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現代の眼 展覧会レビュー TOPICA PICTUS:私的断章

永田晶子 (美術ジャーナリスト)

所蔵作品展 MOMATコレクション「特集展示|岡﨑乾二郎|TOPICA PICTUS たけばし 」|会場:1室、4室、12室、EVホール[2–4階]

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入口向こうの壁に何かがほの光っている。若葉を透かす若い太陽のような光。距離を縮めると、鮮烈な緑色が目を引く画面の中で2つの白っぽい矩形が向き合っている。右下隅に置かれた桃色の方形の無垢さ、土を想起させる臙脂えんじ色の筆触、色彩のレイヤーを所々覆う透明絵具の滴り落ちそうな触感にも気づく。絵画空間を包みこむように四辺から立ち上がった木枠の存在も。上部中央に目を転じると、淡い色の重なりが地平線の記憶を引き寄せ、全体が遠近感を伴ってふいに像を結んだ。片手で持てそうに小さい画面の中に、幾重にも折りたたまれた空間の広がりを感じたのだ。

ようやくタイトルを見る。「Pittura Sanza Disegno/風景のなかの聖母子/Altarpiece」とある。やはり風景なのか。すると、2つの矩形は聖母子だろうか。いや、それは違うだろう。だが、人間の気配をどうしても画中に感じてしまう。左上の光る緑色の円形は至高の「目」にも思えてくる。

岡﨑乾二郎《Pittura Sanza Disegno/風景のなかの聖母子/Altarpiece》
2020年、アクリリック・キャンバス、25.2×18.4 ×3.0cm、作家蔵
ⒸKenjiro Okazaki

こうなるともういけない。子供の頃から天井の木目が顔や動物に見えて仕方がないタチなのだ。もうこの絵は、2人の人物が手前に向き合い、徐々に遠くへ視線が導かれる「風景」としか自分の目に映らなくなってしまった。その場所は見る者を招き入れる清澄な空気に満ちて、見えないウイルスに怯え続けて強ばった心身に沁みた。

昨年12月半ば、東京国立近代美術館を訪れた。目的の1つはコレクション展で特集されている岡﨑乾二郎の新作群「TOPICA PICTUS」だったが、あえて予備知識を持たないまま赴いた。本作を巡り岡﨑がweb岩波に連載中のエッセイも少し読んで、急いでパソコンを閉じた。なるべく素の状態で作品と向き合いたかったからだ。

造形作家の岡﨑は理論に優れた鋭い批評家でもあり、日本の現代美術の世界で類がない存在感を持つ。筆者は実作、著作の双方に感銘を受けてきたが、「美術の力」を精緻に腑分けする文章に幻惑された面がないとは言い切れない。なるべく言葉に引きずられず、作品を見たい。そんな思いで、この日は「予習なし」の鑑賞に出かけたのだった。

そして、最初に邂逅した作品の印象は冒頭に記した通りである。後日に思いがけず依頼を受けた本稿は、当時の記憶を極力なぞってみた。何だか“ポエム”めいた書き出しになったが、許して頂きたい。突然、奥行きを持つ詩的空間が現出したと感じたのは確かなのだから。続く作品もそれぞれが全く異なる情景を連想させ、間断なく感覚をざわめかせた。

その後、改めて会場に掲出された作家の文章や配布文を読んだ。「TOPICA PICTUS」シリーズを収めた画集も手に入れた。それらによると、一連の作品は新型コロナウイルス禍の下、昨年3月から6月の間に150点超が集中的に描かれ、当館やギャラリーなどで分散的に公開された。多岐にわたる岡﨑の作品の中で分類すると、2005年頃から継続的に制作する彫刻の要素を持つ(立ち上がる木枠の長さや位置は作品により異なる)最小サイズの抽象画「ゼロサムネール」に属している。

ゼロサムネールは歴史上のさまざまな絵画や物語と呼応しており、「風景のなかの聖母子」もジョルジョーネが故郷の聖堂に遺した「カステルフランコ祭壇画」に由来する。ゼロサムネールは作家の最大規模のシリーズだけに、これまで幾度も作品を目にしてきたが、今回の展示ほど情感を揺すぶられたことはないと白状する。恐らく、環境を含め「私」が変わったのだ。ウイルスという不可視の存在を絶えず意識する日々の中で、感覚が内在化し、鋭敏になった。目に見えない何かが「在る」こと、それが世界を確実に浸食できること、小ささは持てる力と無関係なことを、私はもはや疑わない。視覚と認識の落差を恐れずに受け止める知覚の広がりが、より柔軟な絵画受容をもたらしたと考える。

想像をたくましくすれば、作家もまた変容を経験したのではないか。「身体は、身体を通して訪れる(身体自身が引き起こす反応も含めて)無数の情報(多くは違和感)を伝える媒体である」。岡﨑は2019年秋から昨年初頭にかけ豊田市美術館で開催された個展「岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ」図録の前書きで、改めて制作は身体的行為であると指摘したうえでそう述べている。この言葉は、「TOPICA PICTUS」の精妙さが増して見える構造と色彩、筆のかすれや滲み、さり気なく神経に貼りつくような透明絵具や効果的な素地の扱いを思い浮かべると極めて示唆的に響く。

岡﨑は「TOPICA PICTUS」画集の冒頭で「どこにも行くことができないという条件は、かえって絵を通してどこにでも行けるという確信を強めてくれた」と書く。その確信が時空や形式を超え、固有の「場」の磁力をつかみ出す一連の絵画に化けた。つまり画中、他者に憑依した作家に憑依できれば、私たちも「どこにでも行ける」ことになる。少々ややこしいし、岡﨑マジックに再び掴まった気がしなくもないが、今は素直に出会えた僥倖を喜びたい。


『現代の眼』635号

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