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現代の眼 オンライン版 展覧会レビュー 複数の旅への指南書
戻る移転後初めて訪れた工芸館は、木製の階段を中心に左右に分かれて続く展示室が皇居横のかつての工芸館を自ずと想起させる。身体は金沢にいながら、一瞬、東京へと心が旅する。
そもそも美術作品も美術館も、私たちを今こことは別の時間や場所へと誘ってくれるものであった。だから今回の「旅する」というテーマは、工芸館にとっては極めて親和性が高く、また実際に展示を見ていくと、複数の旅の形が立ち現れてくる。
本展の主軸は地理的な移動の旅にある。日本を出港した船が各国へ寄港し、搭乗者たちが見聞を広めて帰国する。グランドツアーといったところだろうか。最初の訪問地にイギリスが選ばれているのは、日常と芸術の結節点に工芸=応用芸術を位置づけたアーツ・アンド・クラフツ運動に、近代工芸の端緒をみているからだろう。
しかし、アメリカ、フランス、ヨーロッパ各国から北南米の国へと旅を続けていくうちに、ふいに「国」とは一体何だろうという気持ちが湧いてくる。それぞれの国に特有のデザインは確かにある。気候や風土が素材や技術の選択に与える影響は無視できないし、それ以上に、国民国家誕生以降、アイデンティティの拠り所として掲げられた「国民性」という概念は、問題を孕みながらも私たちの思考/志向に少なからぬ影響を与えてきた。イタリアの明るい色彩と饒舌なフォルム。ドイツの合理的でストイックな造形。それらは否定し難い。
しかし少し引いてみれば、簡単に回収できない造形は山ほどあるし、そもそも国のなかには州や県、さらに小さな単位の町があり、もっと言えば古くからの村やコミュニティなど行政単位では括ることのできない独自の場所がある。旅の途上に「イギリス領香港」[図1]や、故郷において他者であることを余儀なくされた「アメリカ(日系アメリカ人)」を加えているのは、そうした問題に対する本展なりの一つの向き合い方でもあるだろう。このことは見方を変えれば、地理的な旅が国という単位を超えたグラデーションのある世界の把握へと私たちの目を開かせる可能性があることを示しているのではないか。旅行者は完全なる他者として、観察者として訪問地を見聞するものである。旅は私たちを自覚的にさせる契機となり得る。
本展ではまた、地理的な旅に時間旅行が組み込まれている。美術館が過去に遡って作品を収集する以上、時間は外すことのできない因子となる。例えばイギリスで1930年代に制作されたウィリアム・ステート=マリーの作品に続いてルーシー・リーやハンス・コパーの作品を前にすれば、その間に見えない糸が浮かびあがり、20年という歳月を一気に旅することができるだろう。あるいはドイツの展示では、制作年順に作品が降ったところで、100年前へと時間が巻き戻り、またそこから制作年順に作品が降っていく。それがときに混乱を招くとしても、時間は時計が針を刻むように単線的に進むわけではないし、ある種の造形にだけ受け継がれる独自の時間があり、過去を発見して遡及的に生まれる時間もある。
この時間旅行にはさらに、個人の時間というもう一つの旅が組み込まれている。美術館が一人の作家の変遷を追いながら複数の作品を収集するには限りがある。美術館はしばしば、その作家の「一番いいとき」の作品を集め、大きな一つの歴史を編もうとしてきた。しかし言うまでもなく作家は各々の時間を生きている。ルース・ダックワースの作品だけを収めた展示ケース[図2]を前に、40年以上のキャリアに生じた格段の変化を見れば、私たちは知らない彼女の人生を旅した気持ちにもなるだろう。
時間は常に複数存在する。美術館はその経験のための場所でもある。
展覧会の補足リーフレットを見ると、今回紹介された作家たちが、しばしば大きく国を移動しながら活動していたことに気づかされる。アメリカからオランダへ移住したリチャード・マイトナー。オーストリアからアメリカを経て香港へ移住したヘンリー・スタイナー。こうした作家たちの移動は改めて、作品を「国」という枠組みで括ることの困難を明らかにするが(その自覚ゆえに本展では、リーフレットで移動の詳細を提示し、ときに国を超えた影響関係として里見宗次など日本の作家の作品を並置してみせるのだろう)、一方でそれらは、個人の変遷と地理的移動、個人の時間と大きな歴史といった、クロスオーバーする複数の旅の形を浮かびあがらせ、私たちの思考を刺激する。
様々な旅の経験ができる展覧会である。限られたスペースで展開するには個々の問題が大きすぎるのは仕方がないことで、旅の仕掛けが、それらの大きな問題を考える契機になることが重要だろう。私たちに旅の続きを見させること、旅に向かわせることが、美術館にできることでもある。
(『現代の眼』637号)
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