見る・聞く・読む

現代の眼 オンライン版 展覧会レビュー 「特別陳列 北村武資」に寄せて

土屋順紀 (染織家・重要無形文化財「紋紗」保持者)

戻る

会場に入って思ったのはとてつもなくすごい。北村武資先生は作品発表の都度、何か挑戦があるんですね。日本伝統工芸展などで拝見するのは1会期に1点ずつです。こうして一堂に並んだところを前にすると、組織、糸遣い、そして効果と変化が明確となりました。同じものは全くないのです。すべてが挑戦で、そこに集約された考えの軌跡が見え、この展示で焦点を当てた2012年からの10年がこんなにも濃厚で凝縮された織の美だったのかと感動いたしました。

1996年の重要無形文化財「羅」伝承者養成研修会で接した仕事場での北村先生は、織のシステムを知り尽くし、身体の動きもそこにぴったり連動し、一連の流れは北村マジックと呼びたくなるようでした。それが糸の質感であるとか、経糸と緯糸の重なりとか、生地のおもてに出るもの、裏に回る、あるいは陰に潜むものとあらゆることに目を行き届かせた結果、あの織物でなくてはできないデザインとなったのだと思います。

2020年の《透文羅「田相文様」》(図1)は、今回印象に残った1点です。透文羅は70年代にファイバーアートに関心を持ったのが制作を始めたきっかけの1つとなったと書いていらっしゃいましたが、なるほどと、面白く読んだのを覚えています。以前の透文羅といえば単彩としての仕事で、動くような経糸が特徴的な織構造をご自身の表現とみなされていました。ふつうはそこで完成形です。ところが《田相文様》は経糸を黄、緯糸は青とはっきり色を変えてありました。新たな奥行が生まれ、実際の色数以上に、玉虫のようにいろんな色が見え始めてきます。不思議、と見る人に思わせますね。こうした試みや変化はバリエーションの範疇に収まらない。それでいて透文羅でなければできないことだとも思います。

もともと私は先生の透文羅が好きで、実は経錦は透文羅ほどには惹かれていなかったのですが、今回あらためて経錦の魅力に開眼しました。《渦流文経錦》(2021年)は流水や巴文のような、元をたどれば古典に行き着くのでしょうが、今の時代の感性に基づいたデザインになっているんですね。第一、経錦は3色の経糸を1セットとして機にかけ、それが入れ替わりながら文様を織成していくなかで、あれだけの自然な曲線が描かれたというのは実に見事です。

経錦といえば2012年の《経錦帯「春苑」》(図2)は衝撃的な作品です。日本伝統工芸染織展会場で大いに驚き、そのすごさを前に、皆と一緒にもう笑うしかありませんでした。70センチ幅にあれだけの大輪の梅です。経糸の操作が難しいから経錦は小さな文様しか織れないという常識が一気に覆されましたからね。色遣いも大胆で、でも品格に満ちている。ある種の挑戦状だということは間違いありません。

能ではよく「老木に花」といいますね。「花は散らで残りしなり」(世阿弥『風姿花伝』)。そこに理想的な価値が認められるとされます。ところが展示を見ていると、北村先生の場合はまだまだ燃えていて、これからどうなっていくのかと期待してしまうほどです。挑戦される姿を本当にもっと見ていたかったし、勉強したかった。しかし北村武資先生は今年の3月末に他界され、喪失感の大きさが会場で感じたもう1つのことでした。

先生がよくおっしゃっていたのは、ご自分も古代の羅という織から奮起して進んできた。良い物を残しておきたい。そうすれば違う時代、違う国であっても誰かの光となるかもしれないのだと。私が最初に師事した志村ふくみ先生(重要無形文化財「紬織」保持者)に、「なぜ、ひとは/ガラス絵や、貝殻や、玉をみるように/織物をみようとしないのだろう」という詩があります。まさしくそのとおりだと思います。北村先生は70センチという広幅の裂地で制作を続けられましたが、それがただ掛かっている状態、それだけで十分すぎるほどに美しいのです。

工芸には「用の美」という言葉がついて回りますが、切畑健先生(京都国立博物館名誉館員)は「真の鑑賞」、見るだけでいい、それもまた用の美であるとおっしゃいました。「誰が袖図屏風」にしろ、日本には本来そういう美的価値観があったはずなのです。北村作品の建築的立体的な構造の美に入り込めたなら、あるいはそうした境地が開かれるのかもしれません。

インタビュー・文責:今井陽子(国立工芸館主任研究員)

(『現代の眼』637号)

公開日:

Page Top