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詩人アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』を刊行し、シュルレアリスム運動が公的に開始されたのは1924年のことである。本年はそこからちょうど100周年にあたる。これに合わせ「所蔵作品展 MOMATコレクション」の一室において、「シュルレアリスム100年」と題された展示が行われた。会場にはヨーロッパ、アメリカ、日本のシュルレアリスムとその周辺の作品および同時代資料が展示され、新収蔵のマックス・エルンストによるフロッタージュ作品《砂漠の花(砂漠のバラ)》(1925年)も初めて公開された[図1、2]。
フロッタージュとは支持体の下に置かれたものを上からこすることによって転写する技法であり、そこで定着されるのはあくまで物質的痕跡である。《砂漠の花》においてエルンストは様々な操作を行うことによって、この物質痕跡を女性の身体(同時に男性器に見えなくもない)のイメージに変換している。ここでは「こする」という性的暗喩を含んだ身体的動作の痕跡と、欲望の対象としての女性の身体が重ね合わされているのである。この作品を見るものは、物質的痕跡とイメージの間で宙吊りにされながら、その空隙に残されたエルンストの欲望に感応することになる。
シュルレアリスムにおいて欲望は重要な問題系の一つだが、フロイト的な意味における欲望は性的な身体と切り離すことができない。とすれば、シュルレアリスム絵画とはこうした身体性が刻印される物質的な場とみなしうる。出品されたすべての作品にこのことを当てはめうるわけではないが、やはりエルンストの《マルスリーヌ・マリー(『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』より)》(1929–30年)に目を移せば、コラージュされた十字架上のイエス・キリストの局部に女性が手を触れている。マリアの処女懐胎によって受肉した(つまり物質化した)はずの神の子は、それにもかかわらずここでは、その性的な身体性を露呈させられてしまっているのである。あるいはハンス・ベルメールの《人形》(1935–75年)においても、少女人形のエロティックな身体性が、写真という物質的痕跡(つまり光の痕跡)のなかに定着させられている。
日本の何人かのシュルレアリスム画家たちもまた身体性の問題を扱っている。だが瑛九のコラージュ《無題》(1937年)を別にすれば、そこにあるのは性的な身体というよりも、死にゆく身体、凝固した身体、腐って土に分解されていく身体である。寺田政明の《魔術の創造》と杉全直の《轍》(ともに1938年)は直接的に内臓や骨、死骸のイメージを描き出している。当然これらは戦時下という時代背景と結びついているわけだが、このことは小牧源太郎によるエルンストやイヴ・タンギーを想起させる作品《願望 No.1》(1938年)において、石化した女性たちの身体の背後にいくつものパラシュートが落下していることからも明らかである。そもそもシュルレアリスム自体が、ブルトンの場合にせよ、エルンストの場合にせよ、第一次世界大戦への従軍体験と切り離すことができない。確かに、浅原清隆の《郷愁》(1938年)や浜田浜雄の《ユパス》(1939年)といったサルバドール・ダリを想起させるイメージの方に、欧米のシュルレアリスムとの近接性は見出しやすいだろう。とはいえ日本の画家たちが、シュルレアリスムから特殊な身体性のイメージを受け取り、それを自らが置かれた戦時下という状況において利用したということはいえるだろう。このことは靉光の代表作(今回は出品されていないが)《眼のある風景》(1938年)にもよく示されている。
このように本展示は実作によって欧米と日本のシュルレアリスムを比較できる貴重な機会であると同時に、筆者にとってはシュルレアリスムのイメージにおける身体性とその伝播について再考を促してくれる場となった。続く展示室にかけられたいくつかの戦争画の身体が、逆説的ではあるが、まるで書割りのようなイメージとして描き出されていることによっても、こうした印象は一層強められた。
最後に二点、つけ加えておく。まず上記の問題系とは別の意味で飯田操朗の《風景》(1935年)[図2]における色彩鮮やかに立ち上がるイメージに強い印象を受けたことを記しておきたい。また靉光の《作品》(1940年)[図3]に描かれた頭部が異常に肥大した人間のイメージを目にした数日後、あるホラー小説を読んだ際、筆者は同様のイメージに出会った。シュルレアリストたちが好んだ客観的偶然、あるいはフロイトのいう「不気味なもの」のささやかな例といえるだろうか。
『現代の眼』639号
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