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現代の眼 展覧会レビュー 内なるスタジオ

梅津庸一 (美術家)

ピーター・ドイグ展|会場:企画展ギャラリー[1階]

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ピーター・ドイグを語るのは容易ではない。例えば《エコー湖》(1998年)では引用元である映画「13日の金曜日」の他にデビット・ミルン、ニューマン、ボナール、ムンクなど言及すべき参照項が無数にあることに戸惑うだろう。さらにドイグの作品は時期によって絵画様式が異なる上に、作品が別の作家の作品と過度にネットワークを結んでいるため画家の全体像を捉えるのが難しい。もちろん、先行する美術作品や映画をはじめとする視覚文化のリソースに依拠しない作家など存在しない。ドイグの作品は一見、オーガニックで絵画を描く喜びに満ちているように見える。しかし、いわゆる天性の才能や絵画制作における表現主義的な意味での即興性と決断力によって作品が作られているとは言い難い。優れた画家であることは間違いないが、彼は自身の凡庸さ、平凡さと向き合い、人一倍葛藤し続けてきた画家なのではないか。このことがドイグを語ることを難しくしていると言えないだろうか。

会場風景│撮影:木奥惠三

どういうことか。ドイグ作品の構造だけを抜き出せば、つぎはぎだらけのモンタージュのようだと言える。ドイグ作品に登場するモチーフの形態は家であれ、人物であれ全てがぎこちなく、スナップ写真や絵葉書や映画のワンシーンなどの元ネタに準拠しているし、作例によってはまるで転写したように元ネタの形態とフォルムが一緒である。ドローイングを経由させることで多少、デフォルメを加えることはあるものの、ドイグ作品に登場するモチーフには伝統的な画家のような卓越したデッサンによる肉付けや、キュビスムのようなひとつの形式に基づいた還元は見られない。わたしはドイグのスタジオを覗いたことがないが、ドイグ作品にはあたかもプロジェクターでキャンバスに投影したイメージを筆でなぞったり、型紙を使って描いたりしたような形が散見される。あるいは、それらのアウトラインに拘束されながらも、わざと稚拙な形に歪めたりもしている。キャンバス上で「正解の形」に至るまで何度も修正したような痕跡は見受けられず、試行錯誤の痕跡があったとしても、それはわざと「マーキング」のように残されているに過ぎない。そもそもドイグにとっての「正解」は、どんなにドイグが様々な絵画様式を取り入れていようとも、近代の画家たちとは根本的に異なる。例えば再現性のある描画パートとニューマンの「ジップ」に由来する水平の帯のパートの界面は、通常であれば齟齬をきたすだろう。ドイグの作品の中では本来であれば無関係であるはずのものたちが唐突に出会う。にもかかわらず、ちぐはぐな印象を受けない。またドイグは描くことによって得られる手応えを常に疑っているように思える。確かな参照元があるからこそ描画の結果を逆算し、絵具の物質性をよく吟味し、各パートの表面の質感や肌理を徹底的に編集し尽くすことを可能にしている。例えばそれは白の絵具の使い方からも明らかだろう。上層の絵具のベースを担う、噴霧される、キャンバスの目に染み入るように滴る、厚ぼったく斑状に塗るなど、絵具の白をたんに「色」ではなく物質として捉えているのだ。ドイグ作品における肌理はイメージ以上に多様であり、美術に限らないあらゆる視覚文化の蓄積と経験の厚みを感じずにはいられない。つまりドイグはどんなに凡庸な構図でも、キメラのようにちぐはぐなモンタージュでも、絵画らしいフレーバーをたっぷりと付与することで「ひとつのピクチュア」として統合してしまう。ドイグは絵画の世界にどっぷりと浸かっていると同時に、絵画が成立するための諸条件をかなり突き放した地点から捉えている。絵画に没入する自分とそれを俯瞰するメタ視点が絡み合っている。

ところで、90年代初めのあまりにも見どころの多い画面に比べると近作はあっさりして見えるかもしれないが、物質感の差異を小さくすることで一見ノーマルな絵画に見せかけることに成功している。それはドイグの絵画を見るまなざしの精度がより高まっていることを意味する。初期作品のような圧倒的な手数と情報量、そして過剰とも言える絵具づかいといった特徴は見られなくなったが、近作は初期作品と同等かそれ以上の解像度を有している。ドイグをドイグたらしめているのは天然の描く才能ではなく、常に冷静に自身の持ち物と外部からのデータベースとを調合し、「絵心」自体をカスタマイズできる「内なるスタジオ」なのだ。抽象的な言い方になるが、ドイグの絵画群は、今も生成中の大きな「スタジオ」の絵の中の画中画たちを自在に切り分けたものだと思える。だからこそ、それらはキャンバスの矩形に規定されないし、複数の絵画が一枚の絵をシェアするようなドイグの絵画世界を可能にしているのだ。


『現代の眼』635号

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