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現代の眼 オンライン版 新しいコレクション 初代山川孝次《金銀象嵌環付花瓶》
戻る紡錘形の中央胴部を残した形の銅製花瓶で、器面全体に如意文、雷文、菱青海波文、変形パルメット文、獣面といったさまざまな文様がちりばめられています。こうした文様の由来は、中国や中央アジア、ヨーロッパに求められ、この作品の図案が、各地の文様を取り混ぜて構成されていることをうかがわせます。
本作には図案が残っています[図1]。この図案が掲載された図案集は、殖産興業を目的に内外の博覧会に出品するため、明治政府が主導し、工芸品の図案を画工に描かせ、それを全国の問屋や工芸家に配布、制作させるという政策において編纂されたものです。なかには工芸家が提案した図案に政府部署の官員が修正を加え、それを画家が筆写したものも含まれるといわれますが、いずれにしても図案と実際の作品が照合できる例は限られており、政府が図案指導を行い、当時の美術工芸品に大きな影響を与えたことを示す例として、貴重な作品です。
本作で図案は、素地の地金に、文様の形に溝や面を彫り、そこへ金や銀といった地金とは異なる種類の金属を象嵌する彫金技法であらわされています。彫金技法は江戸時代に武具類に用いられ高度に発展していましたが、明治維新により、封建的身分制度が廃止されるなど、社会の仕組みが次々と変わっていくなかで、作る対象そのものが急速に不要なものとなってしまいます。こうした事態に直面し、この時代の工芸家の多くが、海外輸出に活路を見出していきました。本作において、図案から実際の作品を制作した加賀象嵌の名工、初代山川孝次も、まさにこうした変転の時代を生きた工芸家でした。
山川は、金沢の地で市井の人々に人気の作風で評価を得た実力者でした。山川が手がけた刀装具が今日に伝わっています。そのうちのひとつでは、武家に人気のモチーフであった虎が取り上げられており、高彫で立体的にあらわされ、牙を剥く表情や毛並みが繊細かつ生き生きと造形化されています。こうした特徴から、自由な作風で知られた江戸の名工・横谷宗珉(よこやそうみん)にちなんで、山川が「加賀宗珉」(そうみん)の異名をとったという伝聞も頷けます。その力量が認められ、山川は1862(文久2)年に、12代加賀藩主前田斉泰(なりやす)に登用されています。
維新後、山川は、海外のコレクターや資産家向けの高級銅器の製造を目的とし1877(明治10)年に開業した銅器会社に入りました。会社設立当初の職工は50余人ともいわれています。そのなかには、山川をはじめ、藩政時代からの名工とされる平岡忠蔵(ひらおかちゅうぞう)、八代水野源六(みずのげんろく)らが名を連ねていました。江戸時代から培われてきた高い技術を背景に、銅器会社の制作した作品は国内外の博覧会で受賞しています。
図案集の手本を見るような本作に、軽妙さや洒脱さを発揮していた山川の作風を見出すことは困難です。銅器会社では、制作に多くの職工が携わり、山川はそのまとめ役としてディレクター的な役割を担っていたという点も彼の作風が影をひそめた要因となっているのでしょう。本作には銘がありませんが、第1回内国勧業博覧会(1877年)に本作と同じ作品一対が山川孝次作として出品されています。
この後1882(明治15)年、山川は54歳でこの世を去ります。歴史に「もし」はタブーですが、山川がもう少し長生きしていたのなら、変転期を潜り抜け、再び山川らしい個性を活かした新たな作品が評価された時代が到来していたかもしれません。同じ彫金の技でこの時代を生き抜いた加納夏雄が帝室技芸員(日本の戦前期に、優れた美術工芸作家に与えられた栄誉職)に任命されたのは、山川の没後8年後の1890(明治23)年のことでした。個性をひそめ、時代の要請を高いレベルで受けとめ制作された本作に、明治の変転がいかに大きな影響を工芸家たちに及ぼしたかが偲ばれます。
(『現代の眼』637号)
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