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現代の眼 展覧会レビュー ガウディ展を見て

藤森照信 (東京大学名誉教授・東京都江戸東京博物館館長)

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ガウディの作品も人生も、長いこと濃い霧に包まれていた。たとえば、電車に轢かれて亡くなった時、ただの貧しい老人と思われて病院にしばらく放置されていたとか、あるいは当時のスペインではさして評価されていなかったとか。

こうした人生を包む霧は、この度の展覧会で完全に晴らされ、当時の生の資料により、町の人々からも国からも高く評価されていたばかりか、1910(明治43)年にはパリのグランパレで大きな展覧会が開かれ、工事中のサグラダ・ファミリア教会も展示されていた。ただし、理解はされなかったらしいが。

人生以上に濃い霧に包まれてきたその造形の謎については、正面から取り組まれ、 “自然界の造形”“幾何学”“オリエンタリズム”などに分けて詳しく展開されている。

私が目を開かれたのは“幾何学”に関わる展示で、ガウディが世界で初めて活用し、独創的な外観と内部空間の基本となる放物線と放物面が何をヒントに発見されたかについて、「エジプトの鳩小屋」だというのである。誰でもマサカと訝しく思うが、実際のエジプトの鳩小屋の写真や鳩小屋についての歴史的資料を並べられると、誰でも納得せざるをえないだろう。

鳩小屋デザインはまず1893(明治26)年の〈タンジール計画〉にスタートし、続いて1908(明治41)年には〈ニューヨーク大ホテル計画〉を産み落とす。かのガウディがなにゆえあってニューヨークに建つ360mもの高さのホテルと取り組んだのか。鳩小屋がその珍しい造形性を失わないまま超々高層化したのである。

工事中のサグラダ・ファミリアを見に来たアメリカ人に頼まれて—ということらしいが、スペインの大学から運ばれた鉛筆描きの平面と立面図を目の前にすると、本気だったと思わざるをえないが、謎は深まるばかり。

会場風景|右は《ニューヨーク大ホテル計画案模型》|撮影:木奥惠三

この謎のホテル計画を間に挟んで、エジプトの鳩小屋デザインは工事中のサグラダ・ファミリアに取り込まれ、ガウディ存命中に4本の尖塔として実現している。それにしても、もしあの印象深いトウモロコシのような尖塔をガウディが産み出さなければ、そして4本だけでも実現していなければ、その後のサグラダ・ファミリア人気はなかっただろう。現在までに10本近く完成し、近い将来、10数本で完成を無事迎える、と完成予定模型で初めて知った。

会場風景|左:ガウディによる「降誕の正面」の彫刻(1898-1900年) 右:外尾悦郎による「歌う天使たち」(1990-2000年に設置) |撮影:木奥惠三

展示物の中で一番いい場所を占めているのは、教会の入口上方に取り付けられている彫刻の石膏像の群れだった。大量の資料が集積していた製図室も彫刻室も模型もスペイン内戦の時の爆撃で破壊され、ほとんどの生の資料が失われた中で、唯一残った、それもバラバラになって残った資料にほかならない。穏やかな表情を見せる女性の顔は鼻と顎を欠き、手足がちぎれた女性像は天を見上げ、少年像は手足と顔が欠けている。いずれも痛ましいが、その年月を経た汚れと欠損が、これらの彫刻に心血を注いだガウディの手の痕をにじませてやまない。よくぞこうしたガウディの想いのこもった直接の資料を教会は日本まで送ってくれた。

建築展というもの根本的困難は、建築の実物が展示不可能という点にあり、この欠を補うため、図面、模型、古写真、関係史料などの二次資料を大量に集めるしかないが、よくぞ集めたと感服した。世界各地でいろんな内容のガウディ展、サグラダ・ファミリア展がこれまで開かれ、これからも開かれるにちがいないが、これだけの質と量は滅多にないだろう。

なぜ可能になったかを考えると、二人の日本人の力によるにちがいない。一人は11年も現地で研究を続けてスペインでも高い評価を得てきた本展監修者の鳥居徳敏氏、もう一人は今日まで50年近くにわたりサグラダ・ファミリアの現場で彫刻を彫り続けてきた外尾悦郎氏。二人の長年の労に対し天のガウディは微笑んでくれたのだろう。

『現代の眼』638号

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