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現代の眼 展覧会レビュー 幻視するレンズ─川田喜久治とウジェーヌ・アジェ

伊藤貴弘 (東京都写真美術館学芸員)

コレクションによる小企画「幻視するレンズ」|会場:ギャラリー4[2階]

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会場風景|撮影:大谷一郎

「幻視するレンズ」と題された本展の出品作品は1911年から1998年の間に制作された。写真家としての活動に限らず、ニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクターを務め、各国に巡回した「ザ・ファミリー・オブ・マン」展(1955–62年)の企画でも名高いエドワード・スタイケンに始まり、1960年にサイゴン(現・ホーチミン)で生まれ、戦争や軍隊と関係のある風景を写した作品などで知られるベトナム系アメリカ人作家のアン・ミー・レーまで、本展には近現代写真史に等しい幅がある。本展の表題はそれを貫くテーマであり、現実と虚構をないまぜにするような、想像力あふれる作品が数多く紹介されている。本稿では、その中から特に川田喜久治とウジェーヌ・アジェの作品を取り上げたい。

本展に出品された川田喜久治の連作「ラスト・コスモロジー」は1995年に同名の写真集としてまとめられ、巻末に批評家の福島辰夫が「水晶の波濤………」と題した文章を寄せている。福島はタイトルをシュルレアリストたちに大きな影響を与えたフランスの詩人、ロートレアモンの散文詩集『マルドロールの歌』の第一の歌からとっているが、文中にはロートレアモンが川田の「ラスト・コスモロジー」の噂を聞きつけ、同時代の作家ヴィリエ・ド・リラダンと共に冥界からやってきたという設定で登場する。福島は彼らの言葉として次のように記している。

自分たちの19世紀末から約100年たって、いま、20世紀末の地球は、そして人間は、どのようにしているのでしょうか。[…]20世紀末最後の10年を覆う二重三重の暗雲のなかで、こうした昻揚と充実の、堅固な作品が現われる、そしてそれが現代の宇宙までとどく力強い思想と表現を持っているということは、われわれ表現者一同にとっても、まさによろこばしい一大快挙だと云うべきでしょう1

『ラスト・コスモロジー』の表紙は本展でも展示された《20世紀日本最後の日蝕—小笠原父島》(1988年)[図1]で、裏表紙は1989年1月7日、昭和最後の日に東京で太陽を写した作品だ。同書の時間軸は1969年から1994年まで四半世紀に及ぶが、川田の主な関心は天体にあり、日蝕や空に走る稲妻、怪鳥に似た形の雲など、レンズは空の諸相をダイナミックにとらえている。

福島が現代に召喚した19世紀末の二人の言葉に「20世紀末最後の10年を覆う二重三重の暗雲」とあるが、『ラスト・コスモロジー』が刊行された1995年は1月に阪神・淡路大震災が発生し、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。バブル経済が崩壊し、景気が後退する中で立て続けに起きた二つのできごとは日本社会全体に暗い影を落としたが、そのような状況下で編まれた『ラスト・コスモロジー』には暗い世相を反映しつつも、スケールの大きな、時代を超越するヴィジョンがある。

空を写した川田とは対照的に、本展の冒頭に展示されたウジェーヌ・アジェの視線は1920年代のパリの街中にまっすぐ注がれている。ショーウィンドウのマネキンや、民家が軒を連ねる人けのない裏路地など、アジェが写したパリは静けさに包まれ、都市の標本のような趣さえある[図2]。公共機関に収められるなど、近代化に伴って変わりゆくパリを記録として残すことに重きを置いて撮影されたアジェの写真だが、叙情性を排し、事物を剥き出しにするような即物的なまなざしは、思いがけずシュルレアリストたちに注目され、芸術作品としての価値が見出されるようになった。

本展の出品作品ではないが、アジェにも川田と同じく日蝕に関連した作品がある。1912年4月17日にフランスで観測された金環日蝕で、アジェがレンズを向けたのは天体ではなく、日蝕を見るためにパリ中心部のバスティーユ広場に集まった人々だ。アジェでは珍しく人物が写り、大勢の人間が同じように空を見上げ、日蝕を観察する様子が記録されている。そこには日蝕という特異な天文現象に対する、今と変わらぬ関心が露わになっている。

エドワード・スタイケンの後任としてニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクターを務めたジョン・シャーカフスキーは、1978年に企画した「Mirrors and Windows」展で1960年以降のアメリカ写真を「鏡」と「窓」に例えて紹介した。すなわち、写真家の自己表現の手段である「鏡」と、写真家が世界を探求する手段の「窓」の二つに分けられると2

一方で、本人も述べるように、「鏡」と「窓」の両方の性質を備えた写真もある。記録として撮影されたものの、シュルレアリストたちに芸術的価値を見出されたアジェや、暗い世相を反映しつつ、時代を超越するヴィジョンを示した川田の作品は、それになぞらえることが可能だろう。ここで改めて本展の表題に立ち返れば、幻視とはそうした両義性を呼び込むものなのかもしれない。ときに、写真家の意図を超えるかたちで。

  1. 福島辰夫「水晶の波濤………」、川田喜久治『ラスト・コスモロジー』491、1995年、44頁
  2. John Szarkowski, Mirrors and Windows: American Photography Since 1960, New York: Museum of Modern Art, 1978, p.11を参照。

『現代の眼』636号

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