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昨年開催した「生誕150年 横山大観展」において新出作品として紹介した《白衣観音》がコレクションに加わりました。1912年に刊行された『大観画集』に掲載されて以降、所在不明だった作品です。一緒に伝わった軸箱の蓋裏にはいつ書かれたものか、「明治四十一年春日 大観自題」とあります。
1908年という制作年は作風に照らして妥当と考えられます。大観はこれより5年遡る1903年に、盟友の菱田春草とともにインドに渡りました。滞在は半年に満たなかったのですが、それからというもの、大観は数年にわたって仏教画題の作品に「インド風」を盛り込んでいます。サリーのような衣裳にきらびやかな宝飾品や、弓なりの長い眉に大きく切れ長で二重まぶたの眼、鼻筋がとおって小鼻が張った鼻といった相貌などです。異国風な顔かたちに対するこだわりは、1909年の《流燈》(茨城県近代美術館蔵)の時点ですでに薄れていますが、まだそれが色濃く残る《白衣観音》が《流燈》より一年半早いというのは辻褄が合います。
疑念があるとしたら、この年にこんな大作を、一体誰が注文したのかという点です。日本美術院の移転に従って茨城県の五いづ浦らに移住してから一年余り、この春に大観はまだ同地に住んでいました。五浦の大観のもとに絵を買いに来る画商はほとんどいなかった。そう回想していたのは大観その人だったはずですが……。
ここで注目したいのは、前述の『大観画集』に所有者として名前が載る森本六兵衛です。この人物は神戸で醸造業の傍ら倉庫業を営み、やがて仏教に帰依して家業を二代目に譲りました。別名は瑞明。大谷探検隊で知られる大谷光瑞から一字をもらったと言い、大正から昭和にかけて光瑞や大谷尊由の周辺でチラチラと名前が登場します。
大観がインドに渡った理由のひとつは、日本美術の源流としてのインドで何かを掴み、仏教をテーマとする作品に新風を吹き込もうという野心だったことでしょう。同じ時期に仏教の源流を求めてインドに渡った大谷光瑞その人に心酔した森本瑞明。この人物なら、サリーを着た観音を大観に直接依頼しそうな気もしますが、現時点では未だ確実とは言えません。
なお、記録に残る大観と瑞明の接点としては、1911年秋に京都市立絵画専門学校に進んだばかりの村上華岳を大観に紹介したこと、1925年から1957年までの大観への作画依頼を記録した「依頼画控」(横山大観記念館蔵)に、瑞明からの依頼が一件だけ記録されていることが挙げられます。興味は尽きません。
『現代の眼』632号
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