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現代の眼 アートライブラリ 連載企画 「研究員の本棚#3|展覧会を作ること:美術館をめぐる人とコレクション」

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このコーナーは、アートライブラリの担当者である東京国立近代美術館研究員の長名大地が聞き手となり、館内の研究員に、それぞれの専門領域に関する資料を紹介いただきながら、普段のお仕事など、あれこれ伺っていくインタビュー企画です。第3回目は、都築千重子研究員にお話を伺います。

聞き手・構成:
長名大地(東京国立近代美術館研究員)

2022年7月22日(金)
東京国立近代美術館アートライブラリ

研究員プロフィール
都築千重子(つづき・ちえこ):東京国立近代美術館研究員。1961年所沢市生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程単位修得退学。専門はドイツ印象派のマックス・リーバーマン、日本の近代美術史。90年より、東京国立近代美術館に勤務。著書に「ドイツにおける「印象主義」考:リーバーマンとベルリン分離派を中心に」『美術フォーラム21』(2002年)や、「近代日本の美術とワニス:岸田劉生の油絵修復から見えてきたもの」『現代の眼』(共著、631号、2019年)などがある。

J・S・バッハから始まる

長名:都築さんは所蔵作品の他館への貸出と返却の対応や、作品の修復、撮影のセッティング、額装など、コレクションに関わる様々な仕事を担当されています。今年3月に定年を迎えられましたが、長年にわたる学芸業務の中で、今回はコレクションに関するお話を中心に、資料を交えてお伺いできればと思っています。まず、どのようなきっかけで美術史に携わるようになったのでしょうか。

都築:父親が化学の研究者ということもあって、理系以外はないという家庭で育ちました。おまけに一番不得意な科目は美術(笑)。高校も理数科でした。中学の時、バッハの小フーガト短調を聴いて感動してのめり込み、高校の時にはアマチュア合唱団に入りました。たまたま高校2年の終わり頃、NHKの教育テレビでドレスデンの聖十字架合唱団が取り上げられ、解説者として皆川達夫先生がご出演。名前の下に「立教大学教授」とあって、普通大学で音楽史ができると、その一瞬で志望校を決めました。皆川先生に師事するため、立教大学文学部キリスト教学科に進学しましたが、ちょうど大学改革に力を入れている時で、学科にとらわれない授業が展開されていました。八王子セミナーハウスで、テキストを読んで発表したり、討論したり。たとえばルネサンス文化というテーマで科学や、音楽、美術といった様々な分野の先生が集まって、パネルディスカッションをする学際的な授業もありました。すごく楽しくて、3年生に上がるまでに、ほとんど単位を取りきっていました。

長名:音楽史からのスタートだったのですね。

都築:立教大学は音楽に関しては普通大学で一番充実している大学と言われていました。音楽史にちなんで、ヨーロッパの文化を中心に学んでいました。

長名:一番記憶に残っている授業などありますか?

都築:皆川先生の授業は、話が上手でわかりやすく、時々横道にも逸れますがとても興味深く、授業はピカ一のうまさでした。一番覚えているのは、ドイツのライプツィヒでバッハのお墓参りをした時、お花を買ったら、わざわざ日本から来て、私たちのバッハのためにありがとうと言われたというお話です。翻って、果たして私たちの夏目漱石って思うだろうかと。ヨーロッパの文化の深みを感じたというお話が一番記憶にありますね。

美術史との出会い

長名:では、美術史との出会いは?

都築:父がシカゴ近郊のノースウェスタン大学に在外研修で渡米するのに伴い、一家揃って1年間アメリカに滞在したんです。ちょうど小学6年生で、アメリカではゆとり教育、真っ最中。1日1ページの算数を解くだけで終わり(笑)。これがお手本という授業はなくて、表現に重きを置いた授業が多かったですね。なので、授業を休んで父親が美術館に連れていきたいと言ったら、それは社会教育ですからぜひと先生に言われました(笑)。シカゴ美術館に行った時、ルノワールに感動してしまって。それで印象派が好きになって、ジャン・ルノワール『わが父ルノワール』(粟津則雄訳、みすず書房、1964年)も読みました。

長名:それがドイツ印象派のマックス・リーバーマン(Max Liebermann, 1847–1935)にも繋がっているんでしょうか?

都築:そういう部分もあったかもしれません(笑)。大学で少しバッハに疲れてしまって、オペレッタをやりたいと思ったところ、皆川先生から「それは日本では偏見があるから難しいだろう」と言われて。神のような先生からそう言われてしまったら仕方がない、就活しないとと思ったのですが、アルバイトの塾講師が2月まで辞められない。そのあと就活するとして、それまでの2か月暇だなあと。それじゃあ、音楽がだめなら美術にしてみようかと。目標があったほうがよいとお茶の水女子大学の大学院をハッタリのような感じで受験しました。でも試験では何を研究するか聞かれるでしょう?

長名:普通、聞かれると思います(笑)。

都築:なので、第二外国語がドイツ語だったので、家にあった百科事典を開いて、ドイツ美術の項目に書かれていたマックス・リーバーマン、ロヴィス・コリント(Lovis Corinth, 1858–1925)、マックス・スレーフォークト(Max Slevogt, 1868–1932)の3人の画家を丸暗記。どんな絵を描いているかなんてもちろんわからなかったですよ。それで口述試験の時、どんな研究をする予定ですか?と聞かれ、この3人の名前を挙げたら、「マックス・スレーフォークトの作品はいいですよね」と。それ以上、突っ込まれることがなく無事セーフ。大学院になんとか通ってしまったことから、美術を勉強せざるを得なくなったというお粗末な展開です。

長名:それがきっかけでリーバーマンの研究が始まったのですね。

都築:たとえば、レンブラントだったら、研究史に目を通すだけで何年もかかりますが、リーバーマンはほとんど日本で知られていなかったので、とにかく日本語で形にすればそれなりに意義も出てくるだろうと考えました。ちなみに卒論は「ライプツィヒにおけるJ. S. バッハの顕現日のためのカンタータ」でした。

長名:美術とはまったく違うところから美術史に入られたのですね。

都築:そうです。大学院進学後に「19世紀ドイツ絵画名作展」(1986年2月1日–3月23日、東京国立近代美術館)を見に竹橋に来ましたが、東京国立近代美術館という美術館の存在を知ったのも、足を運んだのもこの時が最初でした。リーバーマンとの出会いはたまたまでしたが、ちょうどありがたかったのが、ドイツで「Max Liebermann in seiner Zeit」展(1979年9月6日–11月4日、ベルリン国立美術館他)が開かれたことでした。お茶の水女子大学の司書の方が素晴らしくて、海外に複写依頼できますよと教えてくれて。そこで、せっせとこの展覧会カタログの参考文献を切って貼って複写をお願いしたんです。そしたらドイツから複写物やマイクロフィルムがどんどん届いて。でもおかしなことに、請求書が同封されていない。不思議に思った司書の方が国会図書館に確認したら、「ドイツという国は文化に理解のある国ですから、きっと日本の研究者に対するプレゼントでしょう」と(笑)。そのおかげで日本にいながら文献収集ができたんです。

長名:すごいエピソードですね。

都築:それと、このピーター・バレット教授の『The Berlin Secession』(1980)も、同じ時期に出たベルリン分離派に関する研究書で、美術の分析というよりも、社会学的な見地からの研究で画期的でした。ベルリン分離派の人たちは共通の思想の下に集まったわけでなく、官展に埋もれるのを嫌った人たちで、それが当時の皇帝に敵視されて、認知度が上がったという背景があり、そういう角度からの研究だったんです。今思えばですが、当時リーバーマンは日本では知られざる作家でしたけど、ある意味では時の人だったかもしれませんね。いろんな幸運に恵まれたおかげで修士論文も提出できました。

長名:東近美の展覧会もいいタイミングでしたよね。

都築:そうですね。そんなだったので、日本の近代美術なんてまったく無縁だったんです。ただ、親が就職先を気にして、せめて学芸員資格でも取りなさいと。それで資格を取っていたんですけど、指導教官が実習の打診をし忘れて……。それで当時、東近美の美術課主任研究官であった藤井久栄さんに頼み込んで、実習をさせてもらったんです。

長名:東近美で実習をされたのですね。今は学芸員実習の受け入れをしていませんが、かつてはあったのですね。

都築:はい、でも実習と言っても、作品カードを書いたり、図書資料の整理や写真の裏書きをしたりといった雑務のお手伝いでした。結果的に、博士3年の時に募集があって、藤井さんの後任として着任しました。

長名:博士課程でもリーバーマン研究を継続されていたんですよね。

都築:そうですね。東近美の試験の前に、指導教官から近代日本の美術について、少しは勉強しておきなさいと言われましたが、試験内容は「将来の美術館像について」という小論文と、とても時間内では終わらない量の語学翻訳、面接でした。当時の企画・資料課長だった岩崎吉一さんは、冗談たくさんで面白く、とても器の大きい方で、「大学院で勉強できることなんて、ほんのちょっと。仕事から学ぶことがほとんどだから」と言ってくれて、育成していこうというスタンスでした。私がここに入れたのは岩崎さんのきまぐれと思っています(笑)。

企画・渉外係

長名:現在の部署で言う「企画展室」にあたる「企画・渉外係」に配属されたんですよね?

都築:通常、最初に配属されるのはコレクションの基礎を身につける美術課絵画係で、2、3年修行するのですが、前年度に2人新規に採用されていたので、私は異例の企画・資料課企画・渉外係に配属されました。入った時は学芸の部屋中、漫画だらけ!

長名:「手塚治虫展」(1990年7月20日–9月2日、東京国立近代美術館)の時ですね。

都築:そうです。夏に展示を控えていたので、美術館とは思えない状況でした。私にとって、手塚展は最初に関わった展覧会。朝日新聞社さんとの共催展で、電通さんも関わっていたので、とにかく会議ばかり。今から見ると、実にオーソドックスな展示の仕方で、多孔の窓を開けたマットに原画を並べて、アクリルをかぶせた横長の大きめのパネルを何枚も展示するというものでした。額装作業が大がかりで休日出勤するほどでした。

長名:東近美としては前例のない展覧会ですもんね。

都築:美術館が漫画を展示するということで話題になりましたけど、展覧会担当者たちは「手塚だからやるんだ」と(笑)。けれど、私の名前は展覧会カタログに載っていないんです。異例の内容だったので、デビュー戦は美術展のほうがいいとの配慮からでした。原画パネルを並べて展示して、ところどころ変化を持たせるため、バナーを垂らしたり、ブースで見せたりという仕掛けを入れていましたが、当時は目新しい工夫でした。入場者数も13万人近く。当時の上司で企画・資料課の主任研究官だった本江邦夫さんと神戸に出張に行った思い出も含め、とにかく新しいことずくめのスタートでした。

長名:なかなかできないご経験だと思います。

都築:東近美に入って最初に学んだことは、展覧会を作り上げるには、いろんなプロの方々の協力が必要なんだってことでした。毎回企画展に巻き込まれる係でしたが、最初に担当したのは「イサム・ノグチ展」(1992年3月14日–5月10日、東京国立近代美術館)でした。当時、企画・渉外係だった高橋幸次さんの下で準備から携わりました。まだ美術館にはメールもネットも普及していない時代。文書はタイプで打って、サインをもらって郵送でアメリカのイサム・ノグチ財団とやりとり。作品はといえば、巨大な石の彫刻もいくつも含まれていて、合言葉は「怪我人を出さないようにしよう」という感じでした。バランスを考え、どうやって作品を持ち上げるのか、非常に難しいところを、ヤマト運輸のエキスパートの小松保さんや、イサム・ノグチの彫刻制作のよきパートナーでもあった、石彫家の和泉正敏さんの二人の卓越した読みと計算と職人技が合わさって、無事オープンできました。

長名:展覧会を経験される過程で、職人の仕事ぶりを見られていたんですね。

都築:当時、企画展と常設展の会期は一緒で、休館中の展示作業には、多くの業者さんが出入りしていました。企画展の会場と常設展の間の境界をシャッターで仕切れなかったので、作品のある常設の方に業者さんが立ち入らないよう、企画・渉外係が見張り番をしていた時期があったんです。その時に施工作業をじっくり見ることができました。いろんな職人さんの仕事を間近で見て、とても勉強になりました。特に、東京スタデオの堀谷昭則さんという、すごく個性的な展覧会づくりのプロデューサーのようなマルチな方からも色々と学びました。当時はアナログですから、カタログ原稿の締め切りも厳密。カタログ制作会社といって専門の業者さんがあって、編集者の人たちもプロでした。一通り校正を終え、最後の最後に出張校正といって、関連文献を袋に詰めて、カタログ会社に集まって、缶詰になって明け方くらいまでチェックしたものです。お弁当も出たし、タクシー券ももらえたのが新鮮で(笑)。当時のカタログは、今のように派手さはないかもしれませんが、読みやすく、作品が主役というスタンスで作られていて、色褪せないと思っています。展覧会が開くと、関係者みんなで飲みに行く、それで終わりという感じ。当時は講演会も数回くらいで、展覧会が開けば仕事はひと段落、オンオフがはっきりしていました。展覧会というものは、大体2か月くらいの期間ですが、そこにかける情熱にはすさまじいものがあると感じましたね。

「手塚治虫展」(1990年7月20日–9月2日、東京国立近代美術館)の会場写真(撮影者:坂本明美)当館アートライブラリ所蔵
「イサム・ノグチ展」(1992年3月14日–5月10日、東京国立近代美術館)の会場写真(撮影者:坂本明美)当館アートライブラリ所蔵

実地で学んだ日本美術

長名:学生時代は西洋美術がご専門だったわけですが、日本美術についてはどのように学ばれたのでしょうか?

都築:着任当初、まったく日本美術のことは知りませんでした。なので、最初の頃はひたすら作家名にふりがなを振って、必死に覚えました。近代日本に関する知識がないまま、企画展に関わっていたので、1年くらい経って、周りの人がざわざわしだして、どうやら彼女は画廊巡りをしていないんではないかと(笑)。それで当時、美術課の主任研究官だった千葉成夫さんに連れられて、銀座の画廊巡りを教わりました。それと1991年頃、電気工事の関係で東近美が休館に入った際、日本経済新聞社との共催で「近代洋画の名作」と「近代日本画の名作」という巡回展(註1)を担当しました。それで既存の作品解説を読んだり、作品を選んでみんなに解説を書いてもらったりしました。巡回先には「展示指導」と「撤収指導」という名目で出張ができて、グルメ情報を携えて、現地の学芸員さんたちと交流したものです。

長名:そこで輪が広がって行ったのですね。

都築:そうですね。当時知り合った方々とは今も繋がっています。その後、美術課の絵画係に異動して、作品の貸し借りを通じて、実地で日本美術について学びました。

長名:あと「写実の系譜」に関する資料も挙げていただいておりますが?

都築:「写実の系譜」は、日本美術における写実の問題を取り上げたシリーズの展覧会でした。日本美術を学ぶ上で、とても参考になりましたが、最後の4回目の「「絵画」の成熟:1930年代の日本画と洋画」展(1994年10月1日–11月13日、東京国立近代美術館)を担当することになったんです。この展覧会を担当している時、お腹に子どもがいたんです。母からは、私が生まれる直前まで働いていたと聞いていたので、そういうものかと思って、ぎりぎりまで仕事をしていたら、当時の庶務課長が頼むから休んでくれって(笑)。帝王切開で出産日が決まっていたので、早めに入院していたんですが、原稿の締め切りが控えていたので、外出届を出して実家で原稿を書いていました(笑)。さすがに産後は休みましたけど、全然傷も痛まなくて、1週間で退院。それで8週で復帰して、作品の集荷に行かないといけない。2か月で子どもを預けて働いていました。

長名:壮絶なお話、あまりにパワフルすぎます。

都築:今では考えられないかもしれませんね(笑)。一番嬉しかったのは、娘が、親の大変さを見て仕事をしたくない、というようなことは言わず、自分も働き続けたいと言ってくれたことですね。妊娠が分かった時、岩崎さんは「ある時から手が離れるものだから、一時的に大変だとしても、乗り越えちゃえば大丈夫だから」と。今は美術館で働く女性も増えましたけれど、男女関係なく、子どもが熱を出したから仕事ができないとか、親の介護をしないといけないとかありますよね。どんな人でもフルパワーで働けるわけではないですよ。けれど、その中でも持続していくことはすごく大事。フルパワーでやり続ける必要はない。大事なことは、持続していける環境づくりだと思っています。

「「絵画」の成熟」展(1994年10月1日–11月13日、東京国立近代美術館)の会場写真(撮影者:坂本明美)当館アートライブラリ所蔵

コレクションの活用

長名:コレクションと展覧会についてお聞かせください。

都築:そうですね、ちょうど本江さんが多摩美術大学に移る前、「所蔵作品による20世紀の“線描”:「生成」と「差異」」展(1998年5月23日–6月28日、東京国立近代美術館)を一緒にやろうと誘われました。展覧会のコンセプトはパウル・クレーの「芸術とは目に見えるものを再現するのではなく、目に見えるようにするのだ」という言葉と、所蔵作品だけで1階の会場を使ってやるというだけ。それ以外何も決まっていなかった(笑)。なので、せっせとこの作品はどうですか?と確認しながら作品選定をしていきました。本江さんは「これから美術館は冬の時代になる。だから知恵を絞って、所蔵作品を活用して凌いでいくしかない。全点カラーで図版の入るような図録を作らずともよい、ささやかな、しかし宝箱を開けたような尊い展覧会にするんだ。これからの時代の指標になるべき展覧会になるはず」と仰っていました。

長名:近年、コレクションの活用はますます重要性が増していると感じています。

都築:コレクションの活用という話ですと、1997年に国立西洋美術館と一緒に開催した「交差するまなざし:ヨーロッパと近代日本の美術:東京国立近代美術館、国立西洋美術館所蔵作品による」展(1996年7月20日–9月8日、東京国立近代美術館)も挙げられます。当時、西美が工事で展覧会ができない期間があって、それでコレクションを使って一緒に何かできないかと。互いのコレクションを使って、若手を中心に展覧会を企画しようということになりました。けれど、お互いのコレクションのことをまったく知らない。ということでコレクションを知るために収蔵庫を行ったり来たりして、章の解説についても議論しながら作っていきました。

長名:とても興味深い試みですね。

都築:たとえば、モネの絵にはジャポニスムというか、浮世絵の影響があると言われていますよね。しかしそれは浮世絵自体の芸術的価値が素晴らしいという意味よりも、影響を受けた受け手側の内発的な欲求が大事ではないかと思うのです。西洋ではルネサンス以降の窮屈なアカデミズムの弊害を感じている時期に、そこから抜け出したい欲求があって、そこに浮世絵の構図や描き方、平面性のようなものが影響を与えたわけです。それは日本側の働きかけというよりも、受容側である西洋の文化の問題。矢代幸雄は、『日本美術の特質』(岩波書店、1943年)の中で、日本美術の特徴を「印象性」「装飾性」「象徴性」「感傷性」と言っています。そうした特徴が、ルネサンス以降のシステムから解放されようと葛藤する西洋の中で、新たな価値として見出されていく機運と通じるところがあった。それを問うたのが、この小出楢重が昭和5年に出した『油絵の新技法』(中央公論美術出版社、1964年)(註2)という本です。明治期に日本が出会った西洋とは、ジャポニスムを受け入れた後の西洋であって、ルネサンス以降のがっちりとした西洋文化の根幹と直接対峙していないことを問題として書いています。つまり、近代日本の画家たちが出会った西洋は、ヨーロッパ文化の根底にある、とっつきにくい写実ではなかったわけで、自分たちにもなじみやすく受け容れやすく変容していた表現を含んでおり、安易に影響を受けがちな面を持っていたと。それゆえ、1930年頃、様々なイズムが日本に流入する状況に対し、大元の根っこがないままであると指摘しています。梅原龍三郎もそのような日本のあり方を「出店芸術」と揶揄していました。また、「日本近代美術の開幕:洋画・日本画・彫刻」(『週刊朝日百科:世界の美術』131号、1980年)の中で、河北倫明さんは、日本の近代は西洋化=近代化でよしということを意味しておらず、同時に日本の独立、独自性を作っていくことも含み込んだ近代を目指している、ということを簡潔に述べています。

高橋幸次、都築千重子編『所蔵作品による20世紀の”線描”:「生成」と「差異」』(東京国立近代美術館、1998年)
「交差するまなざし」展(1996年7月20日–9月8日、東京国立近代美術館)の会場写真(撮影者:坂本明美)当館アートライブラリ所蔵

長名:こうした視点は「交差するまなざし」展を経て考えるようになったのでしょうか?

都築:そうですね。文化というのは、受け手側の問題で、ちょうど欲している時に出会わないと合致しないもの。日本の美術についても、西洋からの影響という話だけでなく、当時の日本にはどういう欲求があって、それがどのような表現と合致したのか、そういう視点で見直すことはとても大事だと思っています。この問題意識はリーバーマンとも重なりますね。彼はドイツ印象派と言われますが、普通、印象派と言えばフランスですから。当然、ドイツ印象派といってもその印象派はフランスのそれとイコールではない。その差異の部分が重要なわけです。色々な差異と表現を認め、多様な在り方を尊重できるようになっていくと、もう少し文化に対する面白さや広がりが出てくるんじゃないかと感じています。展示を見た本江さんが、「こうやって西洋の作品と日本の作品とを並べると、見劣りしないね」と。当時、西洋美術館の館長だった高階秀爾先生からも高く評価していただいたのを記憶しています。

長名:今まさに大切な視点ですね。多くの示唆のある展覧会をご紹介いただきました。多岐にわたる貴重なお話を本当にありがとうございました。

都築:いえいえ。今年3月で定年退職いたしましたが、本当に何も知らない人間がひょこっと入ってきて、ここまでこれたのは、いろんな方々と出会い、教えていただいたり、経験できたことによるところが大きかったと思います。様々な分野のプロの方々と接することで、世界も拡がり、自分の糧になりました。こう振り返ることができるのもその方々のおかげです。仕事を通じての出会いや経験がとても貴重な宝と感じています。

  1. 「近代洋画の名作:東京国立近代美術館所蔵」展は呉市立美術館(1991年3月21日–4月21日)、福岡県立美術館(4月26日–5月26日)、福島県立美術館(6月6日–7月7日)、豊橋市美術博物館(7月19日–8月18日)、北海道立旭川美術館(8月24日–9月29日)を巡回。「近代日本画の名作:東京国立近代美術館所蔵」展は石川県立美術館(1991年4月26日–5月19日)、香川県文化会館(8月31日–9月29日)を巡回。
  2. 初版は『油絵新技法』アトリエ社、1930年。

都築さんの本棚

  • ジャン・ルノワール『わが父ルノワール』粟津則雄訳、みすず書房、1964年
  • 東京国立近代美術館編『19世紀ドイツ絵画名作展:プロイセン文化財団ベルリン国立美術館所蔵』東京国立近代美術館、1985年
  • Max Liebermann in seiner Zeit, München : Prestel, 1979.
  • Peter Paret, The Berlin Secession: modernism and its enemies in imperial Germany, Cambridge, Mass., Belknap Press of Harvard University Press, 1980.
  • 東京国立近代美術館編『手塚治虫展』東京国立近代美術館、1990年
  • 東京国立近代美術館編『イサム・ノグチ展』東京国立近代美術館、1992年
  • 東京国立近代美術館編『近代洋画の名作:東京国立近代美術館所蔵』日本経済新聞社、1991年
  • 東京国立近代美術館編『近代日本画の名作:東京国立近代美術館所蔵』日本経済新聞社、1991年
  • 東京国立近代美術館編『洋風表現の導入:江戸中期から明治初期まで』(写実の系譜1)、東京国立近代美術館、1985年
  • 東京国立近代美術館編『大正期の細密描写』(写実の系譜2)、東京国立近代美術館、1986年
  • 東京国立近代美術館編『明治中期の洋画』(写実の系譜3)、東京国立近代美術館、1988年
  • 東京国立近代美術館編『「絵画」の成熟:1930年代の日本画と洋画』(写実の系譜4)、東京国立近代美術館、1994年
  • 高橋幸次、都築千重子編『所蔵作品による20世紀の”線描”:「生成」と「差異」』東京国立近代美術館、1998年
  • 『交差するまなざし:ヨーロッパと近代日本の美術:東京国立近代美術館、国立西洋美術館所蔵作品による』東京国立近代美術館、1996年
  • 矢代幸雄『日本美術の特質』岩波書店、1943年
  • 小出楢重『油絵の新技法』中央公論美術出版、1964年
  • 「日本近代美術の開幕:洋画・日本画・彫刻」『週刊朝日百科:世界の美術』131号、1980年

『現代の眼』637号

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