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現代の眼 展覧会レビュー 作品はどこにあるのか。どこからどこまでが作品なのか。そもそも作品とは何なのか。

小野正嗣 (作家)

所蔵作品展 MOMATコレクション「特集展示|岡﨑乾二郎|TOPICA PICTUS たけばし 」|会場:1室、4室、12室、EVホール[2–4階]

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「特集展示 岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS たけばし」は、その展示の仕方そのものが心地よい困惑をもたらす。僕たちの常識は、「特集展示」と聞けば、何らかの枠組みを想定する。つまり、ある限定されたひとつの場所にいくつもの作品が集められ、鑑賞者の目の前に配置されているものだと思い込む。たしかに本展でも、美術館の2階にある縦長の小さな部屋が、そのために用いられている。この部屋をぐるりと囲むようにして、岡﨑が「ゼロサムネール」と呼ぶ0号サイズとサムホールサイズの絵画が、大人の目の高さくらいに一定の間隔を置いて並べられ、まなざしに差し出されている。

しかし、そこだけではない。4階と3階にも展示は拡散している。あるいは散種されている。MOMATコレクションの作品群と対峙するかのように対面の壁に、あるいは、僕たち鑑賞者を送り迎えするかのようにエレベーターの扉に向かいあった壁に、やはり同じフォーマットの絵画が設置されている。「同じフォーマット」という言い方をしたくなるのは、これらの絵がほぼ同じ大きさであるばかりではなく、同じ手法、同じ筆触によって制作されているように見えるからだ。それらはみな、何らかの意図に従って、あるいは何らかの衝迫につき動かされて、異なる色(色数は決して多くない)に浸した刷毛を画布の上に走らせ、それぞれにまったく異なる、しかし抽象的としか形容しえない色たちの運動の痕跡を残している。

会場風景│撮影:中川周

画布に固着された色たちが風景なり人物なりの具体的な形象を示してくれないので、「何らかの意図」なり「何らかの衝迫」など作り手自身にも言葉にはできないものであることが多いのは承知の上で、それらを、あるいは意味らしきものを、この絵の上に探そうとする。その手掛かりとしてまず念頭に浮かぶのが、タイトルである。

ところが、やはり小さな文字で印字されたタイトルは、絵画の列から遠く離れた壁面にリスト化されて記されるばかりで、個々の絵とそれに対応するタイトルを一瞥で捉えることは不可能だ。しかも絵の数は少なくない。壁面のリストを凝視して、それぞれのタイトルと位置を憶えようと試みる。だがその場を離れ、絵の前に来たときには、「えっと……この絵のタイトルは……」と記憶はすでにおぼろげに揺れている。

しかも、複数の展示場所のすべてに、タイトルのリストに加えて岡﨑の執筆したテクストが置かれている。このテクストがまなざしを強く引き留める——個々の絵を見に行きたいのに、読むのがやめられない。

これらのテクストも僕たちを戸惑わせる。タイトルらしきものが付いているものもあれば、そうでないものもある。ある無題の文章はターナーと藤島武二について触れているのだが、言及される彼らの作品はそこ(MOMATコレクション)にはない。また別の「風景のなかの聖母子/庭のなかの聖母子」というタイトルを冠したテクストは、詩人・佐藤春夫の『田園の憂鬱』を引用して、大正時代に一般に使われるようになった「家庭」という語の持つ家父長権力的な含意(「家庭」は、男性が都市生活や仕事の憂鬱やストレスから逃れ、心を慰めるための疑似自然として機能するが、この人工的な理想郷を居心地よく維持するための役割・労働は、ひとえに女性=「家内」に課せられる)を明らかにしながら、牧野虎雄の絵画に描かれるうたた寝や読書をする女性たちの姿に、家庭という「狭い枠」を離れて「外」へと伸びていく女性たちの欲望、心の動きを見てとっている。これら抗しがたい魅力を放つ知的で詩的なテクストは、絵といったいどのような関係にあるのか。これらもまた、絵とともに展示会場に置かれているのだから、当然「作品」の一部と見なすべきなのか。

それを言えば、東京国立近代美術館における特集展示という「枠」の外で、すなわち岩波書店のHP(註)において、いま岡﨑が、2020年の3月から6月に制作した150点強の絵画——そこに今回展示された22枚の絵画(前期は12枚)が含まれている——に関して連載の形で書いている文章もまた、今回の展示の一部であり、「作品」を構成する要素であると見なすべきではないか。というのも、このHP上の文章の一部もまた、0号サイズほどの2つ折りの紙片に印刷されて、美術館を訪れる鑑賞者が自由に手に取れるようになっているからだ。連載はまだ続いている以上、「作品」の外延は拡がり続けるばかりだ。

岡﨑乾二郎《水たまりに映る空/Crimson cushioned swing》
2020年、アクリリック・キャンバス、25.1×18.0 ×3.0cm、作家蔵
ⒸKenjiro Okazaki

タイトルやテクストは、作家の「意図」や「衝迫」に接近しようと願う僕たちのまなざしや思考を、むしろ、目の前にある絵画という「枠」の「外」へと誘う。実際、ひとつひとつの絵画を取り囲む木枠——低い壁と言ってもよいかもしれない——は、どれひとつとして完全には閉じられてはいないことにすぐ気づくはずだ。しかし、それは不完全な境界なのではなく、絵画と「外」の自由な往来を可能にする通路なのだ。しかも通路はつねに複数開かれている。あるいは、この枠=壁はむしろ、「外」へと動き出していこうとする色彩と形をかろうじて、そこに、僕たちのまなざしの前に留めてくれているのかもしれない。

興味深いことに、本特集展示のテクストにおいても、岩波書店HPの連載テクストにおいても、岡﨑が自身の絵画について直接的に語ることはない。むしろ岡﨑は、自作の絵画に関連する他の作品(絵画が多いが彫刻作品もある)について実に楽しげに書いている。これらの文章を読みながら、こんなふうに絵について語れたらどんなに素敵だろう、と憧れる。と同時に、ひとつの絵の「外」に広がる岡﨑的宇宙——美術史的・文学史的な記憶が美しい星座を描き、思いも寄らぬ星雲を出現させる——の深遠さと巨大さに、畏怖の念に打たれつつ息を呑む。

ひとつの「作品」にはひとつのタイトルが付いており(「無題」もまたタイトルである)、タイトルはある意味、僕たちの名前と同じで、他とは異なる個別性を可能にしてくれるが、「作品」というものは、単独的なものであるようでいて、実はつねに他の作品やその「外」との関係において意味や価値を持つ(僕たち人間もそうだろう)——そんな当たり前の事実を、この「特集展示 岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS たけばし」は思い出させてくれる。

むろん、本展を構成するそれぞれの絵画が、テクストの指し示す「外」、つまり岡﨑の美術史的・文学史的な記憶のなかで特別な位置を占める他の絵画作品をただ造形的に解釈した「作品」というわけではないだろう。では、いったい何なのか。

3階のエレベーターホールの壁に絵画とともに展示された「抽象の対義語は、必ずしも具象ではない」で始まる、これまた魅惑的なテクストを読んでみよう。そこでは、抽象そのものでしかない数字の計算式(11111×11111)がもたらす結果(123454321)が、何か必然的としか思えないような具象性を帯びることの不可思議さが語られたかと思えば、不意に、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』の一節、それ自体は特定の形を持たないけれど、人間を駆り立て、きわめて具体的な事物・事象を創出させる「アタオコロイノナ」というマダガスカルの神についての一節が召喚される。

形を持たずたえず変化する抽象的なものに働きかけられることで、人間は具体的なものを生み出す。それが芸術的な創造行為であるとすれば、岡﨑が描いているのは、単に抽象的なものではなく、かといって単に具象的なものでもない(抽象と具象は必ずしも対立しない、と岡﨑は言っているのだから)。岡﨑がやっているのは、具体的に人に働きかける「抽象の力」(そういえば岡﨑には『抽象の力』という素晴らしい著作があるが)へと、具体化されたもの(岡﨑の美術史的な記憶を構成する個々の絵画作品)のほうから遡行しつつ接近しようとする試みなのかもしれない。いま僕たちの前にあるのは、ほんの束の間、画布に固着された、捉えることのできるはずのないその力の揺れ動きそのものなのだ。

https://tanemaki.iwanami.co.jp/categories/907?prev


『現代の眼』635号

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