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はじめに:作品の「裏」
目の前の作品は、一体いかに描かれたのか。どのような道のりを経て、私たちの元へ辿りついたのか。どんな方法で作品は固定されているのか。過去に行われた修復はいかなるものだったのか──作品の「裏」は、いつも興味深い。保存修復に携わる人間は、熱心に「裏」を見ることがある。そこには、「表」を見るだけでは知り得ない情報が満ちている。
ピーター・ドイグ展に出展されるいくつかの作品を米国から運ぶにあたり、現地で作品点検を行い、梱包に立ち会って、作品と共に貨物便で日本へ飛んだのは、2020年2月のことであった。まだ肌寒いニューヨークで、ギャラリーに置かれたドイグ作品を目の前にし、ぐるりと後ろに回り込んで点検をする。これほど間近にドイグ作品を見ることは、裏からはもちろん、表からも初めての経験であった。
彼の作品群を点検した際に抱いた第一印象は、作品の保存状態が安定しており堅牢であること、そして、制作後に第三者が何らかの処置を行った形跡が──換言すれば、修復の痕跡がないことであった。
ほぼすべての作品の状態が良好である理由には、当然、制作からそれほど長い時間が経過していないこと、そして、ギャラリーにおける保管状況が適切であることが挙げられる。加えて、そこには作家の目配りが行き届いているという気配が、確かにある。ギャラリーの人々の言葉を借りるなら、作品に伴うこの種の「Firm(確かで/堅牢)」な印象は、本展に出展されている全作品を点検した後も揺らぐことはなかった。実際に作品を目にすると、経年に起因する変化は決して作品の物理的な構造を弱体化させることなく、たとえ変色や変形がわずかに発生していたとしても、それはドイグがほぼ予測している範疇で起こっている出来事のように感じられた。「絵具の奇妙なふるまい」と彼が呼ぶところの経年変化──「それが悪くなったときにどのように性格が変わるのか、それからある色がどのように違う種類の乾燥を引き起こすのか」を見守り、「あらゆる小さなことを楽しんでいる」と述べるドイグであるが、古典絵画技法を踏まえた注意深い制作態度は、総じて良好な作品の保存状態の維持を可能にしているように思われた1。
今回の展覧会のために点検した限り、ドイグ作品には、ほとんど修復の跡がない。制作技法を確かめ来歴を調査するにあたって、この事実は非常に大きな意味を持つ。よく知られたこととして、近代に描かれた絵画作品は、しばしば裏面を当て布によって補強する「裏打ち」の処置が行われており、制作当時の状況を窺い知ることが困難である。一方、ドイグ作品の裏面は、多くの「比較的新しい時代」に描かれた現代美術の作品群の例に漏れず、その多くが制作時の仕様を変更されることなく保存されており、つまりはドイグの「仕事の様子」をそのままに確認することができるのである。
ピーター・ドイグの絵画の裏に、一体どのような発見があったのか。ここからは、支持体(キャンバス)と構造(ストレッチャー・フレーム)の特徴をもって、振り返ってみることとしたい。
1 支持体:透過、液体、しみ
キティ・スコットがドイグ本人との対話において振り返るように、1990年代後半から、ドイグの絵具の扱いは変化し、分厚く油絵具を塗り重ねる方法から、「薄い最低限のウォッシュ」へと変容する2。下塗りを施したキャンバスに代わってしばしば用いられるのは、薄い麻布である。水溶性のエマルジョンを溶媒に描かれる絵画は、その薄く艶やかな支持体の上で「流れて」「にじむ」ことになる3。1993年に制作された《ブロッター》の主題そのままに、キャンバスはまさにある種の吸い取り紙=Blotterと化して絵具とメディウムを引き寄せている。私たちがここで目にするのは、分厚く塗り重ねられ隆起し、じりじりと乾く──実のところ、ドイグはそのような油絵具の性質と遅乾性、ままならなさを前向きに評価するのだが──絵画層ではない4。粘り気のない液体は布を通過し、イメージは、あたかも「濾過されたあとの残留物のように」薄いレイヤーとして、ぼんやりと淡く重なり合いながら出現する5。ここにおいてキャンバスは、イメージが出現するための通路、濾過装置として機能しながら、描画層をいわば「漉し取って」いるとさえ言えるかもしれない。
「麻布に水性塗料 Distemper on linen」と表記されるこの種の作品群を裏面から見ると、画布の布目を通過した絵具が、作品と同寸法の「反転図」を描き出しているさまが確認できる。ドイグは、薄く溶いた絵具を何度も重ね、時間をかけて作品を制作する。つまるところ、この裏面に浮かび上がる巨大な「反転図」=しみは、表から作品を鑑賞する際には確認できない第一層の描画の痕跡なのである。おそらく作家の意図を超えたところで、もうひとつの豊かな景色が作品の裏に表出していることになる。
《スキージャケット》(1994年)をはじめ、描き、塗りつぶし、削り、盛り、吹き付ける、複雑な制作工程を描画層から確認できる作品がある一方、《ピンポン》(2006–08年)や《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》(2015年)[図1]のように、裏面に表出した「しみ」が、図らずも描画イメージが形成されるまでの時間の複数層を可視化させ、饒舌に制作の経緯を物語る例もある。後者の作品群のキャンバスは、経過する時間の中間にあって、あたかも砂時計のオリフィスのごとく、過去と現在の境界へ、水気に潤む橋をかけるのだ。
前述の《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》のライオンを裏面から見ると、その首は表面に描画されたそれとわずかに異なる角度に伸びている。薄い支持体を裏から見るとき、ドイグが描いた事物の輪郭は完全に重なることなく、互いが互いの影のようにして重なり合う。このわずかな「震え」は、作品に刻まれた時間の距離であり、異なる色彩の階層が放つ非公式の唱和のようなものだ。オスカル・ドミンゲスがデカルマコニー技法を採用して紙に滲ませた《ライオン—自転車》(1936年)のように(ドイグの実践はドミンゲスの技法的「転写」とは異なるが)、ここでは、まさに字義どおり「décalage(ずれ)」「décalage horaire(時差)」が、一頭のライオンの表裏で生じているのである。
ドイグ作品における「時間」の問題は、美術史を闊達に横断しながら「異なる文脈を持つ図像を別の文脈のなかへと送り込み、移し替え、翻訳することをほのめかす」作家の姿勢について考える上で、重要な鍵となっていることは間違いない。桝田倫広は、こうしたドイグの空間的・時間的「トランス(越える/移動する)」性に注視した上で、彼をトランスアトランティック(大西洋横断的 transatlantic)な作家と捉えている6。各地を転々としながら制作を続けてきた実際のキャリアに加えて、主題を、技法を、素材を自在に「超える」ドイグの軽やかさは、画布の表裏を物理的に絵具が通過する時間の痕跡を目にする過程で、より鮮やかに印象づけられることになった。
2 構造:影
ドイグの「軽やかさ」について語るのであれば、ドイグの絵画を支える物理的な構造=ストレッチャー・フレームについても触れておかなくてはならないだろう。大きなキャンバスを張り込むにあたって、ドイグは、金属製の軽量ストレッチャー・フレームを考案し採用している。このフレームは解体が容易で、また、複数の桟により多点で作品全体を支えることができ、必要に応じて細やかにキャンバスのテンションを調整できるようにもなっている。
ドイグ作品の多くについて、展示時にはその物理的な「軽さ」と「扱いやすさ」に驚かされたが、それはこのフレームに依るところも大きい。興味深いことに、作品を垂直に立てると、薄い布の向こう側にフレームは樹木のように浮かび上がり、描画層の「背後から」影を落とす。当然のことながらこのフレームの構造は、白い壁に作品を密着させ展示すれば途端に見えなくなってしまうのだが、いわば、作品点検する者に許されたちょっとした特権として、私はこの現象を目撃することになった。
《二本の樹木(音楽)》(2019年)[図2]をはじめ、作品を垂直にした途端、作品に描かれた影と呼応するかのように重なり合う格子(グリッド)状の構造は、キャンバスと絵具層の薄さを明白に認識させるものであった。ドイグの近作に見受けられるこうした「厚みの減少」、あるいは光透過性は、「ジグマー・ポルケの採用した透明な支持体から見え隠れする構造に感銘を受けた」との2014年の作家の証言をふと思い起こさせるものである7。同時に、「より少ない物質でもって表現する」ために「ますます絵から多くを省こうと」している、という一節のひとつの現れであるようにも思われる8。展示時の照明下では、十分に確認することは難しいかもしれない。だが、ドイグの作品は確実に透き通り、絵具は緩やかに溶かれて混じり合いながら、繊維を伝って異面へと連なっている。いうなれば、「絵具はもはや硬い粘着力のある物体ではなく、貴重で変わりやすい、生きたものになって」9、描画層は絵画の起源そのもののように──影のように、痕跡のように、鏡のように、なかば透明な開かれた窓(aperta finestra)として、鑑賞者の前に立ち現れているのである10。
3 時間を旅する
冒頭でも述べたように、ドイグ作品のほとんどすべてに関して保存状態は良好であり、経年変化はドイグの予測の域を大きく逸脱しない範囲で起こっていることのように思われる。このことと、ドイグがメディウムの手綱を緩め、呼吸させ、その自由さに遊ぶことは、一見矛盾するようでいて、実のところそうではない。
ピーター・ドイグは旅をし、たびたび住まいを変えてきた作家である。彼が積み重ねてきた旅とは、おそらく、地理的な距離のことだけを指すわけではない。その旅は、美術史の記憶を辿り、イメージを反芻し、練り直しながら新たなものを生み出してきた工程そのものでもあったろう。キャンバスに染み込む絵具、浮かび上がる構造。そこには、注意深いコントロールがあり、彼が長い「旅」の途中で、絵画上に反芻し練り直してきた反復と修正の蓄積がある。ドイグ自身が注意深く述べるように、絵画においては、「絵具それ自体が完全に勝ってしまわないように」しなければならないし、絵具はイメージを支えるものでなくてはならないからである 11。
ドイグの初期作品から近作までを見晴らすとき、私たちはその技法や構図の変化──比較的大きな差異、とも呼べるかもしれない──に戸惑いを覚えるかもしれない。前者が「綿密に練られた」ように見受けられるのに対して、後者における広々とした空間や溶け広がる絵具が「ゆるく、つかみどころのない」ものであるかのように映るかもしれない。ただし、支持体とメディウムの厚みが減じること、結果そこに「影」が落ちることは、作品の内外を織り成す時間の層を危うくすることはない。むしろ、しなやかに表裏を行き来し呼吸する絵具の浸透率、その広がりにやどる時間には、ふくよかな豊かさを見出せるのではないだろうか。
ドイグ作品の「裏」を見る。そこに確認できるのは、過去から現在へ、現在から未来へと流れる、絶対年代の流れだけではないだろう。絵画の裏に表出するしみと、光を通して表に落ちる影は、作品に内在する異なる時のかたちを描き出す。油は油の、水は水の、布は布の、金属は金属の時間を有している。多種多様な「時間の包皮」12の内側にあって、そのすべてを通過させるものとして、ドイグ作品は私たちの生きる時間に到達するのである。
註
- 「ピーター・ドイグとアンガス・クックの対話」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、188頁。
- 自身もしばしば振り返るように、ドイグは絵具と溶剤に何ができるのかを問い続け、模索し続けてきた。
「キティ・スコット、ピーター・ドイグとの対話」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、202頁。 - リチャード・シフ「漂流」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、170頁。
- マシュー・ヒッグス「ピーター・ドイグ──20の質問」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、211頁。
- Adam Heardman “Lions, Lifelines, Speedos: The New Paintings of Peter Doig” in Mutual Art, 6 September 2019. https://www.mutualart.com/Article/Lions–Lifelines–Speedos–The-New-Paint/1FD59DD2B457648A (25 May 2020 confirm)
- 桝田倫広「東京でピーター・ドイグについて想像する」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、21頁。
- Artist interview, Mark Godfrey and Peter Doig “A contemporary visionary (part II) Peter Doig on Sigmar Polke” 5 Dec 2014. https://www.tate.org.uk/tate-etc/issue-32-autumn-2014/contemporary-visionary-part-ii (25 May 2020 confirm)
- マシュー・ヒッグス前掲書、210頁
- ケネス・クラークは晩年近くのティツィアーノ・ヴェチェッリオ作品の自由闊達さを、この一節をもって評価している。以下を参照。ケネス・クラーク(北條文緒訳)『視覚の瞬間』、法政大学出版局、1984年、270頁
- 岡田温司『半透明の美学』岩波書店、2010年、4頁・19頁。
- マシュー・ヒッグス前掲書、211頁。
- ジョージ・クブラー(中谷礼仁、田中伸幸訳)『時のかたち 事物の歴史をめぐって』、鹿島出版会、2018年、193頁。
『現代の眼』635号
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