見る・聞く・読む
なぜ私がピーター・ドイグをめぐって、この場でこのような文を書き連ね始めているのか──実は、本展を企画した桝田倫広氏からの、思いもかけない申し出があったからにほかならない。
氏は、かつて雑誌『美術手帖』で特集された「物語る絵画」(2005年6月号)をめぐり、そこに寄稿した私が、冒頭でドイグの絵画を参照しながら、同時代の日本で具象的傾向を持つ画家たちに対し、「物語のガレージ・キット」と、いささか冷ややかな眼差しを向けていたことを覚えていたのだ。
このことについて、氏は今回のドイグ展の図録に寄せた文章に付した〈注9〉でも、同じく具象的な傾向を扱った『美術手帖』1995年7月号(特集「快楽絵画」)や、同1998年11月号(特集「新しい具象」)に触れ、そのたびごとにドイグが参照されてきたことについて言及している。
つまり今回の展覧会は、それこそ注釈的な伏線であるにせよ、ドイグという画家を通じて、当時の日本でにわかに具象的な傾向を示し、少なからぬ影響力を持ったはずの絵画群が、いったいなんであったのか、もう一度、振り返る機会でもあるはずなのだ。そしてそれが、私がここに改めて呼び出されている理由にほかならない。
率直に言うと私は、今回の展示を見て、ドイグの絵画は偉大な達成ではないし、ドイグ自身も画家として巨匠とは言えないことを確認した。確かに画面のスケールは非常に大きいし、内包された絵画空間を組み立てる技巧も非常に凝っている。美術史からの巧みな引用にもこと欠かない。だが、それゆえにというか、ドイグの絵画は、文学でいうと終わりも始まりも見えない巨大な小説でも、思念が高い密度で凝集した一編の詩でもなく、思うがままに書き上げられる散歩的なエッセイ(随想)に近い、という印象を受けたのだ。
人は小説や詩では巨匠になることができるけれども、エッセイで巨匠になるのは難しい。もっとも、急いで付け加えておかなければならないけれども、これは必ずしも否定的な言い方ではない。巨匠を目指すことが最初から求められていない、肩の力が抜けた状態でこそ楽しむことができる絵画というのは、確かに存在している。言い方を変えると、そのように心踊る随想的な絵画であるにもかかわらず、綿密な分析を必要とする巨匠の絵であるかのような堅苦しい記述を当てることから、ドイグをめぐる日本での受容の不幸も始まったのではなかったか1。
その意味で、今回の展覧会で私がもっともドイグらしさを感じたのは、彼が友人と、かつてラム酒の蒸留所であったという建物の一角にある自身のスタジオで、2003年から始めたという映画の自主上映会に寄せた、即席的なドローイング(「スタジオフィルムクラブ」)の連作のほうだった。
私はこの、一見しては乱雑そうだが、その実、紙に油彩という絵の描き方と、それが上映する映画を告知するという具体的(具象的?)な目的を持ち、併せて上映のあとの雑談や、なんなら即興的なライヴさえ誘発したかもしれないこれら無造作な「ポスター」のほうに、彼の代表作とされる大作以上に、ドイグらしいとしか呼びようのない随想性を見た気がした。それどころか、ドイグが自身でもっとも楽しみながら描いたのは、もしかしたらこちらのほうなのではないか。
そして、この奇妙な連作が帯びる軽くて重い空気感と、ドイグがみずからの評価を確立した論争的な英国を離れ、このスタジオが所在する、幼少の頃に住んだ柔らかな記憶を帯びたカリブ海の島国、トリニダード・トバゴへと移ったこととのあいだには、なにか切り離せない関係があるように思えてならないのである。
註
- 本展の図録には、ドイグとの対話(インタビュー)が四つ収録されてるが、ドイグは一貫して、驚くほど具体的なことしか話しておらず、現代絵画の議論につきものの観念的なやり取りがいっさいない。
『現代の眼』635号
公開日: