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現代の眼 展覧会レビュー 教師としてのゲルハルト・リヒター

ゲルハルト・リヒター展|会場:美術館企画展ギャラリー[1階]

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渡辺えつこさんは、1982年にデュッセルドルフ芸術アカデミーに留学し、ゲルハルト・リヒターに師事した。以来、2013年までデュッセルドルフを拠点に、その後、東京を拠点に移して作家活動を続けてきた。今回は教師としてのリヒターについてお話を伺った。

聞き手・構成:
桝田倫広[企画課主任研究員]

2022年6月24日
東京国立近代美術館にて

桝田:1982年、武蔵野美術大学を卒業されたあと、デュッセルドルフ芸術アカデミーに留学したのですよね?

渡辺:卒業をしないで行こうかなとも思ったんですけどね。母が卒業だけはしてくれって。アカデミーは夏ゼメスター(学期)と冬ゼメスターにわかれていて、冬ゼメスターが始まるのは9月。大学を3月に卒業して、アルバイトをしつつドイツ語を勉強しました。8月頃だったかな、ドイツに行きました。

桝田:そもそもなぜ留学先にドイツを選んだのでしょうか?

渡辺:その当時、私の前の世代だと、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys, 1921–1986)のことを知っている人もいたんですけど、私の世代ってドイツの情報がほとんど入ってきてないんです。武蔵野美術大学では野村太郎先生(1927–2014)が、ドイツ美術史の授業を受け持っていて、たまたまそれを取っていました。野村太郎先生は、カーリン・トーマス(Karin Thomas、1941–)の『20世紀の美術』かな、ドイツ語で「ビス・ホイテ(Bis Heute)」という本を訳された方でもあります1。授業でボイスの紹介をしているときがあって、そのことを強烈に覚えています。それからケルンのベルナルド・シュルツェ(Bernard Schultze, 1915–2005)とウルズラ・シュルツェ・ブルーム(Ursula Schultze-Bluhm, 1921–1999)夫妻や、コンラート・クラフェック(Konrad Klapheck, 1935–)といった作家が紹介されていたことも覚えています。

ドイツへ行こうと思ったのは、今、ドイツが良いらしいという友人の言葉を真に受けたからで、それで調べ始めたんですよね。そこで武蔵野美術大学の図書室で雑誌を調べてみると、ドイツだとデュセルドルフの作家ぐらいしか出てこないんですよ。今でこそ、ドイツ国内のどこの美大でも現代美術の作家が教職に就いていますが、1982年当時では、デュッセルドルフぐらいしかいなかったんです。他の大学はオーソドックスで、もっとアカデミックなことをやっているようでした。というわけで、現代美術をやりたい人はみんなデュッセルドルフにやって来るような状況でした。

当初、ゴットハルト・グラウブナー(Gotthard Graubner, 1930–2013)という人を先生にと考えていたのですが、グラウブナーは、今、学生をとらないらしいという情報が入ってきて、それでリヒターに送ってみることにしました。図書館でリヒターについて調べてみたら、モノクロの写真と写真を描いたフォトリアリズムの作品、それから《エマ》と《カラーチャート》の図版が出てきて、何をやっている人か全くわからない(笑)。募集期日も迫っていたから、じゃあもう、この人に送ってしまえと思って。ほんとに偶然なんです。まあ、でもリヒター自身も言っているように、その偶然っていうのが大事とも言えるわけで。そうしてリヒターのクラスに入ることになりました。今になって考えてみると、その頃に限ってリヒターは留学生を受け入れていたんですよ。アメリカやイスラエルから来た人がクラスにいました。でも、こんなに長くいたのは私くらいでした。みんな半年か1年ぐらいで帰っちゃう。元から短期留学だった人もいたし、あと、先生と合わなくて辞めてしまうこともありました。そういうケースは結構あるんですよね。ドイツのマイスターシューラーというのは、徒弟制のなごりみたいなものだから、教授の権限がものすごく強いんです。教授がとると言えば入学できるし、教授がダメだって言えば追い出されちゃう。クラスのなかでも途中で先生を変えた人がいましたね。

桝田:リヒターのクラスには、何人くらいの学生がいたんですか?

渡辺:リヒターのところはおおよそ15人、他のクラスは大体30人ぐらいでした。当時、既にボイスはアカデミーにいなかったんですが、彼のところには300人ぐらいいたという噂を聞きました。当時、リヒターやギュンター・ユッカー(Günther Uecker, 1930–)といった先生たちは、なぜかみんな学校の外にクラスのアトリエを持っていたんですよ。リヒター教室は、以前、彼がアトリエとして使っていた場所で、デュッセルドルフ中央駅から5分のハルコルト通り(Harkortstraße)にありました。私たちのクラスのアトリエの上のフロアは、かつてブリンキー・パレルモ(Blinky Palermo, 1943–1977)のアトリエでした。これがその当時のクラス写真。これね、トーマス・ルフ(Thomas Ruff, 1958–)の撮影なんですよ。ルフのポートレート・シリーズで被写体にもなった学生がルフに撮らせようって。

リヒタークラスの集合写真 トーマス・ルフ撮影 写真提供:渡辺えつこ

桝田:学校に行くというよりは、クラスのアトリエに通う日々だったんですね。

渡辺:そうですね。学校にはお昼、食堂に行くっていう感じですね。リヒターのクラスに行くと、まずH型イーゼルと、マールヴァーゲン(Malwagen)、それからテーブルが渡されるんです。これが三種の神器です。リヒターの門下生たちは、卒業後もこれらのツールを用いて制作しています。彼はこういうシステムを考えるのがすごく好きなんですよ。東ドイツの美術学校時代のリヒターの記録写真を見る限り、このマールヴァーゲンと思しきものは、どうも映ってないようだから、リヒターはおそらく自分でこれを考案したのだろうと思うんですよね。

桝田:絵を制作する環境から整えるということですね。

渡辺:やっぱり、すごい合理的だと感じますね。

桝田:クラスのアトリエに行くと、当時15人ぐらいいらっしゃって、部屋でそれぞれが制作をしているということですか?

渡辺:そう。常時、大部屋に7人から8人ぐらいいて、別の小さな部屋では4人ぐらいが制作していました。ちょうど私が行ったときは、トーマス・シュッテ(Thomas Schütte, 1954–)はもう卒業していましたが、ルドガー・ゲルデス(Ludger Gerdes, 1954–2008)が卒業する直前ぐらいで、壁に壁画を描いていて。同級生がゲルデスの作品を説明しながら、彼が学生ながらドクメンタに出たことも教えてくれたから大変驚きました。

桝田:どういう授業だったのですか?

渡辺:リヒタークラスに行くと、まず静物画を描かされるんです。最初に対象物を描くことは他の世代の学生もさせられていたようです。私よりも前の世代は、そこから作品として展開してゆく上でコンセプチュアルな作品や写真をもとにして描いていた時代もあったらしいです。私の時代は、いわゆる新表現主義が盛んな時代で、写真を扱うのはあまり推奨されず、テーマをもって具体的な物や画像を描いたり、抽象化したりするなどの作品が多かったですね。自分でモチーフを置いて描き出したところでリヒターと話をします。すると「君、これはお決まりの静物画だ」などと言われて、自分のやろうとしていることがどんどんふるいにかけられていくわけです。リヒターの先生だったカール・オットー・ゲッツ(Karl Otto Götz, 1914–2017)の授業を聴講した人によれば、 ゲッツもやっぱり同じようなやり方をしていたそうです。そぎ落としてくんですよ。その年代の人はもしかしたらそういうやり方をよくやっていたのかもしれない。というのも、この前、ボイスのフィルム見たときに彼も同じようなことをしているんですよね。「君、この絵は1920年代だ」と言って、切り捨てていくんです。こんなふうに言われると、自分で何をやって良いかわからなくなってきます。リヒターという人はもしかしたら自分がゼロ地点に立ったことがある、東ドイツで受けた教育を捨てて、西ドイツで一からやり直したから、こういう教え方だったのかなとも思います。

リヒタークラスのアトリエ(大部屋) 渡辺さんのコロキウム展示風景(1985年ごろ) 写真提供:渡辺えつこ
リヒタークラスのアトリエ(小部屋)での制作風景(1986年ごろ)写真提供:渡辺えつこ
Rundgang での展示風景(1986年) 写真提供:渡辺えつこ

桝田:リヒターと会う頻度はどのくらいだったのでしょうか?

渡辺:リヒターは毎週、水曜日に来ました。少なくとも私の時代には毎週来ていました。その際、本やDMなど、色々なものを持ってきます。

桝田:授業には座学もあるんですか。

渡辺:いや、もう普通に来て、話して。それから、ごくまれにお茶を飲みに行くこともありました。授業然としたものではないです。色々な話をするんですけど、大概、絵の要素の話でしたね。教室でひとりひとりと作品の前で作品について語ったり、みんなとアート関係の話をしたり。年に1、2度、ひとりの学生の作品を展示して、クラス全体で討論する「コロキウム」がありました。リヒターはインタビューなどで語っていること、そのままの内容を言っていましたね。インタビューでも言っていた「図々しさ(Unverschämtheit)」という言葉を、彼は何度も言っていました。彼にとって図々しさは褒め言葉のひとつなんですよね。あとよく言っていたのは「極端な解決策(extreme Lösung)」。たとえば〈カラーチャート〉シリーズにしても、まずは色見本を描くことから始めて、その後しばらくして4900色に拡張しちゃうとかね。極端な解決策っていうのが大事なんだっていうことをよく言っていましたね。その他、もちろん、偶然性の重要性をよく口にしていました。偶然性を通して出てきた作品が作者を超えるんだって。作品は作家よりも聡明だと。

桝田:おしゃべりをしながらなんですね。

渡辺:ええ。ただ、インタビューなどを見てわかるように、饒舌な人じゃないんですよ。考えながら言葉を選ぶような感じですね。よく尋ねてきたものです。「君は、今、何読んでいるんだね」とか。ドイツ語には「you」を表すのに「Sie」と「Du」という言い方があって、「Du」は、非常に親しい言い方なんですよね。でもリヒターは、学生に対して絶対に「Sie」を使うんですよ。この「Sie」っていうのは日本人や英語圏の人にはちょっと慣れないと思うんですけど、非常に便利な言葉で、距離を置くニュアンスがあって、だからこそ結構図々しいことまで言えてしまえる。ドイツ人はディスカッションが好きで、辛辣なことも「Sie」を使いながら言うんです。リヒターは「最近、何の展覧会を見たか」といったことをよく聞いてきましたね。私がよく思い出すのは、「ナム・ジュン・パイクのモニターのなかに蝋燭が立っている〈テレビ・ブッダ〉を見ました。あれが良かったです」と私が答えたら、「そうだろう。 私も良いと思うんだ」って言ったことです。その後に蝋燭を描いた絵画が出てきました(笑)。既に描いていたから良いと言ったのか、それはいまだにわかりません。それから、あるとき「君たち、黒はどうする」って尋ねるんです。私は黒を使わなかったんですけど、黒に対して解決方法を出す学生もいる。そうしたら、しばらくしてリヒターの画面にも黒が使われだすんですよ(笑)。彼はおそらく自分のなかにある課題というか、どうしようかなって考えていることを学生に問いかけているんですね。それをまともに受けてやる人もいるし、やらない人もいた。それからリヒターが水彩を描いていた私のところに来て、「君はドローイングがうまくできないんだな」と言うから、「できないです」って返したら、「うん、私もできないんだ」って言うんです。そう言われてみると、1986年にデュッセルドルフ美術館で開催された、リヒターにとっての最初の回顧展でのカタログには、彼の鉛筆デッサンは数点しか掲載されていないですね。でも、その後、デュッセルドルフからケルンに引っ越した1983年あたりから彼は大量の水彩画を描いているんですよね。それらは1987年にアムステルダムのオーファーホランド美術館で開催された紙作品の展示でまとまって紹介されました。私にドローイングが苦手だと言った後ぐらいに試み始めています。彼自身も考えながら絵を作っているということがリアルに感じられました。

桝田:自分が考えていることを、学生に率直に投げかけていたわけですね。

渡辺:そう。ある年のクリスマスだったんですけど、「アカデミックな作家で誰がいいと思うか」と学生に尋ねていって、たとえば誰かが「フェルメール」なんて答えると、「それはなんとかだ」なんて返すんです。最後、私がたまたま雑誌でベラスケス特集を見ていたから、「ベラスケス」ですって言ったら、「ベラスケスは良いな」と。あとのインタビューでリヒター自身もベラスケスとマネは良いって答えていました。不器用であるが故に率直で、歯に衣を着せずにストレートにモノを言うので、学生も打ちのめされて、しばらくダメになっちゃう人とかもいたんです。

桝田:結構怖かったのですか。

渡辺:うーん。気難しい人と言えるかもしれないです。たとえば一緒に飲んでなぁなぁになるっていう人ではないです。盟友のカスパー・ケーニヒ(Kasper König, 1943–)とは対極のような人でしたね。ケーニヒって、やっぱりオーガナイザーだから話が面白いんですよ。一緒にいてすごく楽しいんです。リヒターはそういう雰囲気はなかった。しかし二人とも首尾一貫しているから気が合ったのかもしれないですね。もちろんリヒターも魅力的な人ではありましたよ。ただ、普通はそこまで言わないでしょというところまで、ストレートに言ってくるようなところがありました。

桝田:確かにそれは参っちゃう学生さんもいらっしゃるかもしれないですね。

渡辺:だから合わなくて、去っていった人もいました。でも、すごく良くしてくれました。私が学校を早く出なきゃいけない事態になっちゃったときがあって。リヒターに電話したら、ちゃんと対応してくれました。

桝田:渡辺さんは、82年から87年までアカデミーにいらしたんですよね。でも、マイスターシューラーを取得するのは85年ですね。

渡辺:それが問題だったんですよ。

桝田:早く取れてしまったってことなんですか?

渡辺:あるとき、リヒターが、「今年は誰がマイスターシューラーになりたいか」と言い出したんです。そのリストのなかに私が入っていたんです。「先生、私はいりません」と言ったら、「君は私のマイスターシューラーがいらないのか」って。「いや、私はもう少し長くいたいから、まだいりません」と言ったんですよ。でも、次の週には私がもうマイスターシューラーを取っていることになっていて。あわてて事務所に駆け込んで、リヒターに電話をして泣きついたんです。それで学籍を残すことができました。そういう人情味がある人でもあります。

桝田:1982年から2013年までドイツにいらっしゃったんですよね。そのなかでリヒターという作家の位置づけがドイツ国内においてどういう風に変わっていったと思いますか。

渡辺:1982年の段階ではリヒターとゲオルグ・バゼリッツ(Georg Baselitz, 1938–)が二大巨頭という印象でした。どちらも東ドイツから逃れてきた作家。リヒターはアメリカの影響を受けていて、かたやバゼリッツはドイツの表現主義の延長みたいな感じでした。リヒターは60年代から良い画廊に入っていて、ある程度食べていかれたのと、かなり早いうちに教授にもなっていたから、ドイツ国内では結構安定した地位を築いていました。リヒターは常に一目置かれていた存在だと思います。アカデミーのなかで、私たちはケーニヒ・リヒター・シューラー(König Richter Schüler/王様リヒターの学生たち)みたいな言い方をされたこともありましたね。だけど、私がいた頃、アメリカではそれほどまだ認識されてない時代だった。それが変わっていくのが86年ぐらい?

桝田:北米での大規模巡回展は1988年ですね。

渡辺:1986年にデュッセルドルフ美術館でリヒターの回顧展が行われたとき、当時の館長が文章を書いています。ユルゲン・ハルテン(Jürgen Harten、1933–)です。学生たちがカタログをもらって読んで、そのうちのひとりが「先生、なんだか巨匠のカタログみたいですね」なんて言っていたぐらいの時代です。だから、こういう風になるとは当時は誰も思っていなかったですね。ところで、ロイ・リキテンスタインが1970年にデュッセルドルフのハインリヒ・ハイネ大学の壁にアシスタントと描いた大きなブラッシュストロークの壁画があるんです。リヒターはこういうものからも影響を受けていたのではないかと思います。

ハインリヒ・ハイネ大学構内にあるリキテンスタインの壁画

桝田:リヒターは意外と自分の目に入ってきたものを割と素直に取り込むタイプだった、ということでしょうか。

渡辺:そうですね。学生がリヒターに他の作家からの影響について聞いたときに、良いものは頭に残ってしまう、といったようなことを言っていました。こんな風に回答もすごくストレートだから、わかりやすいんですよ。リヒターの作品はわかりにくいって、しばしば言われていると思うんですけど、私は非常にわかりやすいと思う。少なくともアーティスト側からすればわかりやすいです。アトリエで描いていたとき、リヒターはしばしばピカソを引き合いに出して「美しいところを壊しなさい」とよく言っていたんですよね。対抗するものをぶつけていくというようなことを彼はしきりに言っていた。「ゲーゲンザッツ(Gegensatz)」という言い方するんですが。実際、そういう画面の作り方をするじゃないですか。対抗する要素をぶつけながら画面空間を作っていく。私自身もそういうものかと思って取り入れたんですが、日本に帰ってくると、日本の作家たちは画面の作り方が全然違うので、最近になってようやくこれはかなり特殊なリヒター独自の画面の作り方だということがわかりました。

  1. カーリン・トーマス『20世紀の美術:後期印象主義から新リアリズムまで』野村太郎訳、美術出版社、1977年

『現代の眼』637号

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