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現代の眼 オンライン版 展覧会レビュー もようの深度 

池田晃将  (工藝美術家)

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近代以降、装飾はしだいに表面化した。

プリント技術など機械工業の発展に伴い、模様は短時間で反復可能なものとなっている。物の表層に「もよう」が貼り付いたかのように、模様の厚みは表面へ押し出され、人はそれを文字通り表面として受け取るようになる。今や模様は遠く仰ぎ見るものではなく、身近で、すぐに手に取れる対象である。しかし本来、模様は単なる機械的なパターンではなく、物に権威と時間、そしてそれに伴う希少性をまとわせるものであった。すなわち、物を日常的な機能から引き離し、遠く、特別な憧れを抱かせるための技術であったと言える。では、手による労働から切り離された模様のアウラは凋落したと仮定しても、人の手によって生まれた「模様を愛でる」という人類史における美意識の発露を、現代人はいまなお感受できるのだろうか。

図1 富本憲吉《色絵金銀彩羊歯文八角飾箱》1959年、国立工芸館蔵|撮影:斎城卓

展示室2「いっこ・いっぱい−もようを数える」では、富本憲吉の《色絵金銀彩羊歯文八角飾箱》[図1]を取り上げる。八角形の陶箱天面には規則的に金銀彩で羊歯文様が描かれているが、側面には繋がらない。既存の模様を転用し、詳細に図案化した上で、機械的に反復するならばこうはならないだろう。単なる反復による表面の整合性よりも、形に対して模様を着せる際にバランスをとっていた姿勢が窺える。ここに富本の自然観察による抽象化という身体性、即興的に模様を着せる調和の妙が顕著に表れた作例といえよう。

図2 池田晃将《Error403》2020年、国立工芸館蔵|撮影:エス・アンド・ティ フォト
図3 上原美智子《チェック 白》2002年、国立工芸館蔵|撮影:斎城卓

展示室3「きっちり・どっきり−もように驚く」では池田晃将《Error403》[図2]と上原美智子《チェック 白》[図3]をあげる。拙作に言及するのはいささか不粋ではあるが、数字の形に切り出された螺鈿をあえて機械的に反復し、デジタル以後の世界でもなお装飾が権威を持つのか、という実践に取り組んでいる。重要なのは埋め込まれた螺鈿の模様が表面だけではなく、見る者の位置や光源によって変化するということである。画像としてすぐ複製・流通できる現代の視覚文化に対して、実物の前でしか経験できない光を作り出すことができる。漆や螺鈿による時間の蓄積によって「物質の密度」を立ち上げる一方で、上原美智子は、絹糸の細さ、透過性、ゆらぎを通して「物質の軽やかさ」を立ち上げている。「最高の質感は空気である」という作者の思想通り、極細の絹糸を急ぐことなく、柔らかく織り成し、素材の持つ自然の気配そのものを顕現している。その中のわずかな絹糸の差異によって現れるチェックは、模様というよりも有機的構造体に近い。息を呑むほど美しい素材との対話は、工芸を「手仕事の美」という言葉に閉じ込めるだけではなく、自然、身体、時間、精神性が交差する思索的行為として見るべきである。

マルクスの資本論の中に、次のような一文がある。
「人間は、自然素材を自分自身の生存のために使用できる形態で私有するために、自然力に属する彼の身体、つまり腕や足、頭や手を運動させる。この運動を通じて、人間は、自分の外なる自然に作用し、それを変化させると同時に、自分の内なる自然を変化させる」。

つまり自然素材との代謝関係を経て、かねてより工芸家は思索的な訓練を引き受ける立場をとってきた。その上で、複製、消費、情報が飽和した現代において重要なことは、物質がなお人間に距離を感じさせる瞬間を作ることではないだろうか。工芸には装飾を単なる表層的な模様ではなく、再び物質のうちにそれを宿らせる可能性がある。素材との対話で生まれる創造性は、いまだ尽くされていない。人類が工学的進歩から逃れることはできないにせよ、いずれ鑑賞者としてもう一度労働の手に回復した工芸が溢れる世界を見てみたいと願う。

※ 一回性の権威や儀礼的距離

(『現代の眼』641号)

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