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現代の眼 展覧会レビュー レンズの秩序と絵具の論理のはざまで

松下哲也 (近現代美術史家)

ピーター・ドイグ展|会場:企画展ギャラリー[1階]

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ピーター・ドイグの作品はきわめて映像的であると同時に絵画的でもある。これは多くの論者によってすでに指摘されていることだ。だが、作家本人は以下のように語っている。

人はよくわたしの絵を見て映画の特定のシーンや本のある一節を思い出すと言いますが、わたしはそれらとは完全に異なるものだと考えています。(中略)自分自身の絵について言えば(中略)それは不可避的に物質性と関わっています。それらはまったくもって非言語的なのです1

このドイグの見解は、時間芸術と空間芸術の対比によって諸芸術の特性を明確化しようとする18世紀ドイツの文筆家レッシングのアプローチの延長線上にある。西洋では伝統的に「絵は黙せる詩、詩は語る絵」という芸術観が信奉されてきた。美術と文学は互いによく似た姉妹のような芸術だというのである。それもあって、西洋では長らく物語の1シーンを描く物語画こそがもっとも権威ある絵画ジャンルであるとされてきた。ところが、レッシングは『ラオコーン』(1766年)の中で、視覚芸術は何らかの静止した物体を空間に設置する空間芸術であり、文学や舞台など作品自体に時間の流れが必要な時間芸術とは明確に区別されるべきだと論じたのである。たとえ鑑賞者が画面の中のイメージに何らかの物語を感じ取ったとしても、絵画は静止した物体でしかない。ドイグの発言はこの点に自覚的である。

このインタビューの中で、ドイグは自作を物語画の一種には位置づけておらず、むしろ非言語的な物質性とイメージの関連性を押し出している。しかし、それでも私たちは彼の作品から映画的な要素を見いだしてしまう。それが物語や言語ではないというのなら、彼の作品のどこが映画的なのだろうか。

会場風景(中央は《花の家(そこで会いましょう)》)│撮影:木奥惠三

それは遠近法である。たとえば《花の家(そこで会いましょう)》のフラットな構成は、望遠レンズで撮影された映像に見られる圧縮効果(離れている被写体同士の距離が縮んで見える現象)に酷似している。また、ブロック塀とレンガまたはタイルの壁を抽象化したと思われる長方形のモティーフは、中望遠〜望遠域のレンズでそれらの対象を撮影することで得られる幾何学的な形態によく似ている。たとえば、ドイグとチェ・ラヴレスが主催する映画上映会「スタジオフィルムクラブ」の告知用ドローイング群の中に見られる小津安二郎の「東京物語」は、中望遠域のレンズを用いて戦後の日本家屋が持つ水平垂直の形態を幾何学的に構成した画面で有名だ。小津の場合、画面を構成する長方形のモティーフは障子やガラス戸だが、ドイグの場合はそれがレンガやブロックになるのである。

中望遠以上のレンズを使うので、対象と距離を取らなければ、このような映像は撮影できない。同様に、鑑賞者が絵から離れなければ、ドイグが言うところの「物質」つまり絵具が具象的なイメージに見えることもない。絵画では、物理的な絵具の層とイメージ上の奥行きの反転がしばしば起きる。たとえば、下地に近い層に塗られた絵具がもっとも手前にあるように見え、逆に厚く盛られた絵具の頂点が奥まって見えることがある。現代絵画ではこのような逆転現象を意図的に操作することが多い。そしてドイグの絵画は、空間を切り取るカメラの位置と鑑賞者の位置がちょうど対応しているように感じさせるのだ。

レンズの秩序に絵具の論理を合流させること。これこそがドイグの絵画が持つ空間性の特徴に他ならない。


  1. マシュー・ヒッグス(桝田倫広、吉村真訳)「ピーター・ドイグ──20の質問(2001年)」『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、207頁。

『現代の眼』635号

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