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現代の眼 オンライン版 新しいコレクション 岡部嶺男《窯変米色瓷博山炉》

宮川典子 (工芸課任期付研究員)

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岡部嶺男(1919–1990)
《窯変米色瓷博山炉》
1973(昭和48)年
陶器
高さ19.7、幅17.6、奥行18.0cm
2025(令和7)年度購入
撮影:品野塁

博山炉はくさんろ1とは、神々や仙人が住む空想上の山である博山を象る蓋が伴った香炉をさします。中で香を焚くと、山の間に設けられた透かし孔から、たなびく雲のように煙が漏れ出るという趣向です。

本作は、胴の形が袴をはいた姿のように見えることから、日本では「袴腰」の名で知られる胴部に、漢~南北朝時代の博山炉にみられる山塊様の蓋が合わさったような造形を呈しています。岡部嶺男(1919–1990)は、1971(昭和46)年の個展2で初めて博山炉を発表し、それはポスターやチラシ、図録の表紙などにも使われ話題となりました。本作はその2年後に発表されたもので、蓋や身の装飾が大きくなり、造形としての強さが増し、香炉の域を超えた存在感があります。岡部の博山炉は名称こそ古陶磁からとっていますが、その造形は古陶磁にはない、岡部自らが生み出したものです。

岡部は、陶芸家の父・加藤唐九郎の長男として、愛知県瀬戸市に生まれました。青瓷、織部などを得意とし、「嶺男青瓷」と言われる独自の作風で知られています。生家は窯道具の製造業を営み、このような背景から幼少の頃から作陶にかかわる高い技術の薫陶を受けました。1937(昭和12)年に愛知県立瀬戸窯業学校(現・愛知県立瀬戸工科高等学校)を卒業し東京物理学校(現・東京理科大学)に入学しますが、1940(昭和15)年に入営し、作陶を中断します。本格的な作陶生活に入ったのは、復員後の1947(昭和22)年、28歳の頃でした。1962(昭和37)年頃から青磁の研究をはじめ、1965(昭和40)年には粉青磁を完成し、その作品は宋代の青磁をしのぐともされ、その評価を確固たるものとしました。

岡部の作品は主に3つの画期に分かれます。1つ目に出身地の愛知県瀬戸市の伝統技法をもとに制作された織部・志野・黄瀬戸・灰釉・鉄釉など、2つ目に青瓷の作品群、そして、3つ目に天目の作品群です。

岡部が生み出した青瓷は、実に様々な種類があり、それぞれに釉色や釉調が異なります。青瓷といえば「天青色」の言葉にみられるように空の青の色をイメージしますが、本作は「窯変米色瓷」に属し、淡黄褐色を帯びています。酸化焼成によって黄味を帯びた米色の青瓷は、岡部が作った窯変専用の窯から生み出された作品でした。

岡部の青瓷は中国古陶磁の模倣を目指したものではなく、地元の伝統技法、つまり「灰釉陶から自然発展した青瓷(灰釉)」から導き出されたものであり、これは彼の青瓷が唯一無二であることを示しているといえるでしょう。岡部は地元でとれる素材で青瓷に迫ろうとしていました。彼の哲学ともいえる「土や釉薬が生かされていないと、作品として魅力あるものにならない」という考え方は、彼が生まれ育った瀬戸の地への深い理解とゆるぎない信念、研究・検証へとつながり、造形へと昇華していったことがうかがえます。


1 前漢時代の中国で神仙思想が流行し、世界の中心にそびえるとされる崑崙山こんろんさんを模した博山炉が作られました。加えて、東南アジアや西アジアから龍脳樹などの樹脂性の香料が伝わるようになると、それらを焚くのにより適した深さのある博山炉が登場します。南北朝時代になると、博山炉は漢時代の基本的な形態を継承しつつ、材質の面では青銅製や緑釉陶に代わり青磁の作例が主流となりました。
2 「火と土に賭ける鬼才の全貌 嶺男展」日本橋髙島屋(東京)

(『現代の眼』641号)

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