはないのだ」と説明する。このようなフェミニズムの理解に引き寄せて考えると、本展の映像表現もわかりやすいクライマックスを持つものではない。劇的な展開がない、盛り上がりがない、断片的であったりループしたりする、本展に見られる映像表現はそれ自体、ゴールの見えにくい過程を経験することではある。

ローラ・マルヴィは、「視覚的快楽と物語映画」で、男性があらゆる場面で決定権者となっている世界では、あらゆるイメージのなかで女性が常に見られるための存在として目に見えてエロティックに演出されてきたことを指摘している1。「見る」という行為において快楽を得るのは異性愛の男性であり、女性は快楽を与える「見られる」側とされてきた。しかし、本展ではいずれの作品も、この規範に沿うことはない。一見すると「視覚的で性愛的」にも見えるダラ・バーンバウムの《ワンダーウーマン》も、不必要にセクシーなコスチュームに身を包むワンダーウーマンの変身や攻撃のシーンを執拗に繰り返すことで、その「視覚的で性愛的な強度」をインフレさせ、男性中心主義社会が享受してきた「視覚的快楽」を指し示している。

会場風景|中央手前:ダラ・バーンバウム《テクノロジー/トランスフォーメーション:ワンダーウーマン》1978–79年、中央右奥:塩田千春《Bathroom》1999年、右:マーサ・ロスラー《キッチンの記号論》1975年|撮影:大谷一郎

ところで、フェミニズム的な芸術表現には「おぞましいもの(アブジェクション)」2と「キャンプ」3という、大きなふたつの傾向があるように思う。前者は、鑑賞者の心に時に傷を残すほどの攻撃として働き、作者が直面する性差別や不平等を訴える。後者はユーモアやアイロニーを用いて、男性中心主義社会の欺瞞を誇張し、おちょくり、いじり倒す。本展の出展作品において、塩田千春の《Bathroom》は前者寄りの表現と言えるだろう。見ているだけで皮膚や粘膜がじゃりじゃりと感じられる「おぞましい」表現であり、ここから女性とその皮膚が容赦のない介入に晒される社会的状況を想起することもできよう。他方、この作品を除けば本展はどちらかと言えばキャンプ的な雰囲気が漂う。

本展は遠藤麻衣×百瀬文《Love Condition》の収蔵をきっかけに、フェミニズム的なテーマに関連する収蔵作品を集めて実現に至ったという。おしゃべりに伴い、性器や性行為の要素を分析し解体するようにアイデアが交換され、粘土が変幻する映像を見ていると、鑑賞している私の頭の中にも「理想の性器」のアイデアが湧いてくる。しかし、映像内でも語られるように、そのアイデアはつい現状の性器のあり方にどうしても引っ張られてしまいもする。人間の最もやわらかい部分である性器には強固な規範がまとわりついているのだ。

会場風景|左壁面:遠藤麻衣×百瀬文《Love Condition》2020年、中央壁面:出光真子《主婦たちの一日》1979年|撮影:大谷一郎

遠藤と百瀬のおしゃべりに呼応するのは、出光真子《主婦たちの一日》である。間取り図を赤いコマとして動き回る主婦たちを見ていると、彼女たちが家の中心ではなく周縁に位置する台所にいるのが多いことが気になってくる。主婦たち自身も「あたしお台所ばっかりだわ、嫌になっちゃう」、「なんかほんとにあれね、台所が多いわね」とつぶやく。台所で重なり合う彼女たち個々人の動きが可視化されることによって、それが家庭の事情などではなく社会的な構造を反映したものだということが明らかになる。

そして台所と言えば、マーサ・ロスラーの《キッチンの記号論》である。普段は台所のあるべきところ、あるべき用途におさまっている調理道具を、狂気じみたジェスチャーで解放する本作は、台所という特定の居場所で期待される役割に応えるように要請され続ける女性たちの、秘めざるを得なかった可能性を解放するものと言えるだろう。

そういえば、フェミニズムのゴールについて問われたように、「なぜあなたはフェミニズムが好きなのか?」と問われたこともあった。本展のような、女性アーティストのフェミニズム的実践に光を当てる展覧会への注目は年々高まっている。そのなかでも、ユーモアやアイロニーの力で男性優位の社会構造を不真面目4な態度で毀損する本展の映像表現を見て、私はこれだからフェミニズムが好きなのだと再認識した。

 

1 ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」斉藤綾子訳、『imago』1992年11月号、青土社

2 「おぞましいもの(アブジェクション)」とは、ジュリア・クリステヴァが『恐怖の権力—〈アブジェクシオン〉試論』において提起した概念である。松井みどりは、『アート:“芸術”が終わった後の“アート”』(朝日出版社、2002年)において、「アブジェクト」を、「父親を中心とした、理性的で生産的な組織や生活規範」によって「抑圧を受けながら、抑圧されればされるほど強く、人間にとってそれが避けられないものであることをあらわにしてくる、自分(文明)のなかの「闇」(不可能)の部分」と説明している(100頁)。

3 「キャンプ」とは、スーザン・ソンタグが「《キャンプ》についてのノート」(『反解釈』所収、高橋康也ほか訳、ちくま学芸文庫、1996年)において提起した概念である。

4 ソンタグは、「キャンプの趣旨は、要するに、真面目なものを王座から引きずりおろすことだ。キャンプはふざけており、不真面目である」と述べている(「《キャンプ》についてのノート」454頁)。


『現代の眼』639号

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